Rigel
この話はリアルとリンクしておりません。
また、国名や人名、主義主張は妄想ですのであしからず・・・
湿気った空気が身を包み、木々の放つ濃い臭いが鼻を付く。
木々だけではない。森に住む獣や虫達が発する様々な臭い。
もっと深く、もっと深く獲物の臭いを嗅ごうと彼女は足を止め、大地を、そして木々の間をゆっくりと流れる大気を大きく吸い込んだ。
そこは緑が支配する世界。白より黒の多いその場所で彼女は周囲を見回すようにゆっくりと頭を動かしながら感覚が研ぎ澄まされていくのを実感していた。
本来の自分への回帰なのか。血が高揚する。
それは、作られた血ではなく、古来から体内に流れる赤い血に刻まれた狩りの記憶が呼びさまされているかのようでもあった。
彼女は動かしていた頭をある一点で止めた。彼女の鼻は、この場所には本来いないはずの獣の臭いを確かに捉えていた。
間違うはずはない。それこそ自分が赤ん坊の頃より嗅ぎ続けてきた臭いなのだ。
彼女はゆっくりとその場に伏せた。それが獲物を見つけた時の合図だった。
彼女の頭に備えられた両の耳が伏せられ、動きを止めた体の変わりにピクピクと動く。
その動きは目標を捉えようとアンテナを回すレーダーのようにも見える。
虫の鳴き声や風に踊る木々のざわめき。その中で、湿った大地を踏みしめる獲物の足音を探すかのように耳を動かす。
「見つけたのか…」
伏せた彼女の後ろで下草が僅かに動く。声を掛けてきた男の顔は塗り繰られた土で何時もより黒く見える。
掛けられた声に動かしていた耳を止め、彼女は男の方を一瞥した。
そして、また一点の方向に顔を戻し、静かに合図を待つ。
カチカチと小さなクリック音が鳴る。
その音で、彼女は男が後ろにいる仲間達に合図を送っているのを理解した。
無線機と呼ばれる遙か遠くにいる仲間の声が聞こえる不思議な箱。
伏せて合図を待つ彼女は無線機がどういったモノかは知らなかったが、無線機がどういった働きをするものなのかは理解していた。
そして、それが自分にどういった関係を為すかも。無線機の横についたボタンを決まったリズムで押す男。
彼女は知らなかったが、男の頬にあてられた骨伝導マイクは男と彼女に次の行動を伝えていた。
男の気配が高まる。それは戦いにつく雄の臭い。
彼女は自分の予想が間違っていなかったことを確信した。男の手が自分の首元に添えられる。
さあ、合図を!いつもの言葉を私に下さい。彼女は伏せる体に力を込めた。
男の顔が彼女の頭に近づけられる。男の吐く息に彼女の耳が微かに揺れた。
「いけッ!」
男の言葉を合図に彼女は飛び出した。
目標は300メートル先を進む3人の獲物達。
大地を掴む四肢が彼女を一陣の風へと変える。
下草のトンネルを抜け、湿気った落ち葉で覆われた道を真っ直ぐに進む。
彼女の目が二人の少女と、その少女を守るようにして歩く男の背を捉えたのは間もなくのことだった。
繰り返されるあの日の夢。でも決まって顔が見えない。
逆光の中、顔が見えない姉に向かって「私」が必死に手を伸ばす。
「嫌だ!嫌だよー。一人にしないで!」
叫ぶ。心の底から私が叫んでいる。結末は分かっているというのに。
夢の中の私は何度も叫びながら、姉に向かって腕を伸ばす。
「大丈夫!すぐに戻ってくるから。すぐに戻ってくるからね」
光の向こう、泣く私を安心させるように姉が笑う。これも同じ。いつもと同じ。
顔が見えないのに姉が笑っているのが分かる。
「約束!かならず亜季の所に戻ってくる・・・約束するから」
安心させるように私の手を握る姉。でも私は結末を知っている。
約束、約束だからと姉は握った手を上下させる。でも、この約束は果たされることはないのだ。
心の中で諦める。破局の足音はすぐ近くまで来ているはずだった。
「いたかッ!?」
「いません!何処に行ったんだ!?糞ッたれ!時間がないっていうのに」
すぐ近くで男達の声が聞こえる。そして、その声に被さるように響く激しい銃声。
(来た…)
絶望が心を覆う。分かっていてもつらい。
私の手を握る姉の手が僅かに震えているのが見えた。
姉も怖いのだ。でも、彼女は最後まで笑顔を浮かべ続けていた。
「これッ!預けとくから!絶対に放しちゃ駄目だよ!」
姉が熊のぬいぐるみを私の腕に押し付けている。
そのぬいぐるみは姉がとても大事にしているものだった。
(嫌だ!嫌だ!行かないで!)
