Little friend
航続距離3000キロ。巡航で飛べば3時間以上も空を舞うことのできる現代の猛禽類達。
人の手によって生み出された鋼の戦翼は、多くの時間と犠牲を代償に黎明期では考えられぬ進化を見せていた。
「ハア・・・ハア・・・ウッ・・・グ・・・」
シートに押さえつけられる。いや、叩きつけられると表現した方が適切か。
重い操縦桿を引いた瞬間、身体を襲う強烈な衝撃。プラスGに一瞬息を詰まらせながら楓は顔を顰めた。
空は等価交換の世界だ。
クルクルと闇雲に旋回半径を競う戦いは、既に過去のもの。
エンジンパワーとスピード。そして、高度。この3つの数字を可能な限り高く保つ。
冷徹なパワーマネージメントこそが生死を分ける分水嶺となる。
「後・・・な・・・ウグッ・・・何分・・・よッ?」
パワーダイブからシャンデル。だが、新たなレーダー照射に楓は操縦桿を倒し、フットバーを蹴飛した
変形のスライスバック。反転上昇の途中で、ロールをうったアドヴァンスイーグルは、そのまま背面降下へと機動を繋げ、東日本生まれの猛禽の爪を躱す。
身体を締め付けるのはGだけではない。下半身は勿論のこと、胸を覆うベストまでもが高圧空気の力を借りて身体を締め付け、血液の降下を抑えにかかる。
霞む視界の中、HMDに表示される高度計の数字が恐ろしい勢いで減っていく。
Gに嬲られ、痺れるような感覚の中、後悔の炎が胸を焼いた。多数の敵機に追われる中、必死に稼いできた高度があっという間に消える。
ロールを織り交ぜながらシザース。考える暇がない。時折光るジェットエンジンの煌めきとDCからの指示を頼りに機体を振り回す。
乱戦だった。初撃でAWCSを、さらにはスクランブルで上がった機のほとんどを撃墜された西日本航空自衛軍は混乱の極みにあった。
―――スクランブル、15分待機、30分待機・・・厚木が生きていれば援軍が・・・
体力の消耗とともに悲観的な考えばかりが頭を過ぎる。
「Rigel Check6 Bogey」
「・・・ハア・・・ハア・・・Rog」
―――後・・・何分だ・・・?
一人じゃないと励ますかの様に、タイミングよくDCからの指示が耳を打つが、今聞きたいのは騎兵隊の到着を知らせる声だ。
思考力が落ちていた。気力も。軽口を叩く余裕もない。
真っ暗な空の中、複数の敵機に取り囲まれている状況は、酷く戦意をそぎ落とす。まともにレーダー画面を覗いている暇もなかった。
無駄と分かっているが反射行動で、Gに逆らう様にしながら首を後ろに回す。広がる暗夜。敵機の姿は見えない。
「クソッ・・・」
楓は短く罵った。
DCからの位置情報。HMDに敵機を示すカーソルが映り込む。
ウエポンセレクトスイッチに親指を滑らせるが・・・無理だ。間に合わない。そのまま押し込まれるスロットル。
加速しながらイーグルが翼を翻す。攻撃は最後だ。今は逃げることを優先する。こいつが囮である可能性もあった。数の多い敵には、まだ余裕がある。
「ハア・・・ハア・・・ハア・・・」
シューシューと音を立てる加圧式呼吸装置と自分の吐息がやけに耳につく。
HMDを装備し、高い通信能力と電子戦能力を持つアドヴァンストでなかれば、ここまで粘れなかっただろう。
錯綜する戦域。雲の多い夜の空は酷く暗い。多数のフランカーに追い回され、思考を纏める暇がない。
レーダーはAA(対空)モード、オートサーチ。HMDに表示される自機とDCからの目標情報を頼りに・・・、
「ゥ・・・アッ・・・クッ」
警報が消えた瞬間、操縦桿を僅かに引く。速度を出来るだけ殺さず高度を稼ぐ。僅かな機会を逃さない。
1秒足りとも時計の針は刻みを止めないのだ。それは自機も敵機も同じ。亜音速で飛ぶ現状、1秒あれば機体は300m以上進んでいる。
―――昼間だったら・・・
夜で良かったと心底思う。いくら機体性能が高いといっても、昼間だったらとうに詰んでいる。
読まれやすい直線飛行を避け、トリッキーに機体を振り回す。いくら機械が優れようと操っているのは人間だ。
視界外戦闘(BVR)は電子戦能力と搭載しているミサイルの性能で決まるが、ドッグファイトは人間の技量が介在する余地が大きい。それも夜間となれば尚更だ。
