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光を織る蜘蛛

作者: 松本雀

彼女がレース編みをしているのを見ていると、心の中で糸が、一本ずつ引き締められていくような感覚になる。まるで世界が、彼女の指先の動きに合わせて編み直されているかのようだ。何もかもが、より繊細で、美しく、少しだけ儚いものに変わっていく。私はただそこに立ち、静かに息を潜める。


彼女は毎朝、同じ窓辺に座り、窓から差し込む柔らかな光を背にして針を動かす。光が白い糸を優しく撫でると、糸の一本一本が銀花のように淡く輝く。彼女の指はまるで生き物のようだ。滑らかに動き、音もなく空間に花のような模様を生み出していく。私はその様子を見守りながら、胸の奥でひそかに感嘆の吐息を漏らした。


「どうしてそんなに黙っているの?」と彼女はたまに聞いてくる。声は柔らかく、けれど少し鋭いところがあって、いつも私はどう答えていいか分からず、ただ肩をすくめた。彼女は私の仕草に微笑み、そしてまた黙って糸に意識を戻す。


糸。

それは私にとって特別なものだ。昔の話だが、私は糸そのものが命だったと言っていいかもしれない。糸を紡ぎ、網を張り、捕らえたものをじっと見つめる日々を送っていた。――私は元々、蜘蛛だったのだ。小さな森の片隅に巣を張り、風に身を任せて暮らしていた。ある日、奇妙な魔法使いが現れ、私に選択肢を与えてくれたのだ。「きみは人間になりたいかい?」と。私は少しだけ考えて、そうしてほしいと頷いた。


なぜ頷いたのかは分からない。人間の目で見た景色に興味があったのかもしれないし、風のように自由に歩く足に憧れたのかもしれない。あるいは単純に、何か変化が欲しかったのかもしれない。だが、ひとつだけ確かに覚えていることがある――その時も糸が目の前で揺れていた。細くて、見えないほどの光を纏った糸が。


それから幾年か経った今、私は人間として執事の務めを果たしながら生きている。しかし、糸の感触は今でも私の指先に残っているようだ。彼女の編み出す模様を見るたび、心がふと昔の網に戻るのだ。風に吹かれ、波打ちながら伸びていく蜘蛛の巣。そこに囚われた光の粒。静かで、孤独で、どこか切ない美しさ。


彼女のレース編みは、私にかつての巣の記憶を思い出させる。しかし違うのは、それが「捕らえるための網」ではなく、「誰かに贈るための花」であるということだ。彼女は時折、完成したレースを小さな箱に包んで贈り物にする。「誰かを喜ばせるために、編みたいの」と彼女は言う。そのたびに、私の中の蜘蛛の残響が小さくざわめく。――「贈る?」と。網が贈り物になるとは、昔の私では考えられなかった。


彼女は誰のためにこれを編んでいるのだろう?


友人か、遠い親戚か、それともまだ見ぬ恋人か。私は聞きたくなるが、同時に知りたくない気もする。私の役目は、ただ見守ることだ。糸を見つめ、彼女の動きを目に焼き付け、その一日一日を覚えておくことだ。言葉にしないことが、私なりの忠誠なのかもしれない。


彼女が最後の結び目を作る音が響く。小さな音だが、私には今日の終わりを告げる鐘の音のように思えた。「完成です」と彼女が笑い、私は静かに頭を下げる。


「お見事です、お嬢様」


私の声は昔より少しだけ柔らかくなっているように思う。彼女の編み物は、私の硬く張った心の糸を少しずつほどいているのかもしれない。


レースの模様はいつだって完璧ではない。どこかにわずかな歪みがある。しかし、その不完全さこそが温かい。網ではなく、ただの布ではなく、「人間の手で編まれたもの」。私はそんな不完全さを愛しく思うのだ。


外には風が吹き始めている。私はそっと窓を閉め、彼女の背中を見守る。そして心の中で糸を一本、また一本、結び直す。


◆◆◆


ある日、彼女は編み上げたレースをそっと手に取り、日の光にかざした。細やかな模様の隙間から、光が柔らかく溢れ出し、部屋全体が静かに輝くかのようだ。その一瞬、私は目を細め、まるで初夏の雨上がりにかかる蜘蛛の巣を見ているような気分になった。あのときも確か、光はこんなふうに糸の間をすり抜け、淡い虹のような色を落としていった。


「綺麗でしょう?」


彼女がこちらを振り返り、花のように微笑むと胸の奥にそっとその言葉が降り積もった。私はゆっくりと頷き、言葉を選びながら答える。


「はい、お嬢様。まるで、この部屋に光そのものが降り注ぐようです。」


「光そのもの、か……」彼女は小さく繰り返し、目を伏せる。その瞬間、何か思い詰めたような色が彼女の瞳を横切った。私はその微妙な変化を見逃さなかった。彼女はときどき、編み物をしながら遠くを見つめることがある。その視線はこの部屋や屋敷を越え、もっと遠く、見えない世界に触れようとしているようだ。


「申し訳ございません、お嬢様。何か、お辛いことを思い出させてしまったのでしょうか……」


その言葉が口をついて出るまでに、ほんの少しの間があった。――執事は問わないものだ、と自分に言い聞かせたはずなのに。


彼女は小さく首を振った。「辛いわけじゃないの。ただ、昔のことを思い出しただけよ」


昔のこと――その言葉の奥に、私の知らない彼女の時間が広がっている。きっとそこには、私が知らない名前や声、色や匂いがあるのだろう。それは遠い街の風景かもしれないし、失われた愛の記憶かもしれない。私はその世界には踏み込めない。ただ、そばに立っていることしかできない。


