王の威光と、忌むべき種
聖霊殿の空気は、凝固した血のように重く澱んでいた。 エルフ王の視線は長い間シルヴィアの上に留まっていたが、その瞳の奥で渦巻く感情は、王としての威厳によって冷酷に押し殺された。彼はゆっくりと視線を外し、枯れ木のような手で、己の袖を掴むカーシャの指先に触れた。それは優しさではなく、絶対的な庇護の誇示だった。
カーシャの瞳に勝ち誇った色が浮かぶ。彼女はさらに親密に王の懐へ寄り添い、その膨らんだ小腹を王の腕に押し当てた。 「陛下、シルヴィア様も一時の迷いでしょう。家族の間で刃を向けるなんて。この子が生まれれば、アールヴ・ヘイムの王族として、陛下を支えるこの国の礎となりましょうに」
「礎……だと?」 マクベサの声は砂を噛むように掠れていたが、その一言は殿内の触手を震わせるほどに響いた。「私たちの地脈を汚し、聖なる井戸を腐らせ、民を畸変体へと変えながら……今さら国を語るか」
カーシャの笑みが一瞬凍りついたが、すぐに王の後ろに隠して、妖しく笑った。 「陛下、私も身に余る運命に従ったまで。古神の加護なくして、どうして王族の種を宿せましょう? これは天命、アールヴ・ヘイムに与えられた機縁なのですわ」
王は答えず、ただゆっくりと歩みを進めた。カーシャを追い越し、一段ずつ階段を下りていく。暗紅色の月光に照らされたその背中はあまりに頼りなげだったが、その一歩一歩が、私たちの心臓を直接踏みつけるような重圧を放っていた。
階段の最下段で、王は足を止めた。 私、マクベサ、ラインハルト、そしてシルヴィアを順に見据え、最後に背後のカーシャへと言った。「下がっておれ」 カーシャは不満げながらも逆らわず、小腹を庇いながら後退した。その瞳には、なおも狡猾な計算が光っている。
「シルヴィア」 王がようやく口を開いた。そこにあるのは父としての温情ではなく、君主としての冷徹な決断だった。「其方が彼女を万災の源と呼ぶのは、間違いではない。逆賊を斬り、民を護った功績、余の心に刻んでおこう」
シルヴィアの目尻が赤く滲む。短刀を握る手が、わずかに緩んだ。 「父上……」
「だが、その腹に宿るは余の骨肉。アールヴ・ヘイムの王族の血だ」 王の言葉が鋭く転じた。周囲の威圧感は実体となって広がり、私の足元で唸る食屍鬼たちさえもがその咆哮を押し殺した。「余は王である。王族の血を絶やすことは断じて許さぬ。今日、この女に触れることは何人たりとも許さぬ」
「父上!」 シルヴィアが顔を上げた。その瞳にあるのは、信じがたい絶望だ。「その腹の子が、万の民の屍の上に築かれたものだとお分かりですか! 古神に汚染された、忌むべき種なのです! 彼女を生かしておけば、災厄は永遠に終わりません!」
「忌むべき種であろうと、正統であろうと、余の末裔に変わりはない」 王の語調に揺らぎはなかった。枯れた掌に、銀色の精緻な魔力が凝縮されていく。エルフ王族の源流たる力だ。「退くならば、余が自らカーシャを処断し、民に申し開きをしよう。だが退かぬというなら、余への反逆と見なし、敵として討つのみだ」
「処断……ですって?」 マクベサが冷笑を浮かべ、指先の奥術を膨張させた。「妖女を囲っておきながら、何を処断すると? その種が生まれ、古神の力がこの世界を焼き尽くしてからでは遅いのよ!」
ラインハルトも一歩踏み出し、巨斧で石床を砕いた。「エルフの王よ、貴様は狂ったか! 万の生霊の命が、その腹の化け物一人に劣るというのか! 我らはこの女を殺すまで止まらん!」
私の周囲の死気もまた、限界まで濃縮されていた。食屍鬼の瞳の炎が激しく明滅し、私の長剣はカーシャの喉元を真っ直ぐに指した。「王が身内を庇うというなら、容赦はしない。今日、その妖女は必ず死ぬ」
「……ならば、是非もなし」 王の掌の銀光が、狂ったように荒れ狂う。
「抗旨ではありません。天に代わって道を成すのみです!」 シルヴィアが深く息を吸い、絶望を捨てて決死の覚悟を宿した。短剣が鋭く光り、その身は獲物を狙う豹のように低く構えられた。「父上、貴方と敵対したくはありません。ですが、これ以上生きとし生けるものが蹂躙されるのを見過ごすわけにはいかない。今日、不敬をお許しください」
カーシャが王の影で口角を吊り上げたその時、マクベサが動いた。「妖女、小細工はさせないわ!」 指先から放たれた紫色の奥術弾が、カーシャの手首を狙う。王は即座にその身を盾にし、掌の銀光でそれを弾き飛ばした。激しい衝撃波が殿内を駆け抜け、王は数歩よろめき、口端から淡金色の血を吐いた。王族の根源が傷ついた証だ。
「陛下!」 カーシャの叫びが響く中、殿の暗がりに潜んでいた「影」が、微かな呻きを上げた。
俺はその音を追った。 影の中にうずくまっていたのは、無惨に壊れ果てた一人の女。
「お母様!」
シルヴィアの身体が激しく震えた。 かつての端麗な面影はどこにもない。顔半分は紫色の畸変に侵され、膨れ上がった腹部からは、黒く濁った二本の臍帯が引き摺り出されている。彼女は無数の触手に拘束され、ただ瀕死の獣のように喘いでいた。
「お母様!」 シルヴィアが駆け寄ろうとしたが、私はその肩を強く掴んで止めた。
「静まれ!」王が狂気に満ちた叫びを上げた。「お前たちには分からん! これは全て、永生のためなのだ!
十年前の大戦以来、地脈が傷つき、エルフの寿命は削られ続けてきた。族群の滅亡を恐れた王は、古神の力に手を染めたのだ。カーシャの腹の子を「依代」とし、古神の力でエルフを頂点に返り咲かせる――それが、王の選んだ狂った存続だった。
誰のためにこんなことしてると思ってるの?其方らが阻むというなら、たとえ血を分けた娘であろうと、大義のために滅ぼしてくれよう!」 王は王座の傍らから、古びた銀白色の聖剣を引き抜いた。王族の象徴であるはずのその剣には、いまや禍々しい紫色の霧が纏わりついている。王は迷うことなく、その刃をシルヴィアへと振り下ろした。」
「シルヴィア!」 私とマクベサの声が重なる。だが間に合わない。 聖剣が彼女を両断せんとしたその瞬間、影の中から凄まじい勢いで這い出した肉塊が、彼女の前に立ちはだかった。」
――グサリ。
肉を貫く鈍い音が殿内に響き渡る。 淡金色の血と、濁った紫の漿液が混ざり合い、シルヴィアの全身に降り注いだ。
盾となったのは、あの怪物になった皇后だった。
温かい液体が顔を濡らす。懐かしい金色の香りと、吐き気を催す腐臭。 シルヴィアは石のように固まった。目の前で、聖剣に貫かれた母の身体がゆっくりと崩れ落ちる。 貫かれた腹部から臍帯が千切れ、濁った液が床を浸していく。畸変した顔に残った唯一の瞳が、最期に娘を慈しむように見つめ、そして光を失った。