いくら技術が進もうと夜を完全な昼に変えることは出来ない。それにアドヴァンストには不完全ながらステルス機能も付与されている。
―――粘れ・・・粘れ・・・
朦朧とする意識の中、楓の胸中にはそれしか無かった。
敵がどれだけの戦闘機を投入しているかは分からないが、ここで何機かの敵を拘束する意義はある。
少しでも後方策源地への敵戦力の侵入を防ぐ。そして・・・無限に空を飛ぶことの出来る戦闘機は、この世に存在しない。
互いの航空基地が近いし、東の装備するフランカーは脚の長いことでも定評のある機体ではあったが、それでも1時間も2時間も戦闘機動ができる訳ではない。
高空を巡航速度で流すならともかく、エンジンを吹かす戦闘機動は燃料消費量が跳ね上がる。今日の様な比較的低空での戦いならなおさらだ。
せいぜい20分、長くても30分が限界。燃料切れで敵機を追い返すことが出来れば、それは撃墜と変わらぬ戦果といえた。
互いの命を賭けた根競べ。伸るか反るかは己の技量次第。楓は宙空を見上げた。
緞帳の様に空を覆う雲は月の光を閉ざし、夜の闇を深くする。暗視装置越しだというのに「闇」が目に沁みる。
暗視装置越しの緑と黒の入り混じった視界。それは何時も見慣れた空とは、一線を画す世界だった。
ミニAEW機というべきか。戦闘機をリンクで繋ぎ、戦闘情報を共有する。
現在では当たり前となったシステムだが、その有用性が消えた訳ではない。
ましてや、後席には指揮管制の専用教育を受けたレーダー士官(RIO)まで乗せているのだ。無駄な訳がない。
西日本空軍に比べ、AWCSの整備に遅れを取った(勿論、理由はそれだけではないが)東日本は、戦闘機にAWCSの機能の一部を補完させることで劣勢を補おうとしていた。
大出力を誇る地上早期警戒網と航空管制指揮能力を持った戦闘機を小隊ごと、または中隊ごとに配備し、より前線で統制にあたる。
AWCSの有用性は語るまでもない。だが、世界最強の航空戦力を有するアメリカ空軍を後ろ盾とする西日本軍から脆弱なAWCSを守るに祖国の空は狭すぎた。
制海権は敵の手にあり、日本海側(太平洋側については語るまでもない)も安全ではない。
探知距離を考えれば、周辺の「東」側諸国領空からも指揮管制は可能であったが、東日本軍はそこまで同盟国を信用するほど能天気な頭をしてはいなかった。
絶対的な制空権、もしくはそれに準じる安全な空域を確保できなくては、大型旅客機に毛が生えた程度の防御力しかもたないAWCSを飛ばせない。
それは今回の戦いでも証明されていた。第1目標とされた西日本空軍のEー2やEー767は、開戦劈頭の対レーダーミサイルの餌食となっている。
落とされた機体の中には、沿岸から100キロ以上はなれた太平洋上を飛行していたものさえあった。自分達に出来て西側に出来ない訳がない。
戦場に理想的な兵器はあっても絶対的な兵器は存在しない。
運用方法やその他の装備での代用。「勝利」ための手段は無数にある。
一部戦闘機のAEW機としての運用は、AWCSほどの効能はない。いくら指揮管制官を乗せているといってもレーダーや通信機器の性能が低いからだ。
しかし、その抗たん性については圧倒的なものがあった。戦闘機とAWCS、どちらの撃墜が困難かなどもやは語るまでもない。
いくら電子戦能力に秀でていようとも所詮は輸送機の延長線であるAWCSの脆弱性は誰の目にも明らか。その反面、戦闘機なら単機での自衛能力も期待できる。
そして、東日本空軍が装備する89式戦闘機はAEW機としての運用にも十分に耐えうる性能を有していた。
大柄でパワーのある機体は、より大量の燃料と装備を積み込むことができる。レーダー機材に、それに付随するコンデンサーや冷却装置も。
機外へのポッド装備とすれば電子戦闘機としてECM、ECCM能力の付与さえ可能だった。
ライバル機であるF-15がその拡張性の高さから制空戦闘機からマルチロールファイターとしても生まれかわったように、89式戦闘機もまた高い発展性を持っていた。
「それにしても良く動く奴だ・・・八咫烏01より02へ。進路260、高度200だ。低空に追い込め!」
後席に座るレーダー士官(RIO)が部下達を操る声を聞きながら、東日本空軍第343戦闘航空隊所属、源田光則大尉は時折、夜空に光るアフターバーナーの