私は叫んだ。姉は帰ってこない。約束は果たされないのだ。
それなのに…
「分かった。早く帰ってきてね」
ぬいぐるみを貰ったことで安心したのか、私は半泣きの顔で頷く。
「私は帰ってくる。それまで隠れているんだよ!じゃあリゲルをお願い!」
「待って!いかないで!」と叫ぶ。でも、私の声は届かない。
ここは失われた時間を永遠に再生し続ける牢獄でしかない。
そう。結末は変わらないのだ。私は暗闇の中、一人、姉を待ち続ける。
響く怒声と銃声。どうせ起きたら全てを忘れている。
粘つくような嫌な感触だけを残しながら…。
「気持ち悪い…」
伏倉亜季は汗で濡れた体を起こしながら呟いた。
ベット脇、サイドテーブルの上に置かれた時計は1時を少し過ぎた所だった。
寝床についたのが11時ぐらいだったから、まだ2時間ほどしか経っていないことになる。
体を動かす度に寝間着替わりに使っているYシャツが拘束具のように体にまとわりつき酷く気持ち悪い。
「また…あの日の夢か…」
額に張り付く髪をかき上げながら亜季は窓の方を見た。
案の定というべきか、薄いカーテンに覆われた窓の外では雨が降っていた。シトシトと大地を叩く雨音が世界を包み込んでいる。
雨の日は嫌いだ。その音に亜季は大きく溜息をついた。
雨の降る夜は決まって昔の夢を見る。森の中、一人泣いていたあの日の夢を。
「今頃、君のご主人様は何処で何をしているんだろうね?」
亜季はベットに置かれた大きな熊のぬいぐるみに話しかけた。
ぬいぐるみの首には平仮名で「りげる」と丸い字で書かれた赤い首輪がついていた。
姉が大好きだったリゲル。でも、その姉は今はいない。
「お前は何か覚えてないの?」
亜季は、もの言わぬリゲルを抱き寄せ、その頬に己の頬を擦り付けた。
年代物のリゲルは少しゴワゴワしたが、未だ柔らかさを失っていない。
あの日、何が起きたか分からない。気づいたら一人だった。
想い出せるのは真っ暗な森の中、一人大きな木に出来た洞の中で泣いていたことだけ。
「お姉ちゃん…」
亜季はリゲルの胸に顔を埋めた。
泣いていた自分に差し出された手。だが、その手は姉のものではなかった。
助けてくれたのは東日本陸軍の軍人達。亜季はリゲルを抱きしめる手に力を込めた。
たった一つの証。姉と自分を繋ぐ唯一の存在。
亜季はリゲルを手放せば全てが消えてなくなりそうで不安だった。
もう顔も思い出せない。でも、姉は確かにいたのだ。
「う…うっう…うう~」
いつの間にか亜季の目には涙が溢れていた。
リゲルの頭が涙に濡れ色を変える。
「寂しいよ…寂しいよ。お姉ちゃん」
雨音に交じる小さな嗚咽。
雨は亜季の悲しみを覆い隠すかのように降り続けた。
「今日のフライトは苦労しそうだわ」
星空を覆い隠す分厚い雨雲。右手の古傷がジクジクと疼く。
西日本航空自衛軍厚木基地、第204航空隊に所属する西村楓は疼く右手を抑えながら恨めしそうに空を見上げた。
深い緑で染められたフライトスーツに覆われた楓の右手には大きな裂傷の後があった。
厳しい航空身体検査をパスしているのだから別に障害が残っている訳ではない。でも、雨の日に限って傷が痛む。
「痛むのか?」
「ちょっとね…でも心配しないで。フライトには影響ないから」
公私共にコンビを務める高峰長門が差し出すマグカップを受け取りながら楓は答えた。
スクランブル発進に備えての待機。まだ夜は始まったばかりだった。
「影響があるなら飛ばさねーよ」
「大丈夫よ。なんなら試してみる?」
「女王様に逆らう馬鹿はこの基地にいないさ」
冗談めかして言う長門に楓は笑いながら腕まくりしてみせた。
袖から現れる傷跡。さり気無く視線を送る長門はそれ以上何も言わなかった。
