ディラン、煙草の代わりに米を食う。の巻
その男が店に入ってきたのは、昼と夕のあいだ──
ちょっと気だるくて、どこかが寂しい時間だった。
「しんじつ亭」の暖簾がふわっと揺れる。
「……やってるかい」
声は軽かったが、目は眠っていた。
体は痩せこけ、ボロのマントからのぞく首元には、古傷が一筋。
煙草のにおいと、雨の残り香。
何より“何かが欠けている空気”をまとった男だった。
奥の厨房から出てきたのは、割烹着姿の無精ひげ男。
いつものように無言で客を一瞥する。
「……好きな席にどうぞ」
「ありがと。……いい匂いだな、なんか、こう、帰ってきた感じがする」
ふらりと椅子に腰を下ろした男──**ディラン・クローヴァ**は、ニヤリと笑って言った。
「酒、あるかい? ちょっと……そう、体が冷えててな」
オヤジさんは、一瞬だけ目を細めて言った。
「……今日はやめとけ。体が先だ」
「……へぇ。やさしいじゃないの、料理屋の親父さんにしては」
「うちの料理、酒がなくてもあったまる」
「じゃ、そいつを信じてみるか」
オヤジさんは何も言わず、炭火を整え、銀の網の上に鮭を置いた。
**フレイムテールサーモン。**
尾びれが燃えるように赤い、山岳地帯の魚。
焼くと体の芯から温まるとされ、冬場の冒険者に人気だ。
じゅう……っと香ばしい音と煙が立ち上がる。
店の中が一気に“うまい魚のにおい”で満たされていく。
「……なるほど。これは、酒いらんわ」
ディランが小さく笑った。
やがて出てきたのは、こんな定食だった。
【本日の定食】
* 炭火焼き・フレイムテールサーモン(甘辛ダレ添え)
* フォレストライスの炊き込みご飯(木の実・キノコ入り)
* 根菜の味噌汁(森ニンジン、赤イモ、ネギ)
「ほう。……あんた、見た目より、ずいぶんやさしいもん出すんだな」
「ただのメシだ。優しくなんかない」
「ふっ。なら、いただこうか。いただきます──っと」
まずは一口、ご飯から。
もっちりとしたフォレストライスに、森キノコとナッツの香ばしさが加わる。
食った瞬間、腹の底に“ぬくもり”が落ちてきた。
次に、鮭。
皮はパリパリ、身はふっくら。脂がじゅわっと広がって、冷えきった体が“中から溶ける”。
「……これは、効くな」
「冷えてたのか?」
「いや……心も、だ。ついでに言うと、生きてる感じが、ちょっとだけする」
味噌汁をすすりながら、ディランは空を仰ぐように目を細めた。
その顔には、昔の陽気さの仮面が貼られていたが──
仮面の下の“痛み”は、オヤジさんの目にもはっきり映っていた。
「……仲間を、守れなかったんだ」
「……」
「死にかけて、死に損ねて、剣も振りたくなくなった。でも、生きてる」
「生きてるなら、腹は減る。……それだけでいい」
静かに、オヤジさんが言った。
ディランは、しばらく箸を止めてから、小さく吹き出した。
「ハッ……ほんとだ。……腹は、減るんだよな」
飯を食い終わる頃には、彼の頬にほんのり色が戻っていた。
「オヤジさん。酒はダメでも、ここのメシは……ちょっと危ないな」
「……なんでだ」
「うまいからさ。うっかり、生きたくなる」
そう言って、ディランは立ち上がり、銀貨を一枚、カウンターに置いた。
「また来る。……たぶん、生きてたらな」
「……その前に、飯が食いたくなったら来い」
「へへ、そいつも……悪くないな」
そして、ディラン・クローヴァはまた、夜の王都に消えていった。
――今日もまた、「しんじつ亭」は誰かの呼吸を、少しだけ整えた。