骨の髄まで私を愛してくれた恋人は、私の財産を奪うために付き合っていただけだった
朝比奈美緒は法律事務所の応接室で、最後の書類に署名した。
養父の御影宗一郎は、すでに養子離縁届への署名を済ませている。美緒が日本を発つ七日後、双方の委任を受けた弁護士が正式に提出する手はずになっていた。
担当弁護士が机の上の書類をそろえる。
「離縁後は朝比奈姓に戻ります。御影家の資産管理信託に関する受益権、星凪島の終身利用権、宗一郎さんが予定されていた株式の譲渡についても、すべて辞退する。それで間違いありませんね」
「はい」
十二歳の春、母の再婚を機に、朝比奈美緒は御影美緒になった。
御影朔也が「叔父さん」になったのも、その年だ。
十八歳のとき、先に彼女へ口づけたのは朔也だった。
それから四年。
二人の関係は、家族にも伏せたまま続いてきた。
七日後、朔也は鳳条玲奈と結婚式を挙げる。
同じ日に、美緒は日本を離れる。
弁護士が書類を封筒へ戻した。
「では、予定どおり進めます」
美緒はうなずいた。
あと七日。
十年暮らした場所を出るには、それだけあれば十分だった。
1
法律事務所を出た美緒は、そのまま白凪丘にある御影家の本邸へ戻った。
車を降りようとして、少し離れた場所に停まっている黒のセンチュリーが目に入る。後部座席のプライバシーガラスは完全には上がっていなかった。
中にいたのは、御影ホールディングス専務取締役の御影朔也と鳳条玲奈だった。
玲奈が腕を首に回し、朔也へ口づけている。朔也は拒まず、もう一度玲奈が身体を寄せたところで面倒そうに眉を寄せただけだった。
「自分を傷つけるなんて言って、俺を呼び出すのはやめろって言っただろ」
「でも来てくれたじゃない。少しくらい一緒にいてほしかったの」
玲奈は笑いながら、彼の胸元へ身体を預けた。
朔也が顔を横へ向ける。
シャツの襟から、鎖骨に刻まれた文字が見えた。
MIO。
美緒が十八歳のとき、自分の手で入れたものだ。
冷たい風の中で立っていた美緒は、バッグからスマートフォンを取り出した。何年も一番上に固定してきた番号を呼び出す。
呼び出し音はほとんど鳴らなかった。
「美緒? どうした」
「叔父さん、今どこ?」
「俺に会いたくなった?」
電話の向こうで朔也が笑う。
「ちょっと用事ができてさ。あとで本邸に戻るよ。夕飯は一緒に食べよう」
そこへ玲奈の声が入った。
フランス語だった。
「あなたが欲しい」
朔也も同じ言葉で返す。
「調子に乗るな」
耳元のスピーカーから聞こえる声と、目の前の車内から漏れる声が重なった。
美緒は通話を切った。
しばらくして車体がわずかに揺れる。
それ以上見る気にはなれず、本邸へ入った。
リビングでは、母の由香が冬のチャリティーイベントの資料を整理していた。美緒はヴェルナ国立舞踊学院から届いた合格通知をテーブルへ置く。
「お母さん、行くことにした。バレエの研修、受かったから」
「ヴェルナに?」
「うん。七日後に出る」
由香は目を見開いたあと、嬉しそうに表情を緩めた。
「また踊る気になったのね。ただ、七日後って随分急じゃない? 向こうは寒いし、佳澄にも連絡しておかないと。あの子なら長く住んでるから、何かあっても頼れるでしょうし」
玄関から足音がした。
朔也だった。
ジャケットを腕に掛けたまま入ってきた彼は、美緒を見てから、テーブルの書類へ視線を移す。
「ヴェルナ? 誰か行くの?」
美緒は彼の顔を見た。
さっき見えた刺青はシャツの下へ隠れ、身体からは別の香水がした。
「お母さんの友達」
そう言って、通知書を閉じた。
夕食を早めに切り上げ、美緒は自室へ戻った。
扉を閉めた直後、後ろから入ってきた朔也に抱き寄せられる。顎が肩に乗り、そのまま腰へ腕が回った。
「今日、何か変じゃない? 電話のときもそうだったし、夕飯でもほとんど喋らなかった」
腰に触れていた手が上へ滑る。
美緒はその腕を外した。
シャツの襟元に、まだ消えていない痕が残っている。
「叔父さん、私のこと好き?」
朔也の目が細くなった。
数秒、美緒の顔を見つめたあと、ポケットからスマートフォンを出す。
「誰かに何か言われた? 気になるなら、ここ三か月の予定も会った相手も秘書にまとめさせるけど」
「いい」
美緒は彼の手を押さえた。
月浜の社交界では、朔也が血のつながらない姪を可愛がっていることは有名だった。
十八歳の誕生日には、御影家の資産管理会社を通して星凪島を取得し、島に建てた天文台を「MIO」と名づけた。美緒には島の終身利用権まで与えた。
気分が沈んでいた時期には、仕事を空けて北方までオーロラを見に連れていったこともある。
十七歳のとき、美緒は御影家と対立していた企業関係者に誘拐された。
監禁された倉庫で火災が起き、彼女を助けに入ったのも朔也だった。美緒は軽傷で済んだが、朔也は火傷と一酸化炭素中毒で数か月入院した。
周囲から見れば、姪を甘やかす叔父だった。
二人の間には、家族には言えない関係があった。
由香が宗一郎と再婚したのは、美緒が十二歳のときだ。普通養子縁組をしたことで、美緒は朝比奈から御影へ姓を変え、朔也は戸籍上も叔父になった。
十六歳を過ぎた頃から、美緒は彼の好きな本や映画を片っ端から覚えた。
若い頃に欧州で暮らしていたと聞き、フランス語も勉強した。
十八歳になった年、美緒の気持ちに気づいた朔也が彼女へキスをした。
表には出せない関係でも、そばに置きたいのは美緒だけだ。
そう言われたこともある。
半月前までは、その言葉を信じていた。
その日、美緒は朔也の好きなバタークッキーを焼き、彼が友人たちと集まっている会員制ラウンジまで持っていった。
個室の扉へ手を伸ばしたところで、中から笑い声が聞こえた。
「朔也、お前いつまで姪っ子と続けるつもり?」
煙草を吸っていた朔也は、ソファにもたれたまま答えた。
「兄貴、美緒に株を持たせる気らしい」
「そこまで?」
「信託にも入れてる。このままだと、そのうち御影の経営にも口を出せる立場になる」
「だから最初に近づいたのか?」
短い間があった。
「最初は、それも理由の一つだった」
朔也は煙を吐いた。
「家のことより俺に夢中でいてくれた方が、面倒が少ないからな」
扉の外で、美緒は手にしていた箱を強く握った。
この関係を隠し続けなければならないことに、朔也も苦しんでいるのだと思っていた。
中から別の声がした。
「じゃあ今は? 鳳条と結婚するんだろ?」
「結婚は結婚。美緒は美緒だよ。あいつは騒がない」
「よく言い切れるな」
朔也は笑った。
「俺から離れられないから」
美緒は扉を開けなかった。
その翌日、弁護士へ連絡した。
今、目の前にいる朔也は、何も知らない顔で彼女を見ている。
「叔父さん、もうすぐ結婚するでしょう。私たち、終わりにしよう」
朔也の表情から笑みが消えた。
「何言ってるの?」
「前に話したよね。叔父さんが普通の人生を選ぶときが来たら、私は離れるって」
朔也は美緒の身体を強く抱き寄せた。
「美緒、聞いて。玲奈とのことは家同士の話なんだ。御影と鳳条の仕事が絡んでるだけで、俺が欲しくて決めた結婚じゃない」
「でも結婚するんでしょう」
朔也が言葉を止めた。
「この提携が落ち着いたら、玲奈との話も終わらせる」
「いつ?」
すぐには答えなかった。
「長くはかからない」
腕に力が入る。
