プロローグ
「しんじつ亭」の朝は、今日も静かに始まる。
──カン、カン、と包丁が刻む音だけが、薄暗い厨房に響いていた。
その音の主は、無骨そうな中年の男。年の頃は五十を少し越えたくらい。無精ひげに割烹着という、なんともチグハグな格好で黙々と野菜を刻んでいる。
「ラキュモは……まあ、じゃがいもってことにしとくか。煮崩れしねえのはありがてえな」
ボソッと呟いたその声は低く渋く、どこか眠たげ。目つきは鋭いが、疲れたようでもあり、どこか優しげでもある。
男の名前は**辰見誠一**。
定食屋「しんじつ亭」の店主――である前に、かつて“日本”と呼ばれる世界で、裏社会に生きる情報屋だった。
いわゆる、異世界転移者だ。
……と言っても、よくある“召喚”でもなければ、“転生”でもない。
ある日、仕事で裏をかかれ、撃たれて、そのまま目が覚めたら──空が紫色で、鳥が三本脚で、言葉の通じない世界にいたってワケだ。
神様? 使命? チートスキル? ──そんなもん、何もなし。
ただ一つ、“命”だけが残っていた。
「ったく……どこまで不親切な異世界だよ」
辰見は苦笑して、鍋の味噌汁をひとすくい。
使っているのは、この世界の小魚「ヒレダマ」でとった出汁と、“トーフィ”と呼ばれる謎の豆腐もどき。具材に使っている“ラキュモ”は芋のくせに柑橘っぽい風味がして、最初は驚いたが、味噌と相性がいいことに気づいて以来、お気に入りの食材になった。
──腹を満たせば、人間はちょっとだけ素直になれる。
それは、前の世界でもこの世界でも、変わらない“真実”だ。
だから辰見は、もう情報屋には戻らない。
誰かを疑い、操る側にいた人生は、あの銃弾で終わりにした。
代わりに、今度は“まっとうなやり方”で人と関わることにした。
料理を通して、腹を満たすことで、人の嘘を優しく溶かしてやる。
それが「しんじつ亭」という名の由来だ。
「……さて。そろそろ、一人目が来る頃か」
夜明けの街に、パン、と軽く手を打つ。
外はまだ寒い。だが、空は確かに青くなり始めていた。
王都リュミエールの一角、少し外れた裏通り。
冒険者や商人、訳アリの連中がふらりと立ち寄る、小さな定食屋。
メニューは日替わり。中身はすべて、辰見誠一の舌と勘が頼り。
でも、それでいい。
料理は、嘘をつかない。
味は、正直だ。
――だから、ここに来る客たちも。
きっと、ほんの少しだけ「素直」になれる。
「……しんじつ亭、開店だ」
そうして今日も、“ちょっとくたびれた元・情報屋”の一日は始まる。
異世界の片隅で、食と人とが交わる場所。
嘘を焼いて、真実を煮込む、そんな定食屋の物語が――今、始まる。