月下の戴冠、儀式は成れり
暮れなずむ頃、銀滴の谷の月光は川のように広がっていた。今宵の月は玉のように丸く、清らかな輝きが修復されたばかりの聖霊殿へと惜しみなく注がれている。石造りの殿舎は冷たく潤った光を放ち、接ぎ合わされた廊柱は月光に縁取られ、残る亀裂さえも銀の薄衣を纏った歳月の証のように見えた。
二ヶ月余りの修整を経て、アールヴ・ヘイムとルナシールは焦土の荒廃を脱ぎ捨てていた。ドワーフが鍛えた青銅の灯火が廊下に並び、暖かな火光と月の清輝が、儀式に集まった人々の輪郭を鮮明に映し出す。白い長袍を纏うエルフ、獣皮の鎧を翻す獣人、酒袋を下げたドワーフ。その姿は入り混じり、平穏な調和に満ちていた。
聖霊殿の中央、月光を浴びる至高聖座の前には、エルフの織り子が手掛けた銀紋の絨毯が敷かれ、新生した生命の樹の刺繍が月へと枝を伸ばしている。俺は柱に寄りかかり、背中の長剣から伝わる冷たさを周囲の灯火で紛らわせていた。シルヴィアは少し離れた場所に立ち、ミント酒の入った杯を抱えている。彼女の狼耳は生気を失い、湿った鉛のように垂れ下がっていた。しかし、その背後で尻尾だけが、泥を打つ鈍器のごとく左右に蠢いている。それは歓喜というより、内側にこびりついた形容しがたい衝動を必死に押し殺そうとする、獣じみた痙攣に近かった。。
ウォルスは聖座の左側に立ち、銀の縁取りの白い衣を纏っていた。月光花を髪に挿し、円月を見上げる彼女の横顔は清輝に照らされて柔和だったが、その瞳はどこか遠くを見つめ、思索に耽っているようだった。
クレアとルルが彼女の傍らに寄り添う。クレアは銀灰色の長袍を纏い、成熟したしなやかな曲線を衣に滲ませていた。微かに開いた襟元からは繊細な鎖骨が覗き、緩く流れる髪が胸元に落ちる。その眼差しには歳月が醸し出す気怠い色香が宿っていた。ルルはエメラルド色の短いエルフのドレスに身を包み、青い瞳を好奇心に輝かせながら、時折クレアの袖に顔を寄せていた。
ラインハルトは最前列で直立していた。金色の鬣は月光に銀色へと染まり、仕立ての良いスーツを纏う姿は、普段の豪快さを消し去り、儀式への真摯な敬意だけを漂わせている。
一人の友人として、その溢れる自信と、奴の内に秘めた紳士としての矜持を俺は認めていた
儀式を司るのは大ドルイドのアドリアンだ。彼は月光石の杖を握り、聖座の前へと進み出た。その声は老いてなお朗々と響き渡る。
「満月が空に掛かり、万象が秩序へと帰る。今日、我らはアールヴ・ヘイムの新王の誕生を目撃する。――マクベサ殿下、前へ」
扉が開き、マクベサ・エヴィヘルが静かに歩み寄る。銀白の王袍を翻し、王冠を持たぬ彼女の姿には、自ずと威厳が備わっていた。月光を映す紫の瞳には温かみが宿り、それでいて揺るぎない決意が秘められている。
「マクベサ殿下」
アドリアンが杖を突き、頭を垂れる。
「ドルイドの名において、貴女に未来を予言し、指針を示しましょう」
全場が息を呑む中、マクベサは静かに手を挙げ、それを制した。
「必要ありません、アドリアン長老。未来は予言の中ではなく、我らの手の中にあります。エルフは永生を失いましたが、今を大切にすることを学びました。私は、私自身と民が切り拓く道を信じます」
静寂の後、柔らかな拍手が沸き起こった。老ドルイドは安堵の表情を見せ、杖を引いて退いた。
その時、傍らにいたウォルスが微かに震えた。彼女は円月を見つめたまま、瞳孔を散らせ、無意識にラインハルトへと視線を走らせた。彼女は袖を握りしめ、夜空を見上げる。月光に、刺すような冷たさが混じった気がしたからだ。
マクベサは階段を上り、全員に向き直った。
「今日、私、マクベサ・エヴィヘルは王位を継承し、ここに誓う」
「私はこの地のあらゆる生霊を護る。エルフ、獣人、ドワーフ、そして遠き友よ。皆、この地の同胞である」
彼女はドワーフと獣人の代表に感謝を捧げた。
「生命の樹は芽吹いた。マギナ・サヴィレックがその命で浄化したのだ! この苗木は希望の象徴。アールヴ・ヘイムと共に育てよう」
銀の葉と月光石の王冠が彼女の頭上に戴かれた。彼女は今、至高の魔導師であり、女王となったのだ。
「女王陛下万歳!」
歓喜の声が銀雫の谷にこだまする。
儀式が終わり、人々が去る中、マクベサはテラスで独り、月を見上げていた。俺が歩み寄ろうとすると、先に声をかけてきたのはウォルスだった。遠くのクレアと目配せをすると、彼女は微笑んでこちらへ歩いてくる。
「お兄ちゃん、さっきの予言、私……」
「何かを見たんだな?」俺は彼女の言葉を先回りした。「良くないことなんだろう?」
「……うん。一面の赤、血のような赤が見えた。誇り高き獅子が頭を垂れ、谷の森が南へと動き、代わりに新月が空に掛かるの」
誇り高き獅子? 俺はラインハルトの背中を探した。彼はいつの間にか女王の隣に張り付いている。
「行こう、私たちもあちらへ」
「予言の内容が気になるか?」ラインハルトが尋ねた。 マクベサは振り返り、その紫の瞳に深い色を湛えた。「私は予言を拒みましたが、気にかけていないわけではありません。ウォルスも何かを感じ取ったようです」
彼女は真剣な眼差しを私たちに向けた。「ラインハルト、ミン。貴方たちはアールヴ・ヘイムの盟友だと信じています。もし将来、この地に再び危機が訪れるなら、私は全身全霊でそれを阻止すると誓いましょう」
彼女の瞳には強い覚悟が宿っていた。俺は遠くの灯火を見つめ、深く頷いた。
「俺もだ! その時は、俺もここに立ってやるさ!」
ラインハルトは豪快に笑い、俺の肩を叩いた。
一人の友人として、前言撤回!このクソ獣人め、少しは加減を知れ。
だが、目の前の光景は、心からの安らぎを俺に与えてくれた。夜風が生命の樹の苗木の香りを運び、円月が静かに新生の地を見守っている。ただ一人として知る者はいなかった。ウォルスが垣間見た赤い幻影が、どこか遠くで静かに胎動を始めていることを。