「だから別れるなんて言うな」
美緒は返事をしなかった。
残りは七日だった。
その夜、朔也は自分の部屋へ戻らず、美緒の隣で眠った。
美緒は背を向けたまま、白凪丘の明かりが一つずつ消えていくのを眺めていた。
あと七日で、この部屋とも別れる。
2
朝、美緒が目を覚ましたとき、隣は空いていた。
朔也が夜中に部屋へ来ても、朝七時までには出ていく。それが何年も続けてきた二人の約束だった。本邸の人間に知られるわけにはいかなかったからだ。
身支度を整えて階下へ降りると、ダイニングに玲奈がいた。
由香が、まもなく御影家に入る婚約者として紹介している。美緒は少し話を聞いたところで息苦しくなり、水を取りに行くと言って席を外した。
朔也までついてきた。
ガラス張りの廊下へ出たところで腕を引かれ、壁際へ寄せられる。朔也が顔を近づけたため、美緒は横を向いた。
唇は頬へ触れただけだった。
「婚約者が中にいるよ」
「妬いてる?」
「別に」
朔也が喉で笑う。
「俺が誰といたいかくらい、美緒なら分かってるだろ」
美緒は答えず、ダイニングへ戻った。
しばらくして紙ナプキンが床へ落ちる。拾おうと身をかがめた美緒の視界に、玲奈の足が入った。
ストッキング越しのつま先が、テーブルの下で朔也の脚をなぞっている。
朔也は避けなかった。
玲奈の足がさらに上へ滑ったところで、足首をつかむ。けれど押し戻すのではなく、自分の腿の上へ乗せた。
テーブルの上でスマートフォンが震えた。
【朔也って、こういうの好きなんだ? 私と可愛い姪っ子、どっちが楽しい?】
少しして朔也が返す。
【美緒と比べるな】
美緒は箸を置いた。
「ごちそうさま」
玲奈が顔を上げる。
「美緒ちゃん、出かけるの? だったら一緒に行かない? 午後から式の打ち合わせなの」
由香は二人のやり取りには気づいていない。
「外、雪でしょう。一人で行くより一緒の方がいいんじゃない?」
美緒も海外滞在に必要な追加書類を出しに行く予定だったため、断らなかった。
車庫でかなり待ったあと、朔也と玲奈が下りてくる。
車に乗ると、玲奈は美緒の隣に座り、LINEのQRコードを表示した。
「これから家族になるんだし。今さらだけど、交換しておこう?」
美緒は黙って読み取った。
車が雪の中へ入ってしばらくすると、玲奈からメッセージが届く。
【あなたと朔也のこと、この辺じゃ思ってるより知られてるよ】
続けてもう一通。
【私が呼べば、あの人はあなたを置いて来る。試してみる?】
美緒は画面を閉じた。
前の席から朔也がバックミラー越しにこちらを見たが、そのまま運転を続けた。
3
十分ほど走ったところで、玲奈が腹部を押さえた。
「朔也、お腹が痛い。病院に寄ってくれない?」
朔也は路肩へ車を寄せた。
「美緒、ここで降りて。家からハイヤーを回す」
振り返りもしなかった。
美緒は彼の後頭部を見たあと、何も言わずに車を降りた。
黒いセンチュリーは雪の中へ消えていった。
迎えを待つ気にはなれなかった。
海外手続きの窓口まで配車アプリを何度か試したが、大雪のせいで車がつかまらない。かなり歩いて到着したころには、受付時間を過ぎていた。
閉まったガラス扉の前で、美緒は立ち止まった。
あと少し早ければ、最後の書類を今日出せた。
知らない番号から着信が入る。
出ても、相手はしばらく話さなかった。
衣服が擦れる音だけが聞こえる。
そこへ玲奈の声が混ざった。
「もう少し優しくして。まだ三か月なんだから」
次に聞こえた声は朔也だった。
二人はフランス語で話していた。
「今さら怖くなった?」
美緒はそこで電話を耳から離した。
窓口の外階段へ腰を下ろす。
雪が髪や肩へ落ち、すぐに水へ変わった。
朔也が自分へ近づいた理由に御影家の事情があったと知った日も、彼の結婚を知った日も、美緒は泣かずに済んだ。
友人たちの前でどんなふうに語られていたかを聞いたあとでさえ、七日だけ耐えればいいと思えた。
それなのに、今は涙を止められなかった。
窓口へ間に合っていたら。
今日のうちに、ここからもう一歩離れられたのに。
雪が弱くなってからタクシーを拾い、白凪丘へ戻った。
濡れた姿を見た由香と宗一郎は心配したが、美緒は途中で転んだだけだと言って自室へ入る。
写真、プレゼント、十八歳以降の日記、二人で撮った記念写真、デザインを決めた指輪。
朔也に関わるものを一つの箱へ詰めた。
裏庭には、ヒナゲシの花壇が広がっている。
美緒が好きだと知った朔也が造らせたものだった。温室設備のおかげで、冬でも花は咲いている。
箱を花壇のそばへ置き、美緒は火をつけた。
写真の端が丸まり、炎が朔也の顔を覆っていく。
最後の一枚が灰になるまで、その場に立っていた。
立ち上がろうとしたところで視界が暗くなった。
身体が傾き、地面へ落ちる前に腕をつかまれる。
「美緒」
朔也だった。
走って戻ってきたのか息が乱れ、パンツの裾には庭道の泥がついている。火を見た途端に顔色を失ったのに、それでも美緒の方へ駆けてきた。
「美緒、俺を見て。悪かった。あんな雪の中に一人で置いていくべきじゃなかった」
抱き上げる腕が震えている。
「頼むから、目を閉じるな」
熱で耳まで遠くなり、声がぼやけていく。
震える腕だけは分かった。
さっき玲奈を抱いていたのも、同じ腕だった。
美緒は目を閉じた。
4
次に目を開けたとき、美緒は病院のベッドにいた。
朔也はベッド脇で眠っていた。泥のついたスーツも着替えておらず、目の下には濃い影がある。
美緒が手を抜こうとすると、その動きだけで起きた。
「美緒?」
目が合う。
朔也は息を吐き、美緒の手を両手で包んだ。
「起きたか」
入院中、朔也はほとんど病室を離れなかった。
退院してからは仕事を減らし、服やアクセサリーを次々と本邸へ届けさせた。美緒が不機嫌になるたび、昔からこうしていた。
届いた箱には、一つも手をつけなかった。
残りの日を静かに過ごしたかった。
けれど玲奈の誕生日には、御影家で食事会が開かれた。
ダイニングへ入った美緒は、部屋のあちこちに飾られた百合を見て足を止める。
百合の花粉には強いアレルギーがあった。
玲奈が知らないはずはない。
「美緒ちゃん、帰るの? せっかくだから一緒に食べようよ」
玲奈が行く手を塞いだ。
家族の前では穏やかな笑顔を崩さない。
けれど美緒へ近づくと、声だけを落とした。
「あの電話、ずっと聞いてたんでしょう? それでも何も言わないなんて、我慢強いよね」
LINEを交換してから、玲奈は何度も写真を送ってきた。
朔也と食事をする姿。車の中。妊婦健診。ベビー用品を選んでいるところ。
美緒がかつて朔也と過ごした時間を、一つずつ上書きして見せるようだった。
返事はしなかった。
写真だけは保存した。
「鳳条さんのお誕生日ですから。少しくらいはご一緒します」
美緒は椅子を引いた。
食事が始まって間もなく、喉の奥がむず痒くなった。息も浅くなる。
朔也が先に気づいた。
「百合、駄目だろ。外に出よう」
腕を取られた美緒は、すでにかなり花粉を吸い込んでいた。振りほどこうとした拍子に花瓶へ腕が当たり、床へ落ちた陶器が割れる。
破片の一つが玲奈の脚をかすめた。
美緒はバッグから常備薬を取り出そうとした。
その腕を朔也がつかむ。
「美緒、何してるんだ」
息苦しさで身体に力が入らない。引かれた反動で前へよろけ、額がテーブルの角へぶつかりそうになった。
