マギナ・サヴィレック
シルヴィアがログの最後の一ページを捲った。その手は、凍りついたように動かなくなった。紙面にはカーチャの朱色の印だけでなく、宮廷顧問官や各部の貴族たちの署名が、黒い虫の群れのようにびっしりと並んでいた。エルフ族を護るべき上層階級の全てが、あのオークの女の爪牙に成り下がっていた。
「……この貴族たちが? 全員が、この悪行に加担していたというの?」 彼女の翡翠色の瞳には、怒りと絶望が渦巻いていた。握りしめた指先は白く強張り、指腹は紙の皺に深く食い込んでいる。
俺は散らばった日誌と検体瓶をかき集め、計画の核心が記された数枚を懐に押し込んだ。 「これは単なる変異実験じゃない。権力争いでもない。カーチャの目的は地脈そのものを汚染し、感染を拡大させることだ。エルフという種族そのものを、底なしの深淵へ引きずり込もうとしている」 俺は日誌の『地脈汚染計画』という見出しを指差した。そこには実験の工程、聖城との死体交換契約、そして上層貴族を抱き込むための冷酷な戦略が、血の通わぬ文字で刻まれていた。
「最初の被験体は、死を待つだけの老人たちだった。カーチャは彼らに、最初の『大地の血』を与えた。枯れ木に花が咲くような奇跡。彼女はそれを父王に見せつけ、回顧録のごとき成果として差し出した。王は信じ込んだ。だが、その最初の出来損ないどもは魔力を暴走させ、下水道の餌場へ『廃物』として投棄された。死体はそこでさらに汚染を撒き散らした。さらに悪いことに、カーチャは聖城と秘密協定を結んでいた。実験用の囚人と死体の通行権を引き換えに、汚染因子を聖城の地脈へと密かに運び込み、感染源を広げていったんだ」
「次は平民だ。夜闇に乗じて無辜の民を攫い、地脈汚染物を強制的に注入して変異実験を繰り返した。抵抗する者は実験台に送られ、汚染に適応した僅かな者は『大地の祝福を受けた者』として民衆の前に晒された。偽りの希望という餌だ。上層の貴族には別の手を使った。彼らには高濃度の『大地の血』を専売し、寿命の延長と実力の向上を約束した。誘惑に抗えぬ貴族たちは同胞を裏切り、真実を隠蔽するための共犯者へと堕ちた」
「そして、真っ先に標的となったのがドルイド教だ。地脈の異常に敏感な彼らが真実を暴くのを恐れ、カーチャは彼らを汚名に塗れさせた。『ドルイドの祝福が地脈のエネルギーを枯渇させ、寿命を縮める元凶だ』とな。彼女は洗脳された信徒たちの家族を人質に取り、家族の安全か、教えへの忠誠かの選択を迫った。結果、あまりにも多くの者が自分たちの平穏を選び、ドルイドの教えを捨てた」
シルヴィアは深く息を吸い、日誌の縁に記された追記を凝視した。 ――『地脈が汚染に浸食されし時、長生種の生命力は枯渇せん。その時、オークがこの大地を接収する』 「……この八年間、同胞たちが次々と死んでいったのは、天寿を全うしたからじゃなかった。地脈が汚染されていたから……。民の寿命が縮まっていたのも、汚染が拡散していた兆候だったのね」 彼女の声が震えていた。
「ただ……俺はこの名簿の中に、一つだけ妙な記号でチェックされている奴が気になっている」
「どこ?」 シルヴィアが立ち上がり、俺が指した箇所に目を落とした。瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。 「……これは? サヴィレック将軍」
「サヴィレック? あの『嘆きの壁』か」
「そうよ、マギナ・サヴィレック。世に『窃法者』『敵法師』『否定の信仰』、そして『アールヴ・ヘイムの嘆きの壁』と呼ばれた男」 シルヴィアは震える手で実験報告書を受け取った。その名をなぞる指先が、絶望に震えている。 「どうして……どうして実験リストに彼がいるの? 彼は一生をアールヴ・ヘイムに捧げ、王城を守るために呪文さえも捨て去った男なのよ。そんなことが……」
窃法者、敵法師、否定の信仰、そして嘆きの壁。その頭文字の全てが、反魔法における彼の到達した高みを示していた。最後の一つの名は、彼の強大さが揺るぎないものであることの証明だった。
俺は剣を鞘に収めた。刃の冷たさが指に伝わり、胸の奥の重苦しさを押し殺す。 「泣いても始まらない。これを王都の奴らに見せてやるんだ。カーチャの約束した寿命も力も、全てがペテンだったと。上層の腐敗、民の犠牲、地脈の汚染の上に築かれた統治など、粉々に砕いてやる」
言葉が終わるか終わらぬかの時だった。 死んでいたはずの通路の奥から、重苦しい「ガラ……ガラ……」という鎖を引きずる音が聞こえてきた。腐食したコンクリートの上を鉄の輪が擦れる、耳障りな鈍い音。湿った空気の中を、その音はゆっくりと這うように近づいてくる。天井から滴る水滴が汚泥に跳ねる音さえ、その鎖の音を際立たせるための静寂に思えた。
俺とシルヴィアは同時に身を屈め、通路脇の石壁の影に潜んだ。 壁からは冷たい水気が滲み出し、腐肉と汚染特有の生臭い臭いが鼻を突く。俺はシルヴィアの肩を押し、声を殺せと合図した。呼吸を極限まで抑え、壁の隙間から音の主を見据える。
わずかに差し込む幽光の中に、巨大な輪郭が浮かび上がった。 並の精灵より二回りは巨大な体躯。軍人特有の毅然とした背筋を保ちながらも、その動きはどこか硬く、異様だった。全身に太い鎖が絡みつき、その一端は肩骨や腹部に深く食い込んでいる。錆びた鎖には黒ずんだ血と乳白色の粘液がこびりつき、一歩進むたびに火花が暗闇で小さく弾けた。
その男が近づくにつれ、俺はその正体を確信した。 サヴィレック将軍。 だが、そこに伝説の「嘆きの壁」の面影はなかった。上半身は裸で、背中には移植されたもう一対の腕――四本の腕が蠢いている。身体の継ぎ目からは暗赤色の汁が溢れ、肌は地脈汚染に侵された不気味な青灰色に変色していた。目は黒布で覆われている。だが、その奥には復讐の焔が岩漿のように渦巻いているのが分かった。
皮膚の下で何かが蠢き、触手が表皮を突き破ろうとしている。顔を横切る深い傷からは紫の粘液が滴り、顎で凝固していた。右手が壁を撫でると、コンクリートが容易く削り取られ、無惨な痕跡を残す。左手は拳を固く握りしめ、そこには剣を握っていた頃の死兵の執念が宿っていた。
「サヴィレック将軍……」 隣でシルヴィアが絶望に満ちた呟きを漏らした。彼女は彼の腰にある紋章を見ていた。汚染に塗れてもなお、それはサヴィレック家の誇りを示していた。
マギナは俺たちの存在に気づかぬまま、本能に従い歩を進める。その足取りは重く、汚泥を跳ね上げる。彼から放たれる汚染の気配は、これまで遭遇したどの変異体よりも濃密で、息が詰まるほどだった。彼の体内では、強大な闘気と汚染の力が狂ったように衝突し、喉からは獣のような呻きが漏れている。
彼は俺たちの隠れる石壁の近くで足を止めた。 首をゆっくりと巡らせ、俺たちの方向を見据える。通路は静止した。聞こえるのは鎖の余韻と、古びた鞴のような、血の臭いのする荒い呼吸音だけだ。
シルヴィアの手が震え、短剣を握り直した。それは恐怖ではなく、極限の悲しみだった。俺は背中の剣の柄を握りしめた。刃が熱を帯び、背中の蓮花が幽藍の冷焔を灯し始める。 目の前の男は、もう将軍ではない。カーチャの実験台で産み落とされた、最強の殺戮人形だ。
サヴィレックの喉から、地を這うような咆哮が上がった。 異化した触手が、俺たちが潜む石壁を薙ぎ払う。凄まじい風圧と共に石壁が爆発し、瓦礫が舞った。俺たちの姿が、ついにその紫の眼光の前に晒される。
サヴィレックが天を仰いで吼えた。鎖が激しく打ち鳴らされ、通路に轟音が響き渡る。 四本の腕が獲物を定める。殺意が、逃れられぬ重圧となって押し寄せてきた。
更新が遅れたことを、ここに詫びる。
このエルフ編の背景と大綱をどう構築すべきか、今日はずっとそればかりを考えていた。この種族の宿命を「整合性のある絶望」へと落とし込む作業は、想像以上に困難で、頭を悩ませるものだった。
だが、ようやく一本の線が繋がった。 この荒涼とした世界の理と、マギナ・サヴィレックという男の悲劇が、物語の歯車を正しく回し始めたと感じている。
待たせた分、この先の展開で応えたい。




