捨て場
「……また下水道か」 かつての王国での、吐き気を催すような記憶がよみがえる。だが、今回は少し様子が違うようだ。俺は前を歩く背中に問いかけた。 「なあ、あんたはどうやって出入りしてるんだ? 真正面から突破すれば済む話だろう」
シルヴィアが足を止め、振り返った。その翡翠色の瞳には「こいつは馬鹿なのか」と言わんばかりの呆れた色が浮かんでいた。 「……言っておくけれど、私は潜行者よ。それも『常闇の君主』に最も近い存在。完璧な静歩と隠身をこなす私と、貴方を一緒にしないで」
「グループ隠蔽の魔法か何かはないのか?」 「そんな便利なもの、あるわけないでしょう。諸神の戦で、北から攻め寄せたオークの軍勢がなぜ私たちの防衛線を突破できなかったと思う? エルフのこの神業とも言える反隠密技術があったからよ。それに……これでも私は皇女なの」
「なら、皇女の権限で一人くらい通せないのか?」
「何度も言わせないで。今の国は私の支配下にはない。自分の身を守るのが精一杯なのよ。貴方を連れて堂々と入ってみなさいな。その瞬間に、あの一番の『クソ女』に筒抜けになるわ」
(……へえ、美人の皇女様も罵り言葉を知っているらしい)
俺が皮肉の一つでも返そうとしたその時だった。 「――ッ!」 言葉を発する間もなく、彼女が俺の腕を強引に掴み、濁った水の中へと引きずり込んだ。そのまま、廃棄された地下水道の入り口へと身体を沈める。
しばらく進み、水の引いた場所で這い上がると、俺は不満を隠さずに吐き捨てた。 「……何がどうなってる。いきなり突き落とすことはないだろう」 「……静かにして、馬鹿。さっき、追っ手が来たのよ」
彼女は鋭い視線を地上の方へ向けたまま、短く言った。 これがデスナイトと潜行者の違いか。俺の感知能力は、そこまで広範囲をカバーしてはいない。ましてや、ここは自然の加護を受けた連中の領地だ。
暗く湿った下水道の奥から、腐敗した水の匂いとは別の、不吉な魔力の胎動が伝わってくる。俺たちは泥を纏ったまま、さらに深淵へと足を踏み入れた。
俺たちはさらに奥へと足を踏み入れた。湿り気を帯びた闇が、俺たちの輪郭を飲み込んでいく。ふと、俺は足を止め、隣を歩くシルヴィアの肩を掴んで制止した。
「……待て」
「何よ、どうしたの?」
シルヴィアが不審げに声を潜める。俺は鼻腔をくすぐる、あの不快な、だが馴染み深い臭いに顔を顰めた。
「……死の臭いだ。それも、異常なほどに濃い」
石造りの階段を慎重に降りると、そこにはかつての排水路が姿を現した。だが、そこにあるべき水はとうの昔に失われ、残っているのは鼻を突く悪臭を放つ泥濘と、正体不明の何かが浮かぶ汚泥だけだった。 遠くで、スライムが粘り気のある音を立てながら蠢いているのが聞こえる。
俺は排水路の縁に膝をつき、その泥の中に沈んでいる「何か」を詳しく調べようと目を凝らした。その時だ。
「――離れてッ!」
シルヴィアが俺の手を掴み、強引に後ろへ引き倒した。 次の瞬間、目の前の汚泥が爆発したように跳ね上がり、巨大な影が姿を現した。それは、甲殻を赤黒く変色させた巨大なザリガニのような異形だった。泥を撒き散らしながら、鎌のようなハサミが俺のいた場所をなぎ払う。
「……おい。こんな代物をペットに飼うのが趣味なのか?」
俺は剣の柄に手をかけ、吐き捨てるように言った。シルヴィアは顔を青くし、忌々しげにその化け物を見据えている。
「知らないわよ、あんなもの……。嫌よ!……一生、エビ料理を口にする気にはなれそうにないわ!」
俺たちは、自分たちの足元にあるのが単なる下水道ではなく、もっと悍ましい何かの「捨て場」であることを悟り始めていた。




