血色の月
鉄の軍勢が、沈黙を破りルナシールの城門へと殺到した。
サヴィレックの歩みは止まらない。かつて「嘆きの壁」と呼ばれたその剛力が、今は内側から都を壊すための槌となり、重厚な花岗岩の城門を紙細工のように粉砕した。石材が砕け散る砂煙の中、守備兵たちは甲冑を震わせて立ち尽くしていた。彼らの瞳に映ったのは、死んだはずの、あるいは病に倒れたはずの「英雄」の姿だ —— 玄鉄の鎖が体を纏い、幽藍の炎が瞳に宿り、かつての琥珀色の残光はどこにもない。
「さ、サヴィレック将軍…… 将軍が、帰還されたぞ!」
兵士たちの声が引きつる。かつての部下であった小隊長が、恐怖と安堵が入り混じった無様な表情で走り寄り、その場に膝を突いた。卑屈な慰労の言葉を口にしようとした —— その時だった。
上空から、狂気に満ちた叫びが降り注いだ。
暗影のグリフォンを駆るマクベサ。彼女の銀の衣装は血沫で染まり、紫色の瞳が血色の空を焦がし、冷酷に見下ろしていた。「エルフの民よ、カーシャの圧政に耐え忍ぶ日は終わった! 退けば死、抗えばまた死。等しく死すならば、この腐り果てた国と殉じる覚悟はあるか!」
彼女の指先から放たれたアークメイジの嵐が、理性を失った紫色の業火となって地上を薙いだ。不敬な言葉を吐こうとした貴族も、カーシャの威光を傘に着ていた現将軍も、その肉体ごと一瞬で細かい塵へと磨り潰された。骨の砕ける音、肺が焼かれる嗚咽、すべてが奥術の咆哮にかき消されていく。
だが、地獄の本番はここからだった。
大地が、断末魔のような叫びを上げた —— それは地脈が歪む音、泥土が腐敗する音、無数の生命が汚染される慟哭だ。カーシャがこの地を流れる「大地の血」そのものを汚染し、ムーンウェルの泉脈へと強引に注ぎ込んだのだ。
銀雫の谷が、不気味な朱色に塗り替えられていく。草地が黒く腐り、樹木が触手を伸ばし、泉脈からは紫色の泡が弾け、悪臭が空気を満たす。空を見上げれば、かつての優しい星空は消え、漆黒の裂け目が天を覆い —— 無数の巨大な瞳が、その裂け目からこの血色の空間を冷酷に凝視していた。瞳の奥には混沌の闇が渦巻き、見る者の精神を蝕む狂気が漏れ出す。
「…… 空気が、死んでいく」
ウォルスヴィスが胸を掻きむしり、喘ぐように呟いた。彼女の琥珀色の瞳が霧らせ、小手で口を覆っても、汚染された空気が喉に灼ける。「自然の力が消えていく。月が…… 私を拒絶している」
ドゥルイドたちが必死に祈りを捧げ、杖から緑の光を放ち、負傷者たちを浄化しようと試みている。だが、その光は紫色の汚染に触れる瞬間、蠓のように消えてしまう。それは狂気の津波の前の砂城に過ぎなかった。都の中でまだ正気を保っていた者、潜伏していた感染者 —— それらが一斉に、肉を引き裂く音を立てて畸変体へと変貌していく。骨が折れ曲がり、触手が表皮から這い出し、瞳には狂気だけが宿る。
俺の意識には、その瞬間、数万の亡者たちの哀哭が直接流れ込んできた。
狂気。遺憾。不快な執着。その瞬間、生と死の界限が、分かち難く、どろどろに溶け合った —— もはや生者か死者か、人か怪物か、区別すらつかない混沌だ。
「…… だから、こんな怪物が生まれるのか」
俺は独り言を吐き、剣の柄を握り直した。氷霜が刃身に蔓延り、背中の蓮花紋様が微弱に輝く。俺の感覚の中では、生者も死者も、もはや区別がつかない。聞こえてくるのは、かつての生けとし生けるものの魂が、ねじ曲がった肉体の中で上げている悲鳴だけだ。
目の前に立ち塞がるのは、さっきまでエルフとして言葉を交わしていたはずの者たちだ。農民の男、屋台の少女、訓練生の兵士 —— それが今は、理性を失い、触手を振り回す肉塊となって俺に牙を剥く。涎水と汚染液が滴り落ち、喉からは無意味な吼え声が漏れる。
かつての同胞に、刃を向けられるか?
俺は答えを出さないまま、一歩踏み出した。氷霜の剣が地面を掠め、霜が枯れ草に付着する。この血色の月の下では、迷いこそが最大の毒だ。死者の嘆きを止める方法は、たった一つしかないのだから ——
すべての混沌を、刃で刈り取ることだ。