朔也が手を差し入れ、角からかばう。
その掌を陶器の破片が切った。
美緒が姿勢を戻すと、朔也は玲奈の脚へ目をやった。
「先に謝って」
美緒は彼を見た。
自分の脚にも細い傷ができている。
呼吸もまだ苦しい。
「ごめんなさい」
「美緒――」
「謝ったよ」
宗一郎が立ち上がった。
「そこまでだ。鳳条さんの傷は手当てさせる。美緒は薬を使って、すぐ医師に診てもらいなさい」
スタッフが近づき、美緒を別室へ連れていく。
医師の処置で呼吸が落ち着いてから、美緒は自室へ戻った。
最後に残っていた衣類をスーツケースへ詰めていると、しばらくして扉が開いた。
朔也は汗をかいていた。
先に美緒の脚へ視線を落とし、それからスーツケースを見る。
「それ、何してるの。どこか行くの?」
「要らないものを片づけてるだけ」
朔也が近づき、そのまま抱きしめた。
傷口が圧迫されて痛む。
「朔也、離して」
腕が止まった。
美緒はその隙に平手を打った。
頬を打たれても、朔也は怒らなかった。
美緒の手首を取り、自分の頬へもう一度当てる。
「足りないなら、もう一回やっていい。今日は俺が悪かった」
「出てって」
「美緒」
「一人にして」
扉の外へ押し出し、鍵をかけた。
翌朝、扉を開けると、朔也が廊下の壁にもたれて座っていた。
美緒を見るなり立ち上がり、抱きしめてくる。
「悪かった。もう怒らせないから」
足音が近づき、由香が廊下へ現れる。
「朔也? こんな朝早く、美緒の部屋の前で何してるの?」
朔也が美緒から身体を離した。
「義姉さん、実は俺と美緒――」
「お母さん」
美緒が先に廊下へ出る。
「叔父さん、朝ご飯だって呼びに来ただけ」
朔也が美緒を見た。
それから由香へ顔を戻す。
「……うん。昨日ちょっと言い過ぎたから、今日は気分転換に連れ出そうと思って」
5
朔也が美緒を連れてきたのは、月浜ベイエリアにあるプライベートマリーナだった。
御影家のクルーザーでは、招待客だけを集めた小規模なジュエリーオークションが予定されていた。朔也は目玉になる品を多めに船へ回させたらしい。
「気に入ったものがあったら言って。値段は見なくていいから」
そう言って、白い苺を美緒の皿へ置く。
美緒は手をつけなかった。
こういう場が苦手なのは朔也も知っている。飲み物も、美緒の席にだけノンアルコールが並べられていた。
少し遅れて、玲奈も船へ来た。
美緒の隣に腰を下ろし、朔也が美緒のストールを直す様子を眺める。
「ほんと、姪っ子には甘いよね。婚約者の私が妬けちゃう」
美緒は、朔也が持ってきた苺を玲奈の皿へ移した。
「鳳条さんは人のお下がりが好きそうだから、私を羨ましがる必要ないんじゃない?」
玲奈の口元から笑みが消えかけた。
朔也は気づかないふりをしている。
「美緒は年下だからね。先に面倒見るのは普通だろ」
限定のブルーサファイアのネックレスが競りにかけられると、朔也は他の入札者を上回る額を提示し、そのまま落札した。
ケースごと美緒の前へ置く。
友人の黒田拓真が吹き出した。
「来世は俺もお前の姪になろうかな。そこまでしてもらえるなら悪くない」
「お前だったら船から落とす」
周囲が笑った。
話が進むうち、一人がフランス語へ切り替えた。
「そんなに美緒ちゃんばかり構ってたら、玲奈が怒らない?」
玲奈も同じ言葉で返す。
「平気。朔也って、自分にとって得になるものを選ぶの上手だから」
「じゃあ今は何? 昼は婚約者、夜は姪っ子?」
朔也は、美緒の髪を耳にかけながら答えた。
「そんなところ」
また笑い声が上がる。
「美緒に知られたら面倒じゃないの?」
「美緒と義姉さんは後から御影に来たんだ。兄貴が信託に入れたのも、兄貴の判断だし」
朔也はグラスを手に取った。
「それに、美緒は俺から離れないよ。このくらいで騒ぐような子じゃない」
美緒の指先が冷えていく。
朔也はそれを寒さだと思ったらしく、自分のジャケットを肩へ掛けた。
「寒い? 中に戻る?」
「さっき、何の話してたの?」
「仕事の話。酔って適当なこと言ってるだけだから、気にしなくていい」
美緒は十六歳からフランス語を学んでいた。
朔也が好きだった映画を字幕なしで見てみたかったし、いつか海外の仕事に同行できるかもしれないと思っていた。
今の会話も、全部聞き取れた。
美緒は膝の上で指を組み直した。
百合の花瓶が割れた日の朔也の顔が、脳裏に浮かぶ。
朔也がその冷えた手を取った。
「少しは温まった?」
スマートフォンが鳴る。
画面を見た朔也が席を立った。
「電話だけ出てくる」
朔也が離れたあと、美緒のスマートフォンにも通知が入った。
【朝比奈美緒様
双方ご署名済みの養子離縁届、および関連する権利返還書類の最終確認が完了しております。ご依頼どおり、七日後のご出国日に提出いたします。】
美緒は画面を閉じた。
戻ってきた朔也は、会社で問題が起きたと言った。
「悪い。先に行く。今夜は戻れないかもしれない」
「分かった」
朔也が美緒の顔を見る。
以前なら、何時になるのかと聞いていた。
今はそれだけだった。
少し立ち止まったあと、朔也は船を下りていった。
その背中を見送りながら、美緒は学生の頃を思い出した。
学校で嫌なことがあって泣いていた美緒に、桜の木の下で朔也は言った。
「美緒、前を向け。何度も後ろを見るな」
あのときは、素直にうなずいた。
今も同じようにすればいい。
6
クルーザーを降りた朔也は、その足で玲奈の住まいへ向かった。
運転している間も、美緒の顔が頭から離れなかった。
玲奈から「体調が悪い」と連絡が来たため、子どもに何かあったのだと思っていた。ところが着いてみれば、玲奈は玄関先で元気そうに立っている。
「また嘘ついたの?」
「そうでもしないと来てくれないでしょ?」
玲奈が抱きつこうとした。
朔也は肩を押して離す。
このところ、美緒は自分の予定を聞かなくなっていた。
玲奈との結婚についても、何も言わない。
部屋には片づけられたスーツケースまであった。
今になって、それがやけに引っかかった。
「どこ行くの?」
「本邸」
車へ戻り、そのまま白凪丘へ向かった。
美緒の部屋の前に立ち、扉をノックする。
「美緒?」
返事がない。
ドアノブを回しても開かない。
「寝てるんじゃない?」
背後から由香の声がした。
「起こさないであげて」
朔也は息を吐いた。
念のため電話をかける。
つながらない。
LINEを開いてみると、美緒のアカウントから自分が削除されている。
その画面をしばらく見たあと、胸の奥にあったざわつきが少しだけ収まった。
怒っている。
なら、まだ大丈夫だ。
そう思った。
扉の向こうが空になっていることには気づかなかった。
美緒は数時間前、裏手から本邸を出ていた。
由香は娘の部屋へ一度だけ入り、空になったクローゼットを見てから、静かに扉を閉めた。
7
結婚式当日。
御影家と鳳条家の縁談は、朝からXのトレンドを賑わせていた。経済メディアは両社の提携を取り上げ、芸能系のニュースサイトは会場やドレス、招待客の話題を流している。
婚姻届は式の翌日、両家の立ち会いで提出する予定だった。
美緒は空港の保安検査を通ったあと、届いたメッセージを流し読みしていた。
大半は、彼女が式へ乗り込むのか知りたいだけだった。
御影千夏から電話が入る。
「美緒、今どこ?」
