マクベサの回顧録――紫影の盟約(マクベサ視点)
その蟹は、無惨な死を遂げていた。
ルナシルの王宮地下水道。堆積した泥の中に横たわる巨大な甲殻は、腐敗した海で座礁した廃船のようだった。節々には淡紫色の奥術の残滓が、垂れ下がった腐肉のように力なく蠢いている。
「……汚らわしいわね」
私は嫌悪感を隠さず、指先に付着した膿水を拭った。戦いの最中に何かを落としたようだが、振り返りはしなかった。これほどまでに醜悪に肥大化した獣を思うと、吐き気がした。何を喰えば、これほどまでに無様に太れるのか。黒い泥の底では今も泡が弾け、得体の知れないものが潜んでいる。
私は呼吸を整え、目を閉じる。瞳を開いた瞬間、私の周身の気配は暗影と一つに溶け合った。靴底が砕石を踏んでも音はせず、ただ一瞬の残像だけが闇に消えていく。
エルフのグランドメイジとして、私は指先を微かに動かした。銀紫色の偵察魔法が波紋のように広がり、手のひらの上に半透明の立体地図が浮かび上がる。通路の脈絡、怪物の位置、エネルギーの結節点。
「これほど複雑に絡み合っているなんて……」
地図をスクロールさせるが、二百メートル先で情報の端が途切れている。その先はまだ深い闇だ。地図上で黄色く点滅しているのは巡回中の野狗たち。魔法感知を持たない彼らには、この闇に溶けた私の姿は見えない。だが、さらに深部に潜む赤い点――畸変体は別だ。肢体はねじれ、汚染の霧を纏ったそれらは、ただそこにいるだけで空気を腐らせる。
注意すべきは通路中段の橙色の光。真実の視界(真実の眼)を持つ個体だ。私の隠密を暴き、虚像を切り裂く力を持っている。
私は足先で地を蹴り、フラッシュを発動させた。身形は一瞬で数メートルを飛び越え、正確に視界の外にある影へと着地する。沿道の畸変体が私のいた方へ緩慢に首を向け、そして動きを止めた。畸変体たちは緩慢に躯体を揺らし、触手すらも私の方向へ試すように伸ばしてくる。だが、やがて興味を失ったように向き直った。私は魔力を最小限に抑えながら、地下の未知なる領域へと深く「跳躍」を繰り返していく。
突如、手のひらの地図が刺々しい灰色の光を放った。
法術エネルギーが激しく泡立ち、霧散していく。地図は歪み、維持していた漸隠術の魔力が指先から零れ落ちた。ただの魔力干渉ではない。これは標的を絞った「反魔法場」だ。周囲の魔力を手繰り寄せようとしても、石を底なし沼に投じるように手応えがない。
この感覚には、見覚えがあった。
「サヴィレック……!」
この精密で、一切の容赦のない封印。冠位魔導師の根源魔力さえも押し潰すこの手際は、あの反魔法の天才将軍以外にありえない。なぜ、彼がここに封印を施しているのか。
私は本源魔力を絞り出し、この禁制を強行突破しようと試みた。しかし、反魔法場は魔法の刺激に反応してさらに膨張し、背後の闇からは魔力と生肉を渇望する畸変体たちの咆哮が響き始めた。真実の眼を持つ個体の、重く急いた足音が近づいてくる。
「忌々しいわね……!」
ためらうことなく、転移の護符を投げつけた。足元で薄紫色の転移陣が爆発した。反魔法フィールドで薄れていたとはいえ、その光は封鎖を突破するのに十分だった。背後の異形の咆哮は近づいてきたが、私は既に転移陣の中に消え、広がる反魔法フィールドの冷気なオーラだけが残っていた。
転移地点は宮殿の壁の外、人里離れた路地裏にあった。壁に寄りかかり、息を整えた。混沌とした魔法の波が押し寄せ、眩暈が襲ってきた。状況は想像の百倍も悪かった。まさに「嘆きの壁」と呼ばれた男。彼はもう既に病んでいるはずではなかったか? どうしてカーシャの仲間になったのだろう。彼の反魔法フィールドは、カーシャの秘密が隠されているはずの地下核を封印していた。
エルフの城門は固く閉ざされ、上級貴族は操り人形に過ぎず、父の護衛を動員するだけの軍事力も私にはなかった。ドワーフと人間は数千マイルも離れた場所にいた。待ちきれなかった。
残された唯一の可能性は、銀雫の谷の境界にいる獣人の部族だった。私は魔力の不快感を抑え、周囲に残るオーラを隠し、街の混乱に紛れて城壁をよじ登り、ヴォルセンの荒野へと急いだ。サヴィレックの離反は、この危機をさらに厄介なものにしていた。
