王の論理
聖王が静かに口を開いた。「そこまでにせよ、我が子よ」その語り口には、微かな、だが捉えがたい温かみが混じっていた。「お前は十分にやった。あとは、我らに任せればよい」
「……何者だ?」俺は断刀を握る手を緩めず、目の前の男を鋭く睨み据えた。その男が放つ、深淵のごとき底知れぬ威圧感は、並の貴族のそれとは到底比較にならない。
「私はこの聖都の王だ」男は平然と自らの正体を明かした。背後の暗衛たちは石像のように直立不動を保ち、指一本動かそうとしない。「まずは武器を収めよ。お前と敵対しに来たわけではない。むしろ感謝しているのだ――この聖都を蝕んでいた、反吐が出るような変態貴族どもを掃除してくれたことをな」
「感謝だと? 全てを知りながら傍観していた貴様が、今更何を言う」
聖王はゆっくりと俺の前に歩み寄り、誠実な口調で懐柔を試みる。「傍観していたのは、機が熟していなかったからだ。奴らは王国の庇護を盾に腐敗を極め、人の命を草のごとく扱ってきた。だが奴らの根は深く、私が不用意に動けば中層は乱れ、最後には下層の民が犠牲になる。だがお前は違う。お前は一切のしがらみを持たぬ、無双の刃だ。お前という存在が、私の代わりにあの毒瘤を断ち切ってくれたのだ」
彼は俺の瞳を真っ直ぐに見つめ、抗い難い対価を提示した。「私はお前の勇気を愛し、その力を認めている。もし私に帰順するなら、辺境の統帥に封じよう――クレイアの婚約者が座るはずだった、あの地位だ。クレイアのことはよく知っているだろう? 美しい娘だ。嫌いではないはずだ。その地位を得れば、お前は大法官ヴィルジルの後ろ盾を得て、彼女と堂々と添い遂げられる。そしてこれからは、聖都の害虫を私の名の下に掃除すればよい。闇に隠れて殺し続けるより、よほど救いがあるとは思わんか?」
「帰順だと? 無辜の血で得た栄華に何の意味がある。子供の命で埋めた均衡の穴を、正義と呼ぶのか」俺は断刀を握りしめた。指節は白く浮き上がり、瞳には決絶の光が宿る。「……夢でも見ているのか!」
「ああ、赤子の血管壁がどれほど厚いか知っているか? 子供の心室がどれほど広いかを知っているか? 人間、獣人、エルフ、ドワーフ、それぞれの身体構造の違いがどれほどのものか、お前は想像したことがあるか?」聖王の声は依然として穏やかだが、その底には凍てつくような冷徹さが潜んでいた。「この研究が、前線の将兵や、城内で暮らす子供たちの命をどれほど救うか分かるか。偉業とは、常に血をもって成されるものなのだ! しかも奴らは身分も記録もない野人、外から逃れてきた流民に過ぎん。彼らの生死など、通緝(指名手配)されることも記録されることもないのだ」
言葉が終わるより早く、俺は爆発的な勢いで地面を蹴り、離弦の矢の如く聖王へと肉薄した。断刀が冷気を纏い、その面門を切り裂かんとする。この虚偽の王に理屈など通じない。腐り果てた帳を切り裂くのは、刃以外にあり得ない。
「放肆なッ!」
聖王の影から、凄まじい気配が爆発した。真紅の鎧を纏った赤色の影が空気を切り裂いて飛び出し、重剣を雷霆の勢いで振り下ろす。奴は俺の刃をかわしながら、正確に足尖を狙って俺の下盤を動揺させ、瞬く間に連撃を叩きつけてきた――一撃で俺の機動力を奪うつもりだ。
俺は瞳孔を収縮させ、即座に【氷封の靭】を起動した。足元で幽藍の符文が炸裂し、冷気が四肢に駆け巡る。骨の隙間までを凍らせて身体をその場に釘付けにし、その重撃を強引に受け止めた。「ガァンッ!」重剣が符文の障壁に激突し、耳を聾する轟音が響く。骨にまで響く衝撃に血の気が荒ぶり、口の中に鉄の味が広がった。