弱さは隠さない。それが楓の強さでもあった。彼女が大丈夫という以上、心配してもしょうがない。
傷跡を確認するかのように見て袖を直す楓を見ながら長門はフッと笑った。
「何よ?」
笑う長門を見咎め、楓は口を尖らした。
「何でもない。信用している」
肩をすくめて見せながら長門は自分のマグカップに口をつけた。
口内から喉、そして胃の中へと熱い液体が滑り落ちていく。
一瞬の幸福。芳醇な香りと心地よい酸味が体の中に広がる。
カルモ・デ・ミナス。最近、名が知られるようになってきたこの豆は、コーヒーを作るにはギリギリの標高と手間をかけた生産処理により最高の味を誇る。
さすがはコーヒー大国ブラジルの誇る豆だ。当たれば大きいルワンダも良いが、やはりコーヒーはブラジルだなと長門は一人肯く。
だが世の中、コーヒーに拘りを持つ人間ばかりではない。長門は目を剥いた。
「おいッ!」
「何よ?」
「せっかく淹れたんだ。少しは味わってくれないかな。安物のインスタントじゃないんだ」
ビールかなにかのように一気に呷る楓に、長門は棚の方を指差しながら文句を言った。
彼の指の指差す方向には某有名コーヒー店のロゴが入った紙袋が置かれていた。
「ちなみに私物だからな。ちったあ味わえ」
「コーヒーぐらい好きに飲ませてよ」
長門の抗議など完全に無視し、楓はビーカーから二杯目を注いだ。
確かに長門の言う通り、インスタントよりは香りがきつい様な感じがするが逆にそれが煩わしい。
欲しいのは苦味と熱さだけだ。眠気さまし以上にコーヒーに求めるものなどない。
抗議する長門に対し楓は、これ見よがしとまた一気に呷り、すぐに三杯目をマグカップに注いだ。
「そんなにガブガブ飲んで漏らすなよ」
そんな楓の様子に長門は、スクランブルがかかっても知らんぞと付け加えながらため息をついた。
味の分からぬ者、価値を共有できぬ者に何を言ってもはじまらない。
せめての嫌がらせとヤレヤレとオーバーに手と頭を振ってやる。
「フンッ!昨日や今日飛んだ若造じゃないのよ。自分の体調は自分が一番分かって…」
長門の嫌がらせに楓が腰を浮かしかけたその時だった。待機室に警報が鳴り響く。
目を慣らす為に暗く照明を抑えられた部屋に鋭く神経を掻き毟るベルの音が鳴り響き、待機していた隊員達が一斉に格納庫に通じるドアへと走り出す。
「アンタがいらないこというから!」
「俺のせいじゃない!文句なら東の連中に言ってくれ!」
楓と長門も互いに罵り合いながらも待機室から格納庫へと飛び込む。
格納庫の中では、出撃準備を整えた二機のイーグルが彼女達の到着を待ち受けていた。自分の乗機に向かって駆けていく二人。
コクピットに掛けられたラッタルを勢いそのままに駆け上がり、脇に掛けておいたヘルメットを被りながらコクピットへと座る。
楓と長門がコクピットに座りヘルメットを被る頃には、機付整備員達による出撃準備は完了していた。
大きな音を立てて開かれる防爆扉。格納庫にムッとした湿り気が押し寄せてくる。格納庫の外は激しい雨が降り続いていた。
眼前にミサイルの安全ピンを持った整備員が現れ、ピンが抜けたことを知らせてくる。
「視界が悪そうね」
楓は無意識に呟いていた。
広がる暗闇。防爆扉の奥は強い闇が支配していた。
左右に一度大きく振られた誘導灯が外に向け振られる。
「Bandit、How do you read? (こちらリゲル、GCI、感度いかがか?)」
「Rigel Loud and Clear ………(GCI、感度良好 ………)」
楓は、GCI(要撃センター)との無線確認を行いながら、機体を外へと発進させた。
響き渡る轟音。石川島播磨がライセンス生産するF100が鉄の塊を空を翔る大鷲へと変える魔法の言葉を紡ぎだす。