ヴォルセンの野営地は、私の想像をはるかに超えて組織化されていた。木の柵が何十もの獣皮のテントを囲み、焚き火の灯りは荒野にひときわ輝き、辺りは焼肉と強い酒の香りで満たされていた。キャンプを守っていた獣人たちは即座に巨大な斧を構え、低い咆哮で地面を震わせた。
「エルフ? ここはお前のいる場所じゃない!」
同時に、地平線から数羽の鳥が飛来し、着地して豹へと姿を変えた。フクロウが木に止まり、私を見つめていた。
私は無傷を示すために片手を挙げた。指先にわずかな奥術の光を凝縮させる。 「私はダンカン・エヴィヘルの血を引く者。アールヴ・ヘイムが冠するグランドメイジ、マクベサ・エヴィヘルよ。貴公らの王に伝えなさい。銀雫の谷の命運は今、この私の指先にかかっている。一刻を争う事態よ、道を空けなさい」
衛兵たちはためらいがちに視線を交わし、ついに一人が報告のために野営地へと入った。次の瞬間、奥から重々しい足音が響き、門がゆっくりと開き、光の中を逞しい人影が歩いてきた。
獅子頭の王子、ライインハルトだった。普通の人の二倍近い体躯。金色の鬣が炎のように肩を伝っていた。琥珀色の瞳は鷲のように鋭く、草原の覇者のオーラを放っていた。しかし、彼の視線が私に注がれると、その獰猛なオーラは一瞬にして凍りつき、琥珀色の瞳孔は大きく開き、骨刃を握る手さえもわずかに引き締まった。
レオナルドは私に近づいてきた。それまで引き締まっていた顎のラインは明らかに柔らかくなり、無意識に背筋を伸ばして、より威厳のある印象を与えようとしていた。彼は口を開き、予想以上に低く嗄れた声で言った。 「……貴女が、あのアールヴ・ヘイムの? ……信じられん。伝説に語られる月光よりも、実物は遥かに……いや、失礼した。我が営地へよくぞ来られた、エルフの賢者よ」
私は驚きを抑え、魔術師らしい落ち着きと傲慢さを保った。 「我が名はマクベサ。見ての通り、都はカーシャの汚泥に沈み、反魔法フィールドが地下を封鎖し、上級貴族たちは我々に敵対した。……単刀直入に言うわ。私は貴公らの鉄の軍勢を借りに来た。あの忌々しい汚染を、ヴォルセンの斧で叩き潰すために」
周囲の衛兵たちがざわめいた。エルフに兵を貸すなど前例のないことだった。しかし、レオナルドは部下の反応を無視し、私の顔に視線を釘付けにした。 「わかった」 彼はためらうことなく同意した。その口調はあまりにも毅然としていて、私は唖然とした。
レオナルドはすぐに背後の衛兵に命じた。「精鋭部隊五千を直ちに集結させ、武器と食料を準備せよ! 明日、エルフの街への援軍として出発する!」
「陛下! これは……」衛兵たちは驚き、彼を止めようとしたが、レオナルドは鋭い視線で彼らを遮った。「決心したことだ」
彼はすぐに私の方を振り返り、明らかに媚びへつらうような口調で言った。 「マクベサ殿、その……長い旅で疲れもあろう。我が天幕でしばし羽を休めてはどうか? 草原で最も甘い果実と、最上の酒がある。それに、……私が自ら火を通した獲物だ。悪くない味のはずだ」
ついさっきまで威厳に満ちていた獅子王が、今度は賞賛を待つ大きな犬のように私を見つめていた。 「無用よ」と私は冷たく答えた。「もてなしを受けるために来たのではないわ。……時は血を流して過ぎ去っている。必要なのは休息ではなく、進軍の足音よ」
「わかった、わかった! 何でも言うとおりだ!」 レオナルドは全く苛立っていなかった。それどころか、金色の鬣が興奮で震えていた。彼は私の後ろを歩きながら、馬に乗らないか、道を開けてあげると絶え間なく申し出た。
エルフの街の方角を見つめると、指先からかすかな紫色の光が放たれていた。兵を借りるという目的は達成されたが、奇妙な不安が胸にこみ上げてきた。
レオナルドは私の不安を察したのか、厳粛に言った。「マクベサ殿。……案ずるな。何が起きようと、この俺が貴女の盾となろう。ルナシールの危機は、我が部族の誇りにかけて払拭する。貴女に危害を加える者があれば、その魂ごとこの骨刃で噛み砕いてやる」
私は彼を一瞥した。彼の黄褐色の瞳は、偽りのかけらもなく、誠実さと決意に満ちていた。もしかしたら、この獅子頭の王子こそが、この危機における最も予想外の変数となるかもしれない。




