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死して八年、デスナイトとして蘇る。――この食い荒らされた世を切り裂き、狂った因果に復讐を  作者: Tiny Abomination in a Jar


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シルヴィア

飛空艇は、雲海の隙間から遠くにそびえるエルフの王都『アールヴ・ヘイム』をかすかに望み、やがて濃厚な霧に吞まれる薄明の森へと緩やかに降り立った。晨霧は牛乳のように白く濃密で、翼から滴る露が霧の中を墜ちる音まで鮮明に聞こえ、周囲の樹木はその霧をまとい、銀色の葉脈がぼんやりと浮かび上がる——ここが『銀雫のシルヴァ・ヴェイル』と呼ばれる地だ。



この谷は自らの秩序を持つ混沌だ。東側には獣人フーリの主城ヴォルセンの石造りの城壁が、霧の彼方に黒々と影を落とし、風には獣毛の野性味と鉄の錆びた匂いが混ざって漂ってくる。谷の中部には、野蛮人たちが太古の岩石を積み上げて築いた巨大なピラミッドが鎮座し、表面に刻まれた不明な紋様が霧光を反射し、古の沈黙を守るように静かに佇んでいる。地面は腐葉土で柔らかく、足を踏み込むたびに微かな吸い込まれる音がし、周囲の樹々は高くそびえて天を遮り、僅かな朝光が葉の隙間から糸状に射し込むだけだ。



俺たちは山頂の係留所で飛空艇を降りた。係留所の木製足場は朽ちかけており、踏むとギシギシと軋む音を立て、周囲には商い人たちの喧騒が沸き起こっている——ドワーフの商人が鉱石の袋を扛ぎ、エルフの売り手が薔薇の花束を並べ、獣人の傭兵が武器を片手に談笑している。それらの声と、獣の体臭、鉱石の土臭さ、花の香りが混沌と混ざる空気が、谷の独特な迎え物だ。そこで一頭の馬車を拾い——車輪は鉄製で溝の深い模様が刻まれ、馬は黒毛で目つきが鋭い——王都を目指して北上を始めた。だが、月光で輝く街『ルナシル』の境界線にある石門の前で、俺たちは銀の鎧を身に着けたエルフ衛兵たちに道を塞がれた。衛兵たちの鎧は霧で湿っており、剣の鞘には銀の装飾が施され、冷たい視線で俺たちを見詰めている。



不穏な緊張感が空気に流れる中、背後から柔らかな足音が近づき、細い指が俺の外套の裾を軽く引いた。俺は瞬時に手を剣柄に置き、振り返ると、黒い外套にフードを深く被った蒙面の潜行者が立っている。その身なりは霧に溶け込みやすく、呼吸は細かく、周囲の騒ぎに完全に紛れている。



俺はルルの肩を軽く押して身を隠させ、その影に導かれるまま、検問所の脇にある仄暗い路地裏へ滑り込んだ。路地裏の壁は苔むき、地面には泥水がたまっており、壁には野蛮人の描いた粗野な絵が刻まれている。やがて目の前に現れたのは、『泥の足跡』という名の宿場町——木造の家々が密集し、屋根には干した獣皮が垂れ下がり、街角の灯火は霧にかすんで僅かな赤みを放ち、往来には少数の旅人や地元の人々が、足早に通り過ぎている。ここは検問所の監視が届きにくい死角で、空気には酒と汗、泥の匂いが強く漂っている。



連れて行かれたのは、宿場町の奥にある『古びたいかり』という酒場だ。看板は風雨に晒されて褪色し、描かれた錨の模様がほとんど判読できず、木製の扉はひび割れており、開けるときにキーキーと鳴る。この辺りはエルフや獣人が多数住む地域だけに、人間が経営する酒場は珍しい存在だ。



中は酷く静まり返っていた。エルフたちが好む柔らかなハープの音も、獣人たちの騒がしい笑い声も、商談のためのざわめきもない。ただ、油の切れた鉄製ランプが微かにパチパチと爆ぜる音と、カウンターの奥で店主がガラスを布で磨く単調な音だけが、暗闇の中に響いている。店内は薄暗く、僅かな光がテーブルの上に斑点状に落ち、客は僅か三人——隅の席に腰を下ろした老いたドワーフ、カウンターに座る無言の旅人、そして奥の席に隠れた一人——だけで、誰も口を開かず、それぞれの孤独を守っている。「ここなら、耳の長い連中の監視も届かない」と、影が短く言い、声は中性的で、周囲の静けさに吸い込まれるように消えた。