「空港」
「え、ほんとに来ないの? もうすぐ始まるよ」
「今日、ヴェルナに行くから。叔父さんへのプレゼントは送った。渡しておいて」
向こうで少し黙り込む気配がした。
その後ろから誰かの声が飛ぶ。
「美緒が来ないなら、榊原律との賭け、全部負けじゃん」
美緒は笑った。
「じゃあ、きれいに負ければ?」
通話を切った。
◇
その言葉を、千夏のそばにいた朔也も聞いていた。
それでも彼は、美緒が来ないとは思えなかった。
今まで、朔也のそばに別の女が現れれば、美緒はすぐ態度に出した。
十六歳で告白してきたときもそうだった。断られて泣きながら、それでも袖をつかんで言った。
「朔也、もう逃げられないからね。私が好きになっちゃったんだから」
あの美緒が、自分の結婚式を黙ってやり過ごすだろうか。
千夏も似たようなことを考えているらしい。
「近くに隠れてるんじゃない? 式が始まったら出てきたりして」
朔也の頭に、数年前に二人で撮ったウェディングフォトが浮かんだ。
もし美緒が式を壊しに来れば、兄は彼女の扱いを考え直すだろう。
御影家での立場を失えば、美緒は自分を頼るしかなくなる。
それでいい。
榊原律が持ち出した一億円の賭けも、くだらないと思っていた。
榊原は、美緒が来ない方へ賭けた。
「美緒は来るよ」
朔也はそう言い切った。
式の開始時刻が迫った頃、千夏が控室へ飛び込んできた。
「叔父さん、美緒の車、来てる!」
海沿いの迎賓館前に、赤いLexus LCが停まっていた。
美緒が十八歳のとき、朔也が贈った車だ。
「何してるんだか」
口元は緩んだ。
そのまま外へ向かおうとすると、秘書に止められる。
「御影専務、美緒様からお預かりしています。本日、必ずお渡しするようにと」
差し出された箱を受け取る。
一番上には、美緒が昔からつけていた日記帳があった。
その下に、何枚もの写真が重ねられている。
二人の写真だと思った。
一枚目を取り出したところで、手が止まった。
玲奈と食事をしている自分。
玲奈の足を揉んでいるところ。
二人でベビー用品を見ている写真。
車内、病院、ホテル。
玲奈が美緒へ送っていたものばかりだった。
美緒と自分が写った写真は、一枚もない。
一番下には、法律事務所の書類があった。
宗一郎と美緒が署名した養子離縁届の写し。
御影家の資産管理信託からの離脱。
予定されていた株式譲渡の辞退。
星凪島の終身利用権の返還。
離縁受理後、朝比奈姓へ戻る旨の書面。
最後の紙を裏返した。
【叔父さん、結婚おめでとう。幸せに暮らしてね。もう私を捜さないでください】
8
司会者が朔也の名前を呼んでいる。
けれど、その声がやけに遠く聞こえた。
美緒の車は、まだ外にある。
車があるなら本人も近くにいる。
怒っているだけだ。
あの箱を置いて、自分が出てくるのを待っている。
朔也はそう考えようとした。
そこへウェディングドレス姿の玲奈が来て、彼の腕へ手を掛ける。
「朔也、出番だよ」
朔也は手元の写真を玲奈の前へ出した。
「言ったよね。美緒には見せるなって」
玲奈の顔がこわばる。
「私はただ――」
「約束しただろ」
手を振りほどき、外へ向かった。
赤いLexusまで歩き、ドアを開ける。
運転席も、助手席も、後部座席も空だった。
美緒はいない。
秘書が後ろから近づいてくる。
「美緒様から、車を開けたあとで鍵を渡すようにと言われています」
「他には?」
秘書は答えにくそうに黙った。
「何て言ってた」
「……鳳条様と仲良く暮らしてください、と。それと、これ以上ほかの方を傷つけないでほしいと」
朔也は車の横に立ったまま動かなかった。
会場では式が始まろうとしている。
しばらくして、彼は運転席へ乗り込んだ。
エンジンをかけ、そのまま迎賓館を出る。
式場にいた客の目の前で、新郎は走り去った。
9
朔也は白凪丘まで車を飛ばした。
階段を駆け上がる途中で足を踏み外し、膝を強く打った。それでも止まらず、美緒の部屋へ向かう。
扉を開けたところで、足が止まった。
服も、本も、スーツケースもない。
棚に並んでいた写真や小物まで消えている。
朔也は本邸のスタッフをリビングへ集めた。
「美緒はいつ出た?」
答えられる者はいなかった。
由香は下りてこない。
宗一郎も姿を見せなかった。
「荷物を持って一人で出ていったのに、誰も見てないの?」
声を荒らげる。
それでも分からないものは分からなかった。
人を下がらせたあと、朔也は室内の水庭の前に一人で立った。
数日前、美緒はここにいた。
今は、彼女が使っていたものまでほとんど残っていない。
電話番号は停止済み。
LINEも閉じられている。
普段使っていたSNSも消えていた。
そこへメッセージが届く。
【御影専務。今日は直接お祝いできなくて残念です。賭けは俺の勝ちですね】
榊原律。
朔也はその名前を見つめた。
いつから美緒と関わっていた?
秘書を呼ぶ。
「出国後の足取りを調べて。正規に確認できる範囲だけでいい」
◇
その頃、美緒を乗せた便はヴェルナへ到着していた。
空港を出た美緒は、日本で使っていたSIMカードを抜き、母が用意してくれた新しい番号へ切り替えた。
外は月浜よりずっと雪深い。
人の流れの中でスーツケースを引きながら歩くうちに、日本から離れたのだという実感が少しずつ追いついてきた。
到着ロビーの先に、「朝比奈美緒」と書かれたボードが見える。
近づいたところで、スーツケースの車輪が床の隙間へ引っかかった。
引こうとするより早く、横から手が伸びる。
「貸して」
軽々と持ち上げた手首には、白檀の腕輪念珠が巻かれていた。
美緒が顔を上げる。
赤みのある茶髪の男が立っていた。
目元は穏やかで、少し眠たそうにも見える。
「朝比奈美緒さん?」
「はい」
「榊原律です。お母さんから頼まれて、母と迎えに来ました」
名前を聞いて、美緒は数秒だけ考えた。
どこかで聞いたことがあるような気がした。
けれど思い出せない。
律も彼女の顔を見たまま、一瞬だけ黙った。
「……どうかしました?」
「いや。何でもない」
腕輪念珠へ指を触れ、律はスーツケースを引き始めた。
10
式の翌日、秘書は確認できた内容だけを朔也へ報告した。
「宗一郎社長と美緒様は事前に養子離縁届へ署名されていました。昨日、代理人の弁護士から提出され、受理されています」
朔也は椅子に座ったまま、顔を上げない。
「美緒様が利用されていた関連口座と家族カードも停止されています。本邸の車両利用者登録も解除済みです。出国したことまでは確認できましたが、それ以降は会社経由では追えません」
「……行ったんだ」
秘書は答えなかった。
そのとき、オフィスの扉が開いた。
玲奈が入ってくる。
一睡もしていないのか、化粧でも隠しきれない疲れが顔に出ていた。
「朔也、どういうつもり? 式の途中で消えるなんて。今、鳳条が何を言われてるか分かってる?」
「鳳条との縁談は白紙にする」
玲奈の足が止まる。
「何?」
「進めてた提携も一度止める」
「ちょっと待って。子どもは?」
「産むかどうかは玲奈が決めればいい」
玲奈が彼を見た。
「じゃあ、この子はどうなるの?」
「その話は弁護士を通してする」
朔也は椅子から立ち上がった。
「ただ、子どもを使って俺を縛ろうとするのはやめて」
玲奈はしばらく言葉が出なかった。
「美緒が出ていったから?」
「美緒には見せるなって言ったよね」
「私と寝たのはあなたでしょ」
玲奈の声が震える。
「私が入れる隙を作ったのも朔也じゃない。今さら美緒一筋だったみたいな顔しないでよ」
朔也は黙った。
玲奈は乾いた笑いを漏らす。
「美緒を何度も傷つけたのはあなた。友達の前であんなふうに言ったのもあなた。何をしても離れないって勝手に思ってたのもあなたでしょ」
秘書が彼女を促す。
出ていく直前、玲奈は振り返った。
「その顔してても、誰のせいにもできないからね」
11
ヴェルナでの暮らしは、美緒が想像していたより静かだった。
律の母、佳澄は由香と若い頃からの友人で、美緒が来る前から部屋を用意してくれていた。
クローゼットを開けて、サイズの合う服が並んでいるのを見た佳澄が、後ろにいた息子を見る。
「私、美緒ちゃんのサイズなんて知らなかったけど?」
律が咳払いした。
「買うの手伝っただけ」
「へえ」
佳澄が楽しそうに笑う。
美緒は、母から聞いた昔話を思い出した。
二人がまだ小さかった頃、由香と佳澄が冗談半分に「大きくなって気が合ったら結婚させようか」と話したことがあるらしい。
約束として扱われたことは一度もない。
今になって思い出すと、少し居心地が悪かった。
律はその空気を察したのか、話題を変えた。
榊原家は何代か前に事業の中心を欧州へ移しており、現在は投資、物流、テクノロジー分野を広く扱っている。律はそのヴェルナ現地法人の代表取締役を務めていた。
近年は日本市場への再参入も進めていて、御影ホールディングスとも仕事上の接点がある。
美緒は長期間ただで世話になることを気にしていた。
その話を聞いた律が提案する。
「週末だけ会社を手伝ってみる? 家賃代わりってことで」
「私でもできることあります?」
「あるよ。学校が忙しい日は休んでいいし、嫌になったらやめればいい」
「じゃあ、お願いします」
◇
月浜では、朔也が二か月近く美緒を探していた。
国内で連絡できる相手には一通り当たった。
それでも居場所は分からない。
最後に向かったのは御影家の本邸だった。
由香はリビングのソファに座り、朔也を見ようともしなかった。
朔也は少し離れたところで立っていた。
やがて、その場へ膝をつく。
「義姉さん。美緒がどこにいるか教えてください」
由香が顔を上げた。
「今さら、何のために?」
「会いたい」
「会ってどうするの」
返す言葉に詰まる。
「……謝りたい。許してもらえなくてもいい」
朔也は床へ視線を落とした。
「元気でいるのか、それだけ確認できればいいから」
由香は長く黙っていた。
「あなたと美緒のこと、あの子が出ていく夜に聞いたわ」
朔也が顔を上げる。
「あの晩、私が美緒は寝てるって言ったでしょう。あなたを騙したのは私」
由香の声は静かだった。
「美緒は朝比奈に戻った。御影のものも全部置いていった。まだあの子を大事に思っているなら、昔の場所へ引きずり戻さないで」
「どこにいるんですか」
由香は迷ったあと、一つだけ答えた。
「ヴェルナ」
12
舞踊学院での生活には、思ったより早く身体が慣れた。
子どもの頃からバレエを習っていたとはいえ、御影家へ入ってからは家の行事も増え、朔也と過ごす時間も長くなった。本格的な練習から離れていた期間は短くない。
それでもレッスンを重ねるうちに、足がまた音を追うようになった。
週末は榊原のヴェルナ支社へ行く。
律とは会社で顔を合わせることが多かった。
仕事中に長話をすることはない。
けれどコーヒーマシンの前で同じ時間に会ったり、会議資料の同じ部分を気にしたりすることが多かった。
映画の好みまで似ていて、二人ともSFは好きだがホラーは苦手だった。
たまに律が、美緒を見たまま考え込むことがある。
「何かついてます?」
「いや」
そう言って、彼は自分の手首の腕輪念珠へ触れる。
理由を聞いても、自分でも分からないらしかった。
ある晩、美緒は学院のリハーサルが長引き、会社の作業も夜まで残っていた。
律がデスクの横へ来る。
「数字、どこか引っかかってる?」
「違います。学校が忙しくて、今日の分が遅くなっただけ」
美緒は画面から顔を上げた。
「会社がブラックだから残業してるわけじゃないので、安心してください」
「それはよかった」
律が笑う。
「近くに静かなバーができたらしいけど、帰る前に寄る?」
「行きます」
仕事を片づけ、二人で車へ向かった。
店の前で車を降りようとしたとき、美緒は淡い木の香りに気づいた。
「榊原さん、香水つけてます?」
「これ」
律が腕を見せる。
白檀の腕輪念珠だった。
「静願寺で授かったもの。香水じゃないよ」
「へえ」
近くで香りを確かめようと顔を寄せたあと、美緒は自分から距離を詰めたことに気づき、すぐシートベルトを外した。
車を降りる。
数歩も歩かないうちに、足が止まった。
通りの向こう。
街灯の届かない場所に、一人の男が立っている。
御影朔也だった。
二か月前より痩せていた。
いつも隙なく整えていた男なのに、目元には疲れがにじんでいる。
朔也は美緒だけを見ていた。
「やっと見つけた」
13
朔也がこちらへ歩いてくる。
美緒は一歩下がった。
その距離を見た朔也の顔から、わずかに色が引く。
「美緒、迎えに来た。帰ろう」
律が美緒の前へ出た。
「知り合い?」
「昔の叔父です」
「俺は美緒の恋人だ」
朔也が重ねる。
律は一度だけ彼を見た。
「聞いてる話とずいぶん違いますね」
次の瞬間、朔也が殴りかかった。
完全には避けられず、律の口元が切れる。
律はその場で立ち直り、すぐに殴り返した。
二人が再びぶつかりそうになり、美緒は間へ入った。
「やめて!」
朔也の拳が途中で止まる。
口元は青くなっている。
それでも美緒から目を逸らさなかった。
「そいつは守るんだ?」
「先に殴ったのは叔父さんでしょ」
「俺だって痛いよ」
低い声だった。
以前なら、朔也が少し怪我をしただけで胸がざわついた。
今は疲れの方が大きかった。
朔也が美緒の手首をつかむ。
「どうして何も言わずに行った? 御影のものも全部置いて、俺まで切って、それで平気だったの?」
「叔父さんが欲しかった形になっただけじゃない」
美緒は手を振りほどかなかった。
「家の信託も、株の話も、星凪島も返した。御影の名字も手放した」
朔也を見上げる。
「お母さんと私は後から御影に来た人間なんでしょう? それなら、これでいいじゃない」
朔也の指先がゆるむ。
「美緒、待って。違うんだ」
美緒は足を止めたものの、振り返らなかった。
「何が違うの?」
朔也はすぐに答えられなかった。
「最初は……御影のことを理由にしてた。自分でもそう思ってた。でも、途中からは違った」
「そう」
「好きなんだ」
美緒は彼の顔を見た。
「私はもう、その言葉いらない」
朔也が黙る。
美緒が律の方へ戻ろうとすると、また腕をつかまれた。
「叔父って呼ばないで」
「どうして?」
「もう叔父じゃないだろ」
「書類の上ではね」
美緒は彼の手を外した。
「でも十二歳から、私はそう呼んできた。十年分の記憶まで、離縁届で変わるわけじゃない」
「だったら俺と帰ろう」
朔也の声が掠れた。
「知らない土地へ行ったっていい。美緒が結婚したいなら、俺がする」
「戻らない」
「美緒」
「お母さんにも、もう関わらないで」
美緒は律の方へ向いた。
