届いたい恋歌(クレア視点)
指先が便箋の縁をなぞる。墨痕にはまだ、古びた熱が微かに残っていた。アルフヘイムの騒乱を伝える言葉の端々に、私の胸は言いようのない歓喜で震える。聖城の門でお別れしてから、もう九十六日が過ぎた。可笑しなことだけれど、机の引き出しの奥に、ナイフで一日、また一日と離別の刻を刻みつけていた。その深さの違う傷跡は、貴方――閔に再会できる日を数える私の心そのものだった。
子供たちは皆、元気にしている。貴方が救い出したあの少年、ベリサリウスは特にそうだ。強情な性格で、木剣を握る姿には負けず嫌いな根性が宿っている。父も彼を気に入り、軍の将軍に推薦して戦場で鍛え上げようと目論んでいるほど。
他の子らもかつての臆病さを脱ぎ捨て、導師のもとで読み書きや算術を学び始めた。聖光への類稀なる才能を見せた数人は、私の独断で聖歌隊へ入れた。貴方が教会という組織に、拭い去れぬ嫌悪を抱いていることは知っている。腐敗した教条も、偽善的な振る舞いも、貴方の信頼には値しない。けれど、信じてほしい。聖歌隊は権力争いに明け暮れる派閥とは違う。そこにあるのは純粋な聖光の詠唱、魂を癒す浄土だ。子供たちを世俗の汚れに染めさせたりはしない。
心からの想いが涙となって溢れ、瞳を潤ませる。募る恋心と、どこか遣る瀬ない寂しさが筆先から零れ落ちようとしていた。袖をまくり、墨を整え、貴方の名を記したところで、不意に筆が止まった。結局、筆を置く。紙の上にぽつんと残された「閔」の一文字が、余計に貴方への想いを掻き立てる。手紙で案じるより、自ら会いに行こう。その念いは一度芽生えると、もう抑えようがなかった。アルフヘイムへ、今すぐ貴方に会いに行きたい。
簡素な荷物を纏め、教会と子供たちのことを託すと、護衛を連れて夜の聖城を密かに出発した。飛空艇でアルフヘイムへと急ぐ。ムクキンスを通過する際、窓の外を見下ろせば、遠いレグニッツ河畔では職人たちが煙塵の中で忙しなく動き、何か巨大な工事を進めていた。思わず口角が上がる。貴方はいつもそうだ。多くを語らず、行動だけで場所を変え、大切な人々や物事を静かに守り抜く。
飛空艇が銀雫の谷の境界に近づくにつれ、空気は異様な気配を帯び始めた。澄んでいたはずの空は、厚く濁った暗雲に閉ざされ、その下には狂気にも似た邪悪な気配が漂っている。何より奇妙なのは、谷の内外が別世界のように違うことだった。四、五月の陽気で外は草木が芽吹いているというのに、谷の中には細かな雪が舞い、窓に触れた冷気は瞬く間に霜を結ぶ。
暗雲の上に二つの月が掛かっていた。一つは禍々しい血の色、もう一つは清廉な銀の光。その対照的な光が、銀雫の谷をいっそう不気味に照らし出す。荒れ狂う魔力の波動が艇を叩き、魔力エンジンが耳障りな異音を立てる。貨物室の家畜たちは怯えて吠え、護衛たちの腰の剣さえも微かに震えていた。
「これ以上は進めません!」船長の声に狼狽が混じる。「魔力が乱れすぎて、墜落の恐れがあります!」私は唇を噛み、すぐそこに見える谷の入り口を見つめて覚悟を決めた。近くの町に不時着した隙に、荷物を背負い、護衛たちを連れて銀雫の谷の奥へと足を踏み入れた。
一歩入れば、静寂がすべてを飲み込もうとしていた。雪は激しさを増し、肩に落ちる冷気は骨身に沁みる。泥と血と氷が混じった地面が、踏みしめるたびに鈍い音を立てる。宿屋を探し当て、和善な女主人から貴方の消息を聞いた。彼女の顔には深い憂いの色が浮かび、最近の異変を語りながらルルという少女を呼んだ。
ルルは清らかな目をした娘だったが、その瞳の奥には隠しきれない焦燥があった。私を見るなり貴方の近況を尋ね、「ずっと店に顔を出していない、手紙を一通残したきりだ」と。彼女の不安そうな様子を見て、私の胸騒ぎも激しくなった。閔、貴方はどこにいるの? 危険な目に遭っていない?