防戦一方では終わらせない。俺は喉の奥で唸り、体内の【吸血鬼の血】を狂ったように燃焼させた。瞳の青い光が血のような赤へと染まり、毛穴から噴き出した暗紅色の霧が冷気と混じり合い、不気味な気旋を巻き起こす。【霊界の打撃】による瞬間的な回復を糧に、俺は断刀を握り直し、強引に身体を捻って相手の手首を反撃で削りにかかった。
だが、俺は奴らを過小評価していた。これは決闘ではない。完璧に調整された国家の殺戮機械による合囲だ。俺が反撃に転じた刹那、遠方の影に淡紫色の法術光輪が灯った。「氷封!」冷徹な声とともに、【氷結の新星】が俺の周囲で炸裂し、鋭い氷柱が関節を縛り上げる。反撃の勢いが強制的に止められた。
「くそっ!」俺は【死の足取り(デス・アドバンス)】を起動し、足元の氷を砕いた。冷気の中に血路を切り開き、法術師へと突進する。だが二歩と進まぬうちに、背後から精神を刺し貫く激痛が走った――影に潜んでいた司祭(牧師)だ!【精神の叫び(サイキック・スクリーム)】が神魂を直撃し、俺の意識は一瞬にして混濁した。
これが奴らの罠か! 俺は激痛に耐えながら【亡者の本能】を展開し、恐怖の侵蝕を無理やり撥ね退けた。だが、その刹那の停滞は致命的な隙となった。廃墟の影から黒い影が飛び出す――【潜行者】だ! 毒を塗った双匕が【毀損】を刻み、俺の防壁の薄い肩と脇腹を正確に切り裂いた。
最初に出手した戦士が、追撃の重剣を上段から叩きつける。金属がぶつかり合う轟音と共に、俺の手首は痺れ、断刀が手からこぼれそうになる。強烈な衝撃で後退を余儀なくされ、足元の石板には無数の亀裂が走った。
戦士、法術師、潜行者が三方から合囲する。重剣、魔法、そして毒の刃が織り成す死の網。俺は血を吐きながら断刀を回転させ、辛うじて匕首を弾き飛ばすが、戦士の力は想像を超えていた。
「――ぐはっ!」重剣が防線を突破し、肩に深々と突き刺さった。俺はよろめき、片膝をついた。断刀を杖にして身体を支えるが、呼吸は荒く、視界は赤く染まっていく。
聖王は動かず、惜別の情を込めた声で言った。「何故だ? 辺境統帥の座、栄華、クレイア……どれもお前の足掻きより価値があるはずだ。クレイアの夫となれば、元帥、大元帥への道さえ開かれるのだぞ」
激痛と甘い囁きが混じり合い、意識が闇に沈みかける。だがその寸前、脳裏に眩い光景が走った。空を突く鋼鉄のビル、人人平等に微笑み合い、飢えも圧迫もない灯火の街。……それは、俺がかつて生きた世界。
「……見たんだ」俺は血を吐き出し、重い瞼をこじ開けた。 「何だ?」聖王が眉をひそめる。
「俺は、あんな未来を見たんだ!」俺の声は夜を切り裂いた。「誰もが腹一杯に食べ、階級の圧迫もない未来を!貴様の言う制衡も犠牲も、全ては暴政を維持するための欺瞞に過ぎん!」
聖王の顔から温和さが消え、冷徹な威厳が満ちた。「荒唐無稽な! それは空虚な幻想に過ぎん!」彼は俺に背を向け、皇権の圧迫を解き放った。「お前は強いが、自分一人すら守れん身で何を語る。奴らを殺して、誰が財政を支え、誰が城壁を守るのだ? 民をどうやって生かすのだ?」
聖王は猛然と振り返り、その瞳は鷲のごとく俺を射抜いた。「我がやり方より上手くやれるというのなら、この聖王の座に座ってみせよ!」