「御影のものは全部返した。それで終わりにして」
14
歩き出したところで、横の路地から人影が飛び出した。
街灯の光が刃に反射する。
美緒が振り返るより先に、朔也が前へ出た。
鈍い音がした。
刃が脇腹へ入る。
シャツに赤い染みが広がった。
朔也は顔をしかめながらも、美緒が無事なのを見て息を吐いた。
「よかった」
襲撃者は止まらなかった。
もう一度腕を振り上げる。
律が美緒を後ろへ引き、相手の手首をつかんだ。もみ合いになり、刃が律の掌を切り裂く。
それでも手を離さず、腕をひねった。
ナイフが路面へ落ちる。
美緒は相手の顔を見た。
「……玲奈?」
鳳条玲奈だった。
以前より痩せ、頬にも傷が残っている。
婚約破棄のあと、鳳条家は計画していた事業の損失も外聞も玲奈へ押しつけた。父親から経済的な支援を止められ、しばらく外出も制限されていたと、美緒は後から知った。
「どうして」
玲奈が美緒を睨む。
「あなたがいなくなったのに、どうして朔也は私じゃなくて、まだあなたを追うの?」
声が震えた。
「あなたが消えなかったら、式だって壊れなかった。私だってこんなことにならなかった!」
美緒は返さなかった。
周囲の誰かが通報していて、救急車と警察が向かっている。
朔也は地面へ座り込んでいた。
担架へ移される直前、血で汚れた手が美緒の服をつかむ。
「美緒」
足を止める。
「まだ俺のこと、好き?」
美緒は彼を見下ろした。
「嫌い」
朔也の口元が緩んだ。
泣いているのか、汗なのか、顔に水滴が伝っている。
美緒はそこから離れ、律のところへ向かった。
彼の掌はかなり深く切れている。
白檀の腕輪念珠にも血がついていた。
「律さん、その手……。手首を押さえればよかったのに。どうして刃までつかむんですか」
名前で呼ばれた律が一瞬だけ目を止めた。
そのあと、反対の手で美緒の目元を覆う。
「見なくていい」
「え?」
「血、苦手でしょ」
美緒は律の手を少しずらした。
「……私、言いましたっけ?」
律も黙った。
「聞いた気がしたんだけど」
「誰に?」
「それが分からない」
白檀の香りが近くに残った。
15
警察での事情聴取が終わった頃には、外が白み始めていた。
美緒は律の手を病院で診てもらうつもりだったが、彼は先に美緒を家へ送った。
「学院には連絡してある。今日は休んで寝て」
「律さんの手は?」
「このあと行く」
美緒が動かないでいると、律がため息をつく。
「夜は誕生日会だろ。美緒まで倒れたら、うちの母親に怒られるの俺だから」
それを言われ、美緒は仕方なく家へ入った。
目を覚ましたとき、ベッドのそばに律がいた。
掌には包帯が巻かれている。
美緒の額から濡れたタオルを取った。
「少し熱が出てた。家の人が気づいてくれてよかった」
夕方には体調も落ち着き、二人は佳澄が準備した誕生日会へ向かった。
扉が開くと、紙吹雪が舞う。
大きなケーキが運ばれてきて、律が指先へ少しクリームを取った。
美緒の鼻先へ軽くつける。
「誕生日おめでとう」
「子ども扱いしてません?」
「少し」
佳澄に連れられ、近所の知人たちへ挨拶をして回った。
最初は緊張していた美緒も、律が近くにいるうちに少しずつ場に慣れた。
窓の外では雪が降り始めている。
律が隣へ来た。
「ヴェルナの北に雪山があるんだけど、暖かくなったら行ってみる?」
美緒が顔を向ける。
「二人で?」
律が一瞬黙った。
「……うちの両親も好きな場所」
美緒は笑った。
会場の照明が落ち、曲が流れ始める。
律が手を差し出した。
「一曲、お願いしてもいい?」
「もちろん」
美緒はその手を取った。
曲が終わり、二人が離れようとしたときだった。
近くに飾られていたグラスタワーが崩れる。
律の腕が美緒の身体を引き寄せた。
背中で覆うようにかばい、グラスの大半が後ろへ落ちる。
美緒は目を閉じた。
御影家で割れた百合の花瓶が頭をよぎる。
あのとき朔也は、玲奈へ謝れと言った。
「美緒」
耳元で律の声がした。
「もう大丈夫」
目を開ける。
佳澄も近づいてきて、美緒の髪を撫でた。
「日本で何があったか、無理に話さなくていいからね。こっちではゆっくりやればいい」
美緒はうなずいた。
ポケットのスマートフォンが振動する。
海外番号からのメッセージだった。
【美緒、誕生日おめでとう】
誰からかは分かった。
画面を閉じる。
窓の方へ目を向けたところで、雪の中に立つ人影が見えた。
黒いコートの肩に雪を積もらせ、朔也がこちらを見ていた。
16
病院を抜け出してきた。
脇腹の傷は深く、医師からは退院を止められていた。それでも朔也は、美緒の誕生日に顔を見たかった。
窓の外から会場を眺める。
美緒が律と踊っている。
グラスタワーが崩れたとき、律は迷わず美緒を抱き込んだ。
そのあと、美緒が彼へ向けて笑った。
朔也はその表情を見たまま動けなかった。
自分の前で見せていた、相手の機嫌をうかがうような笑い方ではない。
月浜を離れて二か月。
美緒の顔から、自分の知らない表情が増えていた。
朔也は短いメッセージを送った。
【美緒、誕生日おめでとう】
もう一通送ろうとしたが、届かなかった。
またブロックされたらしい。
雪の中で立っているうちに、脇腹が熱を持ち始めた。
コートの内側へ血が滲む。
足元が揺れ、そこで意識が途切れた。
目を覚ますと、病室にいたのは秘書だけだった。
「誰が連れてきた?」
「榊原社長です」
秘書は少し困った顔をした。
「人の家の前で死なれると困る、と」
朔也は枕へ頭を戻した。
数週間後。
玲奈は傷害事件で起訴され、厳しい条件付きで保釈された。
鳳条隆臣は御影側との関係を修復したがり、双方の弁護士を通して面会を整えた。
病院の面談室に、玲奈が座っている。
「美緒を連れ戻したいんでしょ」
朔也は彼女を見た。
「何が言いたいの」
「本人が帰らないなら、帰れなくすればいいじゃない」
玲奈の口元が歪む。
「人を自分の都合に合わせるの、得意だったでしょ。そばに置いて、結婚して、逃げる場所をなくせばいい」
朔也は返事をしなかった。
玲奈が帰ったあとも、その言葉だけが耳に残った。
17
半年が過ぎた。
美緒はヴェルナでの生活にも慣れ、学院では進級公演の準備に入っていた。
由香は時々、日本から会いに来る。
月浜で報道されたことも、話題に上がる範囲で教えてくれた。
朔也は御影ホールディングスの経営中枢から外れ、宗一郎の系統に関わる後継計画からも自分で身を引いた。その後は新しい投資会社を立ち上げたらしい。
玲奈の裁判は続いており、保釈中も行動は大きく制限されていた。
美緒は聞くだけだった。
母が元気でいる。
それが分かればよかった。
ある日、教授からスタジオへ来るよう連絡が入った。
舞台の立ち位置を確認するだけで、家からも近い。
「歩いて行くから大丈夫」
迎えの車を断り、美緒は細い道を抜けた。
後ろから黒い車がついてきていることには気づかなかった。
車が横へ寄る。
背後から腕を取られた。
声を出そうとした瞬間、鼻を刺すような臭いがした。
抵抗したものの、視界が崩れていった。
目を開けると、車の後部座席だった。
両手と足首を縛られている。
スマートフォンも腕時計もない。
美緒は前のシートを蹴った。
「っ……」
運転席から聞き覚えのある声がした。
身体が止まる。
「……朔也?」
バックミラー越しに目が合った。
半年ぶりに見る朔也は痩せていた。髪は以前より伸び、顎にも薄く無精髭がある。
それでも、美緒が起きたと分かると笑った。
「久しぶり」
「正気?」
「どうだろう」
前を向いたまま、ハンドルを握り直す。
「毎日、美緒のこと考えてた。帰ろう」
美緒は答えず、手首の拘束をこすった。
バックミラー越しに見つけた朔也が言う。
「怪我するからやめて」
車は人通りの少ない道へ入っていく。
「自分で帰りたくないなら、それでもいい」
朔也の声は落ち着いていた。
「今度は置いていかないから」
美緒は窓の外を見た。
標識を追えば、向かっているのはビジネスジェット専用ターミナルのある方向だ。
朔也は日本へ連れ帰るつもりなのだ。
18
美緒は身体を丸めた。
「お腹、痛い」
朔也は止まらない。
さらに息を浅くして、額へ汗を浮かべる。
「トイレ……行きたい」
何度かバックミラーを確認したあと、朔也はサービスエリアへ車を入れた。
足の拘束を外す。
手首はつかんだままだった。
「逃げるなよ」
美緒は黙ってトイレへ入った。
朔也は入口の外にいる。
自分のスマートフォンは取られたまま。
個室から出てきた女性へ声をかけ、電話を借りた。
律の番号だけは覚えていた。
数回でつながる。
「はい」
「律さん」
一拍の沈黙。
「美緒?」
「朔也に連れていかれてる。空港へ向かってる」
美緒はサービスエリアの名前と道路標識、車種を早口で伝えた。
「助けて」
扉の向こうから声がした。
「美緒、まだ?」
美緒は通話を切り、履歴を消してから端末を返した。
◇
榊原律は、国際会議の途中だった。
電話を切ったあとも、耳の奥に美緒の「助けて」が残っている。
手首の白檀が熱を帯びた。
ここ数か月、断片的に見ていた夢が一気に形を持つ。
雪の夜。
墓石。
白黒写真。
そこにいたのは朝比奈美緒だった。
前世でも、律は彼女を知っていた。
ただ、間に合わなかった。
朔也は美緒を日本へ連れ戻し、結婚を公表した。
その後も彼女は支配と裏切りから逃げられず、三十歳になる前に高層階から身を投げた。
律が死を知ったのはニュースだった。
それから結婚することはなかった。
晩年は静願寺の近くに住み、何度も同じことを願った。
もう一度だけ機会があるなら。
今度は、あの子を生きて帰してほしい。
律は椅子から立った。
「会議はここまでにします」
出席者がこちらを見る。
構わず上着を取った。
「警察と空港へ連絡。位置情報と車の特徴を送って。車も出して」
19
サービスエリアを出たあと、朔也は美緒の足を縛り直さなかった。
代わりに、車のロックを操作する。
「ここまでしないと駄目なの?」
朔也は前を向いたまま言った。
「……もう叔父って呼ばないでくれ」
「今、呼んでないけど」
「呼ぼうとしただろ」
美緒は横顔を見た。
「今になって嫌なの? 二人きりのときは、そう呼ばせるの好きだったでしょう」
ハンドルを握る手に力が入る。
「昔の話は終わりにする」
朔也は前を見たまま続けた。
「今の美緒は朝比奈美緒だ。俺も叔父じゃない。もう隠す必要もない。ちゃんと結婚できる」
「しないよ」
「ずっと一緒にいるって言っただろ」
「昔はね」
「先に俺を好きになったのは美緒だろ。自分から入ってきたくせに、勝手に終わらせるの?」
美緒は少し黙った。
「先に手放したのは、朔也でしょう」
車内から会話が消えた。
しばらくして、後方からエンジン音が近づいてくる。
朔也がミラーを見る。
律のバイクだった。
前方では警察による規制が始まり、車列が詰まっている。
朔也が車線を変えようとしたところへ、パトカーが横から入り、進路を塞いだ。
車が減速する。
警官がこちらへ走り出したのとほぼ同時に、律のバイクが後部ドア側へ並んだ。
朔也がアクセルを踏もうとする。
律は安全ハンマーで窓を割り、内側のロックへ手を伸ばした。
「美緒!」
朔也が振り返る。
律は先に美緒を車外へ引き出した。
朔也が腕を伸ばしてきたため、その手を振り払う。車体はガードレールへ当たり、エアバッグが開いた。
朔也の額にも血が滲んだ。
警官がすぐそこまで来ている。
律は朔也を追わず、美緒を連れて車から距離を取った。
少し先で律の部下が別のバイクを止める。
「榊原社長、ここは警察に任せられます」
律はヘルメットを美緒へ渡した。
「乗って」
美緒は後ろへ座り、腰へ腕を回した。
走り出したあと、一度だけ後ろを見る。
壊れた車のそばで、朔也がこちらを見ていた。
額から血を流したまま、警察官に囲まれている。
「見なくていい」
前を向いた律が言った。
「もう連れていかせないから」
20
誘拐のあと、美緒は一人で外へ出るのが怖くなった。
学院へは車で通い、家の周囲にも警備が増えた。
夜中に夢で目を覚まし、リビングの明かりがついていることがある。
覗いてみると、律がソファで眠っていた。
美緒はしばらくその姿を見てから、自分の部屋へ戻った。
同じような夜を重ねるうち、朝まで眠れる日も増えていった。
◇
律は玲奈の動きを調べ直した。
傷害事件の保釈後、彼女が朔也と接触していた記録が出てきたからだ。
朔也は、玲奈が鳳条家と距離を置くための手続きに協力していた。
その代わり、玲奈は過去の人脈を使い、美緒が学院の周辺でどう動いているかを調べていた。
誘拐に使われた情報も、そこから流れていた。
律は玲奈に面会を申し込んだ。
席に着いた彼女の前へ、弁護士がまとめた海外移住と保護の資料を置く。
「鳳条さん。取引をしたい」
玲奈は表紙すら開かなかった。
律は数枚の写真を横へ置いた。
小さな女の子が写っている。
玲奈の表情が変わった。
「どうして……」
婚約が破談になったあとも、玲奈は妊娠を継続した。
御影側には出産を知らせず、娘の存在を隠していた。
「その子に手を出す気はない」
律は資料を玲奈側へ押す。
「脅しにも使わない。母子で安全に暮らせる場所を、弁護士を通して用意できる。朔也に追われない形にもできる」
玲奈が写真から目を上げた。
「代わりに何が欲しいの」
「朔也と一緒にいた間に見たものや、手元に残ってる資料があるでしょう」
「何を探してるの?」
「金の流れが分かるもの。関連会社との取引記録も欲しい」
玲奈は黙っている。
「美緒を調べさせた証拠が残ってるなら、それも」
律は彼女を急かさなかった。
やがて玲奈が資料を手に取る。
「美緒を恨んでた」
「そうでしょうね」
「あの子が消えたせいで全部壊れたって思ってた」
玲奈は娘の写真を見た。
「でも、壊したのは朔也だったのかもしれない」
律は何も言わなかった。
「分かった。渡す」
21
数日後、律から、玲奈が提出した資料のうち証拠として使えるものが捜査機関へ渡ったと聞いた。
朔也の新会社では資金の流れや関連会社との取引が調べられ、個人情報の取得経路についても捜査が進んだ。
美緒がそれ以上詳しいことを聞くことはなかった。
しばらくして、御影朔也が事情聴取のため捜査機関へ連行されたというニュースが流れた。
美緒はテレビの画面を見ていた。
カメラの前を歩く姿は静かだった。
昔から知っている朔也と、見た目だけならほとんど変わらない。
指先が震えた。
隣にいた律がリモコンを取り、テレビの音量を下げる。
「消す?」
美緒は少し考えて、首を横に振った。
律はそれ以上聞かず、肩を抱いた。