の火を見つめた。彼の眼前には源田自身が手塩に掛けて鍛え上げた部下達に追われながらも未だ抵抗を止めない一機のイーグルの姿があった。
監視する自分の機体を入れれば、都合6機の89式に追われながら、すでに奴は15分もの時間を稼ぎ続けている。
地上迎撃指揮所の支援を受け、一方的なロングレンジ攻撃で西日本の上げた初動対応機を殲滅した所まで良かった。
ファイタースイープと併せて行われた対地誘導弾の攻撃も考えると西日本軍は大きな混乱に陥っているはずだ。
「無視するべきだったか?」
源田は、自分の下した判断をかみ締めるように一人ごちた。
一方的な虐殺であったはず・・・。そんな絶望的な状況でありながら敵機は反撃まで行ってきた。
舐めてかかり、危うく撃墜されかけた部下の無様な悲鳴は未だ耳に残っていた。これではエース部隊の名折れ。
圧倒的な勝利が己の勝負勘を鈍らせていたのは、もはや否定できない事実であった。
たった1機の敵戦闘機に、北関東に投入されている制空戦力の1割が拘束されている現実。反撃を受け、意地になって追いかけまわした結果であった。
初撃全力とはいえ北陸、関西方面に投入されている機体もある。それを考えれば6機の戦闘機がここで足止めを受ける影響は小さくない。
だからと云って、ここで引くという選択肢もまたなかった。これから西日本本土へさらに侵入するより、このまま国境沿いでファイタースイープを続ける方が益がある。
攻撃を終え、帰る友軍機の退路を確保するのも立派な仕事だ。それに引くという決断を下すには些か燃料を喰い過ぎてもいた。
特に眼下でイーグルを追い回している部下達の89式は酷いことになっているだろう。選択肢はなかった。
「どうした?柴田。お前らしくないじゃないか。敵はたった1機だぞ」
「03はそのまま喰らいつけ・・・。すいません。大尉」
「俺も出るか?」
「3分以内に墜します」
源田の言葉に、前線航空指揮管制を務める柴田明美中尉は少し憮然とした声で答えた。
元はといえば敵機の殲滅に固執した源田の責任でもある。それに軍規では指揮統制機の戦闘参加は厳に戒められていた。
指揮官先頭は、美談としては立派だが実際の戦闘ではあまり褒められた行為ではない。
部下を指揮する者は、状況に埋もれてはならない。可能な限り俯瞰的な立場で臨む。そうでなければ正しく、素早い判断が下せないからだ。
一つのことに没頭する暇などない。明美は座席越し、好戦的な指揮官の背を一瞬だけ睨みつけた。
確かに自分と自分達の機体を守る列機を投入できれば、眼前のイーグルを落とすことは容易いのかもしれない。
源田の操縦技量は、強者の揃った343戦闘航空隊の中でも抜きん出ている。その実力は、状況打開のエースとなりうる。
―――でも・・・
明美は、形の良い愁眉をハの字に歪めた。
上手くいかなかったら・・・もし、戦っている内に新たな敵が襲来したならば、今度奇襲を受けるのは自分達だ。
乱戦だった。直接的には4機の89式がイーグルを追い回している。
レーダー画面から、また一瞬イーグルのエコーが消えた。
―――計器に異常はないけど・・・レーダーの不調か・・・いや、システムには3重の自己診断プログラムが走っている。異常な訳がない。
おかしかったら画面上にシステムエラーが表示される。レーダーも自己診断機能も同時に故障する可能性は、いくら信頼性に乏しい東側電子機器といってもありえなことだった。
それにコイツに積んでいる演算装置とレーダーシステムは、基本設計こそロシア製だが、製造は日本製だ。故障の確立は一桁は低い。
西日本空軍が装備する新型イーグルの多くが対中国戦略、南方重視の施策から九州方面に装備されていたことが明美にとっての不運だった。
情報としては知っている。しかし、実際に彼女がイーグル形態Ⅲ型、アドヴァンストイーグルと会い見まえたのは今回が初めてのことだった。
戦ってみないと分からないことは多い。レーダーエコーの強弱などその最もな例だ。
逆をいえば、たった15分の戦いで敵の正体が新型イーグルであろうと思い立った明美のRIO、前線航空管制官としての能力こそ非凡なものであったといえよう。
―――敵はジョーカーだ。どうする・・・?
夜間、ステルス機を相手取るのは楽なことではない。近接格闘戦に陥っている現在ではなおさらのことだった。
イーグルを追う89式も前線管制機の存在が無ければ、ただでは済まなかったかもしれない。
レーダーに再び映るイーグルのエコー。95式と同じ最新式レーダーシステムを搭載しているとはいえ、低空では地上雑音も多い。
その上、明美の仕事は1機のイーグルを追い回すだけではない。混乱から立ち直った西日本軍から小隊を守るのも彼女の重要な仕事だった。
3面パネルの一つに映し出される敵性電波の中には、西日本軍の使用する警戒レーダーの符号もあった。まだ、西日本軍は死んでいない。
「管制機は戦うべからず。予備戦力は常に手元に残しておきたいものだな」
源田の笑いを含んだ声が明美の耳に入る
「逃げ回るだけの敵を墜すのは難しい。乱戦ともなればなおさらだ。敵の腕もいい」
「何が言いたいのですか?」
明美は少し苛立ったように答えた。思考を読まれた様で勘に障る。
ただでさえやることも多いのだ。指揮官とはいえ彼女に源田の無駄口に付き合っている時間はなかった。
早く目障りな敵機を墜さなくては・・・だが、そんな明美の気持ちとは裏腹に源田の口は止まらなかった。
「お前は優秀だ。だが、時に考えすぎる所が玉に傷だな」
「敵はステルスです」
明美は嫌な予感を感じて言った。
明美の考えを源田が正確に読み取っていたように、彼女もまた公私ともに深い関係である源田の思考を読み取ることは容易に出来た。
「早急に撃墜できれば良いですが・・・。そうでなかった場合、非常に危険です」
「3分で墜とすのではなかったのか?」
明美の言葉に源田は笑いながら言った。
「それとこれとは話が・・・」
「敵はラプターか?」
「いえ・・・噂の新型イーグルだと思います」
「その根拠は?」
「ある一定方位以外では確かなレーダーエコーがあります」
「上出来だ」
明美の答えに源田は浮かべる笑みを大きくした。
夜空に光るアフターバーナーの煌めき。操縦桿とスロットルを握る手に力を込める。
待っていろよ・・・源田は獲物を前にした猛獣が舌舐めずりをするかのように口びるを湿らせた。
「イーグルならなんら恐れることはない。行くぞ」
短く伝え、機体を急降下に入れる。
パワーダイブ。機動を読まれない為に、不規則な楕円を描きながら旋回を続けていた89式が大地へ向かって突進を開始する。
「大尉ッ!クソッ、06はそのまま上空監視を続けろッ!高度を下げるなッ!」
大きく高度を下げる89式戦闘機に、明美は反射的に警戒任務を列機の06に割り振る。
「悪いな。俺の失策は、俺自身の手でケリをつける」
源田の楽しそうな声が明美の耳をうつ。
だが、明美は無言を貫き、源田の声を無視した。胃がせり上がってくるかの様な猛烈なマイナスGの中、彼女にはやることがあった。
小隊内リンクの優先順位を入れ替える。指揮管制用に改造された複座型ではないし、レーダーも旧式だが止むおえない。
キツネ狩りに興じている間に奇襲を受けるよりはいい。指揮官の「遊び」で部下を失う訳にはいかなかった。
―――本当にしょうがない人だ・・・。
今頃、嬉々とした表情を浮かべているであろう源田の顔を思い浮かべながら、明美は小さく溜息をついた。
「ハア・・・ハア・・・え、援軍はまだなの?」
乾燥した酸素を吸い続けた喉はカラカラに乾いていた。その反面、身に纏うフライトスーツは汗でグッショリと濡れている。グローブも。
クソ重いヘルメットを脱いで汗を拭き、頭を掻き毟りたい。垂れてきた汗が目に入り、酷く痛かった。死にたくないから目を閉じることはしないけれど・・・。
状況はいよいよ拙かった。鳴り響くレーダー警報音がなかなか途切れない。敵機に喰い付かれている証拠だった。
腕が酷く重い。高Gに嬲られた体はヘロヘロ。体力も限界に近づきつつあった。
―――今・・・鏡を見たら凄いだろうな・・・。