その声には、確信に満ちた嘲笑が含まれていた。俺は最後の力を振り絞り、背中の青い紋様を輝かせた。だがその時、五人目の角闘士――大ドルイドが動いた。足元から現れた蔦が身体を縛り、頭上から【日光術】と【月光術】の連撃が降り注ぐ。星辰の奔流に打たれ、俺は意識を失いかけた。
ドルイドが潜行者を嘲笑う。「老いたか、それとも手加減したか? 角闘士にあるまじき失態だな」
聖王が冷たく俺を見下ろす。「哀れな。お前は殺戮しか知らず、幻想を抱くだけの存在だ。螳螂が斧を以て隆車に当たるが如し。……これが私の知る、王国を存続させる最善の論理だ」
俺は反論しようとしたが、戦士の蹴りが胸にめり込み、壁へと叩きつけられた。断刀が手から離れ、高い音を立てて転がる。意識が遠のき、ただ荒い息をつくことしかできなかった。
聖王はため息をついた。「循環こそが安定なのだ。期待していたのだがな……。やれ」
俺は喪家之犬のように引きずり起こされた。奴らは俺の首筋に、淡緑色の薬液が入った針を正確に突き刺した。薬液が回ると同時に身体は硬直し、意識は底なしの闇へと沈んでいった。最後の瞬間まで、俺の脳裏にはあの平和な世界の情景が浮かんでいた。
聖王が去ろうとした時、石床を叩く靴音が響いた。ゆっくりとした、だが力強いリズム。火光の中に現れたのは、深紺色の修身スーツを纏った男。甲冑は着ていないが、その仕立ての良さは鋼鉄よりも硬質な威厳を放っている。彼こそが、アストリア・ヴィジール 大公。
彼は金縁のモノクル(片眼鏡)を直し、白手套で袖口の埃を払った。聖都の最高大法官たるその瞳は、結案済みの巻宗を眺めるかのように冷徹だった。
「私の娘を出し汁に使われるのは、不快だな」アストリアの声には、冷徹な理性と押し殺された怒りが混じっていた。
「良いではないか、アストリア。お前もかつてはあやつを気に入っていたではないか?」聖王が皮肉げに笑う。
「木訥な唖だ。空を眺めることしか知らぬ男の、どこを気に入れというのだ」
「ははは。赤ん坊の頃の話だよ」
アストリアは沈黙し、鼻で笑った。「ふん、確かにあの瞳はその女に似ている。……して、何故生かしておく? 留めておけば、いずれ禍根となろう」
聖王は足を止め、複雑な口調で答えた。「期待しているのかもしれんな。あやつが叫んだあの未来……。荒唐無稽だが、それが現実に存在するのか、見てみたいと思ったのだ」
アストリア大公は静かに頷いた。「承知した」
聖王はそれ以上語らず、夜の闇へと消えた。アストリアは最後に俺を一瞥し、角闘士たちに連行を命じると、自らも聖王の後を追って姿を消した。
この章を書き終えた今、私の心境は非常に複雑です。 「これは、本当に私が表現したかったことなのだろうか?」 自問自答を繰り返しましたが、結局のところ、答えは「イエス」でした。
これは単なるファンタジーの世界の話ではありません。現実の世界に目を向ければ、食糧の年産量は増え続けているのに、飢え死にする人々はむしろ増えている。そんな矛盾が至る所に転がっています。
私がこの物語を書き始めた最大の動力は、「この世の中は、こうあるべきではない」という強い憤りでした。
どれほど強固で、どれほど理不尽なルールであろうとも、それを真っ向から打ち破ってくれる——そんな主人公の姿を描きたい。彼のような存在が、この閉塞感に満ちた「理」を壊してくれることを願って。
次章から、物語はさらに深く、残酷な真実へと足を踏み入れます。 それでも、彼の刃が折れることはありません。
最後までお付き合いいただければ幸いです。