名戦闘機に名エンジンあり。名エンジンメーカーPW社が世に送り出したF100エンジンは単発で10トン以上の推力を叩き出す。
「敵は東みたいだな」
「BB、無駄話は後にして」
グラスコクピット化が進むF-15J戦闘機。初飛行から30年以上経つ老鷲は、近代改装を受け続けることにより未だ日本の空の守護神であり続けていた。
GCIから送られてくる敵戦闘機の情報。合法非合法問わず収集され続けた敵性情報から防空識別圏を飛ぶ敵機の種類は飛ぶ前から分かっている。
長門の無駄口を止めながら楓は液晶画面に映し出される敵機の情報を素早く確認した。この間にもF-15は空を舞う準備を続けている。
(Su-27Jが二機か・・・いつもの急行便ね・・・)
東日本が装備するSu-27は、大雑把なロシア人が作ったとは信じられない美しさを持つ大型制空戦闘機だ。
一目で空力性能に優れていると分かる見た目に違わない性能を持つ。
ロシア人が設計し、日本人の緻密さによって組み上げられたSu-27J、通称JフランカーはF-15にとっても侮れない強敵だった。
楓は気を引き締めた。指導者の交代時期が近付きつつある東日本は混乱の度合いを強めつつある。
「偶発的」事故が起きないとは限らない。同じような経緯を持つ隣国がフリゲート艦を撃沈されたのは、つい最近のことだった。
「Rigel、Runway01 Cleaerd Take Off!(滑走路クリアー。リゲル、発進せよ!)」
「Rog、Rigel、Take Off!(了解。リゲル、発進する)」
楓はスロットルを一杯まで押し込んだ。
ガチッと一度止まる所から、さらにもう一度。ミリタリー出力。地上に繋ぎ止められていた大鷲は咆哮を上げ、大空へと駆け上る。
「Rigel、Good Hunting(良い狩りを、リゲル)」
「Thank You Bandit」
酷く好戦的な管制官の激励に苦笑いを浮かべながら、データリンクで送られてくる座標に向け楓はF-15を向けた。
後ろは見ない。長門がついてきていることは見ないでも分かった。
「雲が厚い」
キャノピーを叩く雨と星空を覆う雲が夜をさらに暗し、楓の体を闇が包み込む。
体が空に投げ出されているかのように感じるF-2支援戦闘機ほどではないものの、イーグルのコクピットも抜群の見晴しを誇る。
夜間視力を奪わないよう淡い緑で表示される情報を見ながら楓は呟いた。
空間失調症一歩手前。計器の助けが無くては自分がどういう態勢でとんでいるかも分からない。
GCIから送られてくる情報を元にHUDに映し出されるキューポイントに機体軸を合わせる。
「雨の日は嫌いだ」
小さな頃、妹を庇って犬に噛まれた傷。操縦桿を握る右腕に鈍痛が走る。
今頃、あの子はどうしているのだろうか?楓は雲に覆われた空を見上げた。
「貴方もこの空を見上げているのかしら?」
何も映さない真っ暗な空。
楓は妹の泣き顔をキャノピーに見た気がした。
「馬鹿・・・」
楓は樹脂製ヘルメットに覆われた頭を僅かに振った。
守れなかった約束。たった一人山に取り残された妹が生きている可能性は小さい。
それに………楓は浮かんだ可能性を必死に打ち消した。生きていたとしても会える可能性は皆無といって良い。
彼女の頭の中に浮かんだ場所はある意味、宇宙より遠い場所だった。東日本人民共和国。
楓にとってその国は打倒すべき相手。小さな島を二つに分け、西日本が覇権を争う敵国だった。
「雨の日は嫌いだ」
何かを忘れないように疼き続ける右腕。楓はもう一度、空を見上げながら呟いた。
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