地底の深淵:物理の咆哮と鋼鉄の棺
ハドレットを岩壁に突き立て、身を固定しようとしたその時、背骨を押し上げるような奇妙な浮遊感に包まれた。重力が希薄になり、俺は灼熱の気流の中を、深海へ沈む羽毛のように緩やかに降下していく。俺は振り返り、虚空に浮かぶクレアに短く手を挙げ、安定したことを伝えた。
深淵へ向かうほど、生物の気配は薄れ、死の静寂が濃くなっていく。
大気はもはや気体であることをやめ、高温によって粘りついた、重工業の錆の臭いを帯びる流体へと変貌していた。シルフの「極寒領域」がなければ、俺の皮膚は接触した瞬間に炭化していただろう。溶岩の温度は通常七百から千度に達するが、シルフの絶対零度とその熱波が衝突した瞬間、物理世界の残酷な法則が俺たちの前で無慈悲に演じられた。
「嘶き」にも似た音が響く。
爆発的に膨れ上がった水蒸気と、火山灰、そして微細な固体粒子が視界を埋め尽くした。それはヤスリのように領域の縁を削り取る。肺に吸い込む空気の一片さえもが、喉を焼き焦がす熱を帯びていた。
その時、俺の直感が叫んだ。
「防御結界、展開!」
俺の咆哮と同時に、クレアが神聖な光の膜を張り巡らせる。だが、滞留していた鉱物粉塵が発火点に達するのは、その数瞬後だった。
爆発。
ドミノ倒しのごとき連鎖爆炎が、闇の中で弾けた。視覚が死に、聴覚が死に、感覚そのものが剥ぎ取られる。残ったのは、超圧による物理的な剥離感だけだ。真空の吸引力が巨大な手となり、胸腔から臓器を強引に引きずり出そうとする。
俺は拳を握り込み、毛穴から溢れ出した鮮血を、極寒領域の中で瞬時に凍りつかせた。密閉された暗紅色の「血の繭」が完成する。
俺たちはその繭の中で、爆発の推力によって虚空へと放り出された。
脳裏に刻まれた城塞の残像だけを頼りに、その方向へと弾き飛ばされる。一度死を経験した身であっても、肋骨の裏で鳴り狂う鼓動を抑えることはできない。シルフとクレアの顔色は惨白を極めていた。それは精神的な恐怖ではなく、圧倒的な物理の暴力に対する生理的な拒絶反応、抗いようのない戦慄だった。絶対的な力を手にしたつもりでいた俺たちは、剥き出しの自然法則の前では、滑稽なほどに矮小で無力だった。
血の繭は暗紅色の放物線を描き、溶岩の海に鎮座する鋼鉄の怪物へと叩きつけられた。
「——ゴンッ!」
重苦しい衝撃音が血の繭を貫き、鼓膜を震わせる。暗紅色の氷殻が瞬時に亀裂を走らせ、蜘蛛の巣のように広がったかと思うと、轟音と共に砕け散った。凍てついた血の破片は、未だ消えぬ冷気と共に溶岩の海へと墜ち、「ジュッ」という短い断末魔を上げて飲み込まれていった。
俺たちは冷え切った鋼鉄の壁面に不格好に叩きつけられた。掌を突いた瞬間、刺すような冷気が指先から駆け抜ける。この鋼鉄は尋常ではない。下方の溶岩が放つ熱浪に晒されながらも、その表面は不気味なほどの低温を保っていた。壁面には黒ずんだ古のエリュアダが刻まれ、その溝には乾枯びた暗紅色の痕跡——血がこびりついていた。
ハドレットを支えに、俺は重い体を引き起こす。指先は微かに震え、先ほどの超圧が肺腑をかき乱し、呼吸のたびに引き裂かれるような痛みが走る。足下を見れば、そこは宙に浮いた鋼鉄の桟橋だった。その遥か下方には、暗紅色の溶岩がのたうち、気泡が弾けるたびに細かな火花を散らしている。灼熱の気流が桟橋の隙間から吹き上がり、シルフの残した冷気と混ざり合って、歪んだ陽炎を作り出していた。
シルフは岩壁を背に立ち上がるが、その顔は先ほどよりも青白く、唇からは血の気が引いている。冷汗が額を濡らし、肌に張り付いていた。爆発で引き裂かれた彼女の極寒領域は、今や薄い霧のような冷気を残すのみだ。
「生きて……る。私たち、生きてる……っ!」
シルヴィアの声は、喉の奥から絞り出されたような熱を帯びていた。死の淵を覗き込んだ後の過呼吸に近い高揚感と、脳裏に焼き付いた真空の恐怖——その残響が、彼女の華奢な肩を激しく震わせていた。
クレアは俺の側に寄り添い、砕け散った神聖結界の残骸の中で激しく咳き込んだ。彼女の口元から淡い金色の光が漏れる——神力の過剰消費による代償だ。彼女が上げた瞳には、未だ癒えぬ動揺が宿り、握りしめた十字架は微かな光を維持することさえ危うい。
「今の爆発……恐ろしすぎました……」
そうだ。絶対的な実力を誇る俺たちであっても、自然が振るう剥き出しの物理法則の前では、滑稽なほどに矮小な存在に過ぎない。
俺は周囲を見渡し、この「鋼鉄の怪物」の全貌をようやく捉えた。溶岩の上にそそり立つ巨大な鋼鉄の要塞。漆黒の合金で鋳造された壁体は、地底の深き闇を貫くように聳え立っている。壁面には無数の砲口と覗き窓が並んでいるが、今はどれもが死んだ魚の目のように昏く、沈黙した巨獣のような圧迫感を放っていた。俺たちが激突したのは、要塞外縁の桟橋に過ぎない。錆びついた手摺の多くは断ち切られ、その先には万丈の溶岩溜まりが口を開けていた。
「ここが、るつぼの街の外郭要塞か」
俺はハドレットを握り直し、低い声で言った。周囲を警戒する。今の爆発を、中の連中が見逃すはずがない。
直後、要塞の深部から重厚な蹄の音が響いてきた。「ガシャン、ガシャン」と、規則正しく沈痛なその足音は、金属が擦れる耳障りな音と共にこちらへ近づいてくる。音は次第に大きくなり、地面を微かに震わせた。桟橋の礫が溶岩へと転がり落ち、消えていく。
シルフが神経を尖らせ、冷気を再び凝縮させた。
「アイアンドワーフね……それも、かなりの数よ」
クレアは深く息を吐き、乱れた心を強引に沈める。手の中の聖遺物が再び淡い白光を放ったが、今度は光を最小限に絞り、俺たち三人を包む守りとした。
俺はゆっくりとハドレットを構える。刃が微かな白光を反射し、冷たい輝きを放った。肋骨の裏の心臓は、未だ狂ったように打ち鳴らされている。それは恐怖ではない。絶境における戦慄だ。溶岩の灼熱と物理法則の蹂躙、そして迫り来る鉄矮人の軍勢。俺たちは袋の鼠であり、もはや退路などどこにもない。
蹄の音はさらに近づき、要塞の通路の先に、紅く光る無数の眼が見えた。機械の冷徹さと肉体の狂気が混濁した、アイアンドワーフたちの瞳。大地の血に染まり、呪いを背負った叛徒の群れだ。
俺はシルフとクレアを横目で見た。その瞳には疲労と動揺が混じりながらも、退く気配は微塵もない。
「構えろ」
俺は低く告げ、ハドレットの切っ先を城門へと向けた。
灼熱の気流、凍てついた鋼、狂乱の蹄音、そして溶岩が鳴らす轟音。それらが混ざり合い、この暗き地底で絶望の戦闘序曲を奏で始める。溶岩の上に眠り続けていた鋼鉄の要塞が、ついにその眼を、ゆっくりと見開いたのだ