彼女は編んだレースをそっと畳み、小さな木箱に入れた。箱には手彫りの規則的な模様があしらわれていて、控えめだが上品な装飾が施されている。「このレースは、私の母に贈るの」と彼女がつぶやくように言った。その言葉を聞いたとき、胸の奥が僅かに疼いた。


彼女の母――その存在は、この屋敷において、今も長く影を落としている人だった。亡くなった後も、部屋の隅々にその痕跡が残り続けている。まるで、見えない糸が壁に張り巡らされているようだった。彼女が母に贈り物を編む理由を、私は理解しきれなかった。死者に贈る品は、結局誰のためにあるのだろうか?


「母は……最後までこの部屋の光を見ていたの」


彼女は窓越しに遠い景色を見つめた。


「私、ずっとその光を捕まえたくて、編んでいるのかもしれないわね」


私は一歩近づき、慎重に言葉を紡ぐ。


「お嬢様、光は捕まえるものではありません。けれど、その輝きを心に留めておくことはできるはずです。お嬢様が編んだこのレースは、その証です」


彼女はしばらく何も言わず、ただ静かに編み目の模様を見つめていた。私が蜘蛛だった頃には、決して理解できなかった思いだろう。糸は単なる狩りのための道具だった。だが、彼女の編む糸には意味があった。贈り物として誰かを慰め、心を繋ぐためのもの。


「ありがとう、シオン」彼女が優しく、私の名前を呼ぶ。その瞬間、まるで心の奥に光が差し込んだようだった。私が蜘蛛だった頃は名前を持たなかった。ただの虫であり、ただの捕食者であり、ただの影だった。しかし今、私はシオンという名を持ち、彼女のそばに立っている。


「お嬢様……いつか、その光はきっとお嬢様の心に宿ります。決して消えないものとして」


彼女はゆっくりと微笑んだ。その笑みは、静かに編み上げたレースのように繊細で、儚くも確かなものだった。部屋に残ったのは、風に揺れる白いレースと、ふたりの静かな呼吸だけ。


外では風がまた吹き始めていたが、私はそれを気にも留めなかった。ただ、この時間が少しでも長く続くようにと願った。糸がほどけないように。光が途切れないように。


◆◆◆


時間は静かに流れていった。


彼女の指が休まるたび、部屋に訪れる沈黙は、湖の水面のように澄んでいた。しかし、その静けさの奥には、かすかな波紋が広がっているのを感じる。編み終えたレースは確かに美しかったが、その細やかな模様は、どこか不完全な「問いかけ」のように見えたのだ。


私が蜘蛛だった頃、巣を編むときに迷うことなどなかった。ただ本能のままに糸を引き、張り、結びつけていく。その仕組みは完璧で、無駄なものは何一つなかった。しかし、彼女の編むレースは違う。理屈では説明できない小さな歪みや隙間があり、それがまるで人間の心の「ゆらぎ」を映し出しているようだった。


「シオン……」


彼女の声が、私の思考を引き戻した。私は背筋を伸ばし、目を合わせた。彼女の瞳は柔らかな光を宿しているが、その奥に隠れた影は、いまだ薄れずにいた。


「私、母に会えると思う?」


その問いはあまりにも静かで、まるで部屋の中の埃ですら耳を傾けるような声だった。その重みは私の胸に深く沈む。蜘蛛だった頃の私には理解できなかった「死」という概念が、今ではしっかりと形を持って胸に迫ってくる。


「……私はお嬢様が、その思いを抱き続ける限り、会えると信じています」


本当は確かなことなど何一つ知らない。私は魔法で人間にされた存在だ。人間の死後に何があるのかなど、想像することさえ難しい。しかし、彼女に嘘をつくこともできなかった。


彼女は少し考え込み、そして小さな声で呟いた。

「それなら、いいわ……それだけでも、今は十分よ……」


窓の外では、遠い森が風に揺れていた。木々の間を吹き抜ける風は、私がかつて巣を張った森の音に似ているようで、少し違う。私は少しだけ胸の奥をくすぐるような懐かしさを感じながら、その音を聞いていた。


「シオン、外に出ましょう」


突然の言葉に私は少し驚いたが、すぐに頷いた。彼女が自ら外に出ようと言うのは珍しいことだった。私は手早く彼女のショールを用意し、そっと肩にかけた。彼女の肩越しに見えるレースの模様が、まだ揺れているように思えた。


「お誘いいただきありがとうございます、お嬢様」


「ありがとうなんて言う必要はないわ。あなたは私の執事でしょう?」


私は軽く笑みを浮かべ、扉を開いた。外の空気は冷たく、清々しい香りを含んでいた。彼女は深呼吸し、目を閉じて風を感じている。私は一歩後ろに立ち、黙って彼女の横顔を見守った。


「昔ね、母と一緒にこの小道を歩いたことがあるの」


彼女は少しだけ懐かしそうに笑った。


「あのときは、もう少し木々が生い茂っていたけれど……それでも変わらない景色があるのは、少し安心するわね」


「はい、お嬢様」


その言葉に、私自身も胸が少しだけ温かくなるのを感じた。風の音、葉擦れの音、遠くで鳥が囀る音――全てが糸のように絡まり合い、この瞬間を織り上げているようだった。もしこの