護衛隊長のロバートに頼み、ルナシールへと向かった。かつて繁栄を極めたエルフの商業都市が視界に入った瞬間、私の血の気が引いた。立ち並んでいた商店も、魔法の灯火も、今はただの火の海だ。天を焦がす煙、崩れ落ちた回廊、燃え盛る残骸。空気には焼けた木材と血の臭いが充満していた。
心臓を掴まれたような痛みに、息が詰まる。閔、無事なの? 火の中に閉じ込められていない? 怪我はしていない? 幾千もの不安が脳裏を巡り、今すぐ火の中に飛び込みたい衝動に駆られた。
ロバートが私を宥め、護衛たちが道を切り拓いて、ようやくドルイド教会の臨時拠点に辿り着いた。巨大な樹人が立ち並び、その根から淡緑色の癒しの光が溢れ、傷ついた兵士たちを包み込んでいる。その傍らで、金髪に琥珀色の瞳をしたエルフの少女が、必死に結印して新月を維持していた。彼女の顔は紙のように白く、魔力の限界は近い。ベリサリウスと共に貴方に救われたあの子だと、すぐに分かった。
その時、鋭い邪音が脳内に突き刺さった。赤子の産声のような、けれど深淵から届く冷たくおぞましい響き。耳を塞いでもなお、震えが止まらない。癒しの光が乱れ、樹人の葉が枯れ落ち、少女の印が明滅する。保たれていた均衡が、今にも崩れようとしていた。
激痛に耐えながら、私は必死に貴方の行方を捜した。通りかかった見習いに問い詰め、ようやく貴方が聖霊殿へ向かったことを突き止めた。私はロバートの隙を突き、マントをきつく締め直して風雪の中へと駆け出した。もう、一刻も待てない。
雪は降り続き、風に巻かれた氷片が顔を打つ。廃墟は雪に覆われ、燃えカスの灰も血痕も、すべてが純白の下に隠されていく。血月が影を潜め、冷ややかな月光だけが積もった道を照らしていた。
微かな魔力の波動を頼りに、聖霊殿の前で足を止める。かつての威厳を失った門。広場の雪は足首を埋め、武器も骸も清らかな白に呑み込まれている。あまりの静寂に、私は息を整えて一歩ずつ石段へと近づいた。
そこに、貴方が立っていた。いつもと変わらぬ、氷のように冷たく疎遠な佇まい。背負った「青い蓮」が月光に冷たく光り、死霊の寒気を纏っている。けれど、その眉間には僅かな疲労が滲んでいた。
そして、貴方のすぐ隣には、一人の銀髪の女が立っていた。 腰まで届く銀白色の長い髪。頭上には狼の耳があり、後ろにはふんわりとした尾が垂れている。その尾は呼吸に合わせて、無意識に、親密そうに雪の上を掃いていた。
黒いタイトな装束が彼女のしなやかな身のこなしを強調し、透き通るような肌と、冷徹で野性味のある美しさを際立たせている。彼女はあまりにも自然に貴方の傍らに立ち、尾を揺らすその仕草さえ、貴方との深い親愛を感じさせた。雪に洗われたこの静寂の中で、その光景はあまりにも、私の目に毒だった。
心臓がどくんと重く沈み、自分でも認めたくないような、酸っぱい感情が込み上げる。 彼女は、誰? なぜ貴方の隣にいるの? 二人は、どういう関係なの? 幾千の疑問が渦巻き、喉元まで出かかった「閔」という言葉が、氷の塊に塞がれたように出てこない。私はただ、舞い落ちる雪の中で、その銀髪の獣人を見つめ続け、答えを渇望していた。