薄暗い最奥の隅の席に案内され、その人物は外套のフードをゆっくりと払い、顔を覆っていた黒い面布を外した。

彼女がフードを外した瞬間、酒場のカビ臭い空気は一掃された。


 鼻腔を突いたのは、これまでに嗅いだことのない、奇妙で強烈な香りだった。  それは夜の闇にだけ咲く『月下香げっかこう』の、むせ返るような甘い芳香だ。だが、その甘さの底には、北方の原生林でしか漂わない『冷杉シラビソ』の、肌を刺すような冷たい木の香りが潜んでいる。


 高貴な宮廷の香油と、湿った夜の森の匂い。  その二つが混ざり合い、彼女の体温で熱せられて、逃げ場のない挑発となって俺の感覚を揺さぶった。


 銀色の髪が、溶けた月光のように肩から胸元へと流れ落ちる。非の打ち所のない端正な顔立ち、完成された「毒」のような美しさだった。


 彼女が身を乗り出すたびに、胸元の薄い革が軋み、その隙間からさらに濃密な香りが立ち昇る。


 翡翠色の瞳は潤んでいるようでいて、その奥には獲物を射抜くような鋭い光を宿している。僅かに開いた唇は熟れた果実のように赤く、そこから漏れる吐息が、この薄暗い席に場違いな甘い香りを振りまいた。


 彼女が姿勢を変えるたびに、身体の線に沿った薄い革のインナーが、豊潤な胸の膨らみと、引き締まった腰のくびれを露骨に強調する。王女という高潔な位にありながら、その身のこなしには、男の理性を掻き乱すような、抗いがたい魅惑が滲み出ていた。


だが、俺はその顔に奇妙な既視感を覚えた。



(……どこかで見た顔だ)



記憶の底をかき回す。聖都の惨劇が蘇り、血と火の中で、あの小さなエルフの娘の姿が浮かび上がる。そうだ、あの聖都の事件で出会った、王宮から逃げてきたあの小さなエルフの娘。名前は何と言ったか——フィオナ? リーナ? あの日以来、一度も会っていない。言葉も数えるほどしか交わさなかったはずだが、その瞳の形や眉つきが、確かに重なる。



ふと、自分でも驚くほど饒舌になっている自分に気づいた。死から戻って以来、俺の中の何かが変わり始めている。以前は口を閉ざして言葉を惜しんだ俺が、無意識に話が多くなり、他人の顔を詳しく観察するようになった。それが良いことなのか、悪いことなのかは、まだ分からない。



「……何だい、そんなにジロジロ見て」



俺の凝視に、そのエルフの女性は少しだけ居心地悪そうに肩を狭め、翡翠色の瞳を俯めた。銀色の髪が額にかかり、その柔らかさと、彼女の身に纏っている暗い外套の硬さが対照的だ。



「悪い。知り合いに、よく似た奴がいたもんでな」



「今時、そんな使い古された口説き文句を聞くとは思わなかったわ。……ふふ、冗談よ」



彼女は短く笑い、その笑声は小さく、店内の静けさに優しく響く。そして背筋を伸ばして姿勢を正し、再び俺の目を真っ直ぐに見据えた。翡翠色の瞳の奥に、先ほどの戯れ心は消え、深いものが宿っている。



「シルヴィア。シルヴィア・エヴィヘルだ。この国の第二王女であり……貴方に命を救われた、あの幼い妹の姉よ。妹が貴方のことをよく話してくれたわ。大変世話になったね」



王女。その高貴な称号の響きとは裏腹に、俺の鼻腔を突くものがあった。それは、戦場の血のような濃厚な、却って隠しきれない危険な匂いだ。王女の身でありながら、こいつもまた、俺と同じように、見せかけの光すら当たらない、薄汚い仕事に手を染めているのか。



彼女は妹から聞いた、「どこにも居場所のない孤魂野鬼ここんやきのような男」の話に興味を持ち、俺をここまで導いたのだという。。だが、彼女の瞳に宿る光は、再会の喜びよりも、もっと暗く、深刻な影を帯びている。霧が酒場の窓から侵入し、她の輪郭をぼんやりと包み、その表情が更に謎めいている。



「ここからは、お遊びじゃないわ」



彼女の声は静かだが、その中には容赦のない決意が込められている。店内のランプが一時的に明るく輝き、彼女の翡翠色の瞳に映る俺の姿が、一瞬だけ鮮明になった。

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