シルヴィアの願い
シルヴィアの指先がグラスをなぞる。冷えた硝子に湿った線が走った。ムーンフラワーの甘い香りと酒場のカビ臭さが混じり、肺の奥に沈殿する。彼女のエメラルドの瞳はグラスの底に据えられ、長い睫毛がその光を殺していた。
「この十年で、アールヴ・ヘイムは死んだわ」
声は冬の夜風のように硬い。
「気づかなかった? 同胞たちの顔を。千年の時を謳歌すべき種族が、今は枯れ落ちるのを待つだけの落葉のように死を急いでいる。国を支えた長老たちはこの十年で消えた。残ったのは老いさらばえた王と、何も知らぬ若者だけ。この国は、年齢という断層で切り裂かれているのよ」
俺は黙って、彼女が言葉に込めた「死」の数を数えた。
その空白に潜り込んだのが『大地の巫術教』だという。月を敬うエルフたちが、今は泥にまみれた土着の神に、縋るように額を擦り付けている。
「姉は失踪し、父母は姿を現すことさえ叶わない。今、中央宮を支配しているのは、戦場で拾われた卑しいオークの女よ」
彼女は足を組み替えた。革の擦れる音が沈黙を深める。
「高貴なエルフの国が、一匹の女オークの掌の上で転がされている。滑稽でしょう? でも、それが現実。この国は外からは見えない巨大な膿瘍を抱えているの」
「女の名はカーチャ。戦場の瓦礫を這いずっていた兵崩れが、老衰した父を欺いた。彼女は古代の儀式を禁じ、泥を捏ねる司祭どもを招き入れた。月の女神への祈りは土に染まった呪文に取って代わられ、祭壇の銀の柱は土色に塗られた。かつて月の露を湛えた器は、今や『大地の血』という名の汚物で満ちているわ」
俺はエールを飲んだ。渋い味が喉を焼く。彼女の首元には黒い石の鎖。その邪悪な気配は、彼女が忌み嫌う魔術のそれと重なっていた。この王女もまた、俺と同じ闇を歩み始めている。
「長老たちの死は偶然ではない」
シルヴィアが顔を上げた。瞳孔が怒りで渦巻いている。
「連れ去られた彼らは、宮殿の花壇で『養分』となった。私は見たわ。鮮やかに咲く黒薔薇の根に、エルフの骨が絡みついているのを」
声は地を這うように低くなり、彼女の手はコートの内ポケットを探った。
「カーチャは武器を蓄え、国境のオークと結託している。彼女は支配など望んでいない。破壊を望んでいるのよ。自分を蔑んだこの国を、根こそぎにすることを。だが、私には力がない。信奉者は消され、残った若者は剣を握る勇気さえ失っている」
隅で老人が咳払いをした。静寂がより重くのしかかる。シルヴィアはワインを飲み干し、その瞳を俺に向けた。賭けに出る者の目だ。
「妹を救った礼を言いに来たわけではないわ。あなたのことは知っている。聖都の裏切り者、伯爵邸を血に染めた一匹狼。腐敗した掟を断ち切ったあなただけが、カーチャに手をかけられる」
彼女は銀のバッジを卓に出した。王家の紋章には、暗い亀裂が走っている。
「姉が遺した、宮殿への隠れ道の印よ。潜入の導き、共謀の証拠、魔術の罠の回避。私が手貸しできるのはそこまで」
バッジが俺の方へ押し出された。指先が魔力で白く染まる。殺意の奔流が、花の香りをかき消した。
「カーチャを殺して。この悪夢を終わらせて。引き換えに、王家の残滓を尽くしてあなたの望むものを与える。追放事件の真相か、あるいは安住の地か」
俺は二つに割れた紋章を見つめた。それから、彼女の目に宿る絶望の火を見た。 内紛、陰謀、呪術。泥沼だ。だが、この女の冷徹な眼差しは、かつての俺によく似ていた。
オイルランプが爆ぜ、光の中にシルヴィアの影が揺れる。彼女はそれ以上、何も言わなかった。判決を待つ囚人のように。だが、その背筋はどこまでも鋭く、折れてはいなかった。