「泣きたいなら、我慢しなくていいよ」
背中をゆっくり叩かれる。
「もう、美緒を無理やり連れていくことはできないから」
白檀の香りがした。
美緒は律のシャツを少しだけつかんだ。
しばらくすると、指先の震えも弱くなっていった。
22
捜査が進む中、宗一郎は御影ホールディングスを代表し、朔也の新会社とグループに資本・経営上の関係がないことを公表した。
鳳条側の一部取引にも調査が入った。
玲奈は約束どおり資料を提出し、その後、弁護士の支援を受けて娘とともに生活拠点を移した。
美緒は行き先を聞かなかった。
ヴェルナでは、進級公演の日が近づいていた。
朝から晩までスタジオにいる日も増える。
由香は変わらず時折会いに来た。
宗一郎が一緒に来ることもあった。
ある日の食事中、宗一郎が箸を置いた。
「美緒」
「はい」
「養子縁組は解消したけど、俺まで父親をやめたつもりはないから」
美緒は顔を上げた。
宗一郎は少し気まずそうに水を飲む。
「戻ってこいって意味じゃない。好きなところに住めばいい」
隣の由香が笑っている。
美緒も口元を緩めた。
「じゃあ、今までどおりお父さんって呼びます」
「それがいい」
宗一郎は満足そうに食事を再開した。
23
律はその後も、美緒を学院まで送っていた。
最初は安全のためだった。
朔也への接近制限が出て、司法手続きも進んでからは、毎日付き添う理由は薄くなったはずだ。
ある朝、美緒は助手席から律を見た。
「律さん、もう毎日送らなくても平気ですよ」
「ついでだから」
美緒は窓の外を見てから、また運転席へ顔を向けた。
「会社、反対方向ですよね?」
「今日は遠回りしたい気分なんだよ」
「それ、ついでって言いません」
「俺の中では言う」
美緒は笑った。
「変なの」
信号が青に変わる。
窓の外では、通学途中の学生たちが横断歩道を渡っていた。
美緒は今日のレッスンの順番を頭の中で確認した。
24
進級公演の日。
美緒は舞台袖で、シューズのリボンを結び直していた。
客席には由香と宗一郎、佳澄、それから律がいる。
開演ベルが鳴る。
音楽に合わせて舞台へ出た。
照明の中心へ入る。
音だけが耳に残った。
身体が次の動きへつながっていく。
回って、着地する。
そのまま前へ進む。
曲が終わった。
大きな拍手が聞こえる。
美緒は息を整え、舞台の中央で頭を下げた。
顔を上げたとき、前方の席で佳澄が大きく手を振っていた。隣の由香が慌ててその腕を下げさせ、宗一郎は笑っている。
少し離れた席で、律が拍手をしていた。
目が合う。
律は何も言えない距離から、親指を立てた。
美緒は思わず笑った。
25
公演後、律が家まで送ってくれた。
車が玄関前へ止まっても、美緒はすぐに降りなかった。
「律さん」
「ん?」
「どうして、ずっと私に付き合ってくれるんですか」
律の手がハンドルの上で止まる。
袖口から白檀の腕輪念珠が少し見えていた。
「前に借りがあるのかも」
「前って。私たち、ヴェルナで会うまでほとんど知らなかったじゃないですか」
「そうなんだけどね」
律が笑う。
「俺にも分からない」
美緒もつられて笑った。
シートベルトを外し、ドアへ手をかける。
そのまま少し考えて、もう一度振り向いた。
「律さん」
「なに?」
「明日も八時に来ます?」
律が目を瞬いた。
「もう送らなくていいって言ったの、美緒じゃなかった?」
「気が変わりました」
美緒は車を降りた。
二歩ほど進んだところで、運転席の窓が下がる。
「美緒」
振り返る。
「八時ね」
美緒はうなずいた。
「はい。八時に」
番外編1 菩提
前世で、榊原律はニュースで御影美緒の死を知った。
記事は短かった。
【御影朔也氏の妻、美緒さんが自宅マンション高層階から転落死】
手にしていたグラスが床へ落ちた。
気づけば律は割れたガラスの上に膝をついていて、ズボンに血が滲んでいた。
そんな痛みはどうでもよかった。
美緒は、もっと痛かったのだろうか。
そればかり考えた。
葬儀の日、律に招待状はなかった。
御影家の外で、雪の中を一晩過ごした。
人がいなくなった朝方、墓地へ向かった。
墓誌には「御影美緒」と刻まれていた。
律はその名字を指でなぞった。
「最後まで、御影だったんだな」
コートの内ポケットから、小さなカードを取り出す。
そこには自分の字で、
【朝比奈美緒へ】
とだけ書いてあった。
花束の下へ差し込む。
「子どもの頃は、俺と結婚するって言ってたくせに」
写真へ指を触れた。
「嘘つき」
美緒が死んだあと、律は結婚しなかった。
仕事へ没頭し、事業では何度も朔也と競り合った。
年を取ってからは静願寺の近くへ移り住み、身体が動く限り山道を登った。
何を願っているのか聞かれても、人には話さなかった。
願いは一つだった。
もし、もう一度あの子の人生があるのなら。
今度は長く生きてほしい。
それだけだった。
律が息を引き取った日も、手首には静願寺で授かった白檀の腕輪念珠があった。
次に目を開けたとき、彼はヴェルナ空港に立っていた。
二十二歳の美緒が、スーツケースを引いてこちらへ歩いてくる。
写真の中の顔とは違う。
髪が揺れ、辺りを見回し、ときどき人とぶつかりそうになっている。
その頃の律には、前世の記憶がそろっていたわけではなかった。
ただ、胸の奥が痛んだ。
白檀の腕輪念珠が手首で熱を持つ。
美緒のスーツケースが床へ引っかかった。
律は考えるより先に近づき、持ち上げていた。
「朝比奈美緒さん?」
美緒が顔を上げる。
律は一拍遅れて笑った。
「榊原律です。お母さんに頼まれて、迎えに来ました」
番外編2 UNBOUND
三年後、美緒はヴェルナ国立舞踊学院を卒業した。
由香と宗一郎は日本から卒業式へ駆けつけ、佳澄は美緒へヒナゲシの大きな花束を贈った。
夜の祝いの席では、美緒も珍しく酒を飲んだ。
元から強い方ではない。
しばらくすると、頬が赤くなってくる。
由香が律を呼んだ。
「律、美緒を部屋まで連れていって」
「分かった」
律は美緒を支えながら二階へ上がった。
部屋へ入ったところで、美緒が身体を預けてくる。
「美緒、自分で立てる?」
「立ってる」
「俺に全部体重かけてるけど」
律の耳が赤い。
「飲みすぎ」
美緒は離れなかった。
律の手を取り、指と指の間へ自分の指を滑り込ませる。
手を握ったまま、少し背伸びをした。
唇が近づく。
律は最後のところで顔を逸らした。
「美緒、酔ってるだろ」
「酔ってないよ」
律がじっと顔を覗き込む。
「その顔で?」
美緒は笑って、彼の喉元に指を置いた。
「ちゃんと分かってる。だから逃げないで」
美緒は律の喉元へ指を置いた。
喉仏が動く。
「ちゃんと分かってる」
律がこちらを見る。
美緒は笑った。
「それより、いつまで我慢するつもり?」
数秒、沈黙が続いた。
律が低く笑う。
「言ったからね」
「うん」
「明日、覚えてないなんて言うなよ」
「覚えてる」
その返事を聞いてから、律は美緒へ顔を近づけた。
今度は逸らさない。
窓の外には、ヴェルナの夏の月が出ていた。
ベッド脇には、卒業祝いに律から贈られた香水が置かれている。
名前は「UNBOUND」。
添えられていたカードには、二行だけ書かれていた。
――卒業おめでとう。
次の行き先が決まったら教えて。
美緒はそのカードを、今も机の引き出しにしまっている。