ボンヤリとしてきた意識の中、どうでもよいことばかりが頭を過ぎる。
集中力が落ちてきている証拠だった。体力と気力は比例する。
「リゲル。まもなく厚木からの援軍が着く。頑張れッ!」
DCからの声がどこか遠くに聞こえた。警報音が途切れ途切れの単音から長音へと変わる。
「ク・・・クソッ!」
高度が・・・ない。でも、他に手段もない。フットバーを蹴り、操縦桿を押し込む。勿論、スロットルは全開だった。
クルクルと回りながら、急降下。敵の追撃を躱そうと必死に機体を操る。
「Rige Check0-2-0」
馬鹿野郎・・・それは真正面っていうんだッ!心の中で要撃管制官を罵りながら、楓は機体を捩った。
低空をのた打ち回るかのようにシザースを繰り返す。
「Rigel Check6! Check6!」
「ハア・・・ハア・・・ハア・・・Ro・・・ッグ」
云われなくても分かっている。レーダー警報は途切れていない。
後方警戒レーダーが急速に接近してくる小型目標を探知。
レーダー照射の有無から迫る敵ミサイルを識別判断、J/TWESが接近するミサイルをR-77と断定する。
チャフフレアディスペンサーがチャフ弾を連続射出。
アルミを蒸着させたプラスチックフィルムを詰め込んだケースは撃ちだされると同時に自爆、アドヴァンストイーグルの背後にチャフの幕を下ろす。
雲のように広がりってゆくチャフ。アドヴァンストイーグルの姿を覆い隠すようにフィルム片が夜空を舞う。
―――こんな近くで・・・使いやがって・・・。
楓は罵りの声を上げた。
最新鋭のミサイルシーカーはとても賢い。R-77も西側の対空ミサイルと比較しても遜色のない性能を誇る優秀な中距離対空ミサイルだ。
チャフとミサイルシーカーの騙し合い。楓に出来ることは、ただひたすら回避行動を取ることだけだった。
ミサイルシーカーの眼に映るアドヴァンストイーグルの姿が、チャフの幕に覆い隠される。白濁する電子の眼。
今度はチャフの勝利だった。距離測定。チャフの幕をアドヴァンストイーグルだと判断したR-77が近接信管を作動させる。
30キロの高性能炸薬を炸裂させ、コーン上に破片を飛ばすが、目標とするアドヴァンストイーグルの後ろ姿は遙か先。無論、損害を与えることは出来ない。
「ハア・・・ハア・・・も・・・もう・・・」
何とかミサイルを回避したが、危機はまったく去っていなかった。
失われた高度。激しい回避運動により機速も落ちてきている。いくらF110エンジンが低空に強いといっても限度があった。
チャフやフレアを使ったソフトキルも残量から考えて後1度。残量を示す兵装モニターには絶望的な数字が並んでいた。
「まだなの・・・?」
少しでも高度が欲しい。楓は呟きながら僅かに操縦桿を引く。頭上を抑える敵のプレッシャーは見事なものだった。
隙をついて大角度上昇など望むべくもない。鳴り響くレーダー警報音。まただ・・・畜生。楓はフットバーを思い切り蹴った。暗い絶望が胸を覆っていく。
急旋回するアドヴァンストイーグル。激しいGが楓の身体を締め付ける。もう・・・限界だった。
「リゲルッ!後、3分・・・いや、1分持たせろッ!」
「長門ッ!」
耳を打つ声。楓はコールサインを使うことも忘れ叫んでいた。
待ちに待った援軍を知らせる声。
耳朶を打つ最も欲しかった相手からの声に、楓の頭中から一瞬だけ全てが消えていた。
硬直する手足。確かにその声は楓にとって待ち望んでいたものだった。
思考の空白。それまで一分の隙もなく回避行動を繰り返していたアドヴァンストイーグルの動きが単調なものへと変わる。
楓が友軍を待ちわびていたように、彼女を追う東日本空軍パイロット達にとって、それは待ちに待った瞬間でもあった。
「アッ・・・グゥウ・・・ゥウアアアア!」
激しい衝撃と身体に走る痛み。
「楓ッ!」
愛おしい人の声が遠くに聞こえる。
楓に出来たことは、シート下部に備え付けられたエジェクションハンドルを引くことだけだった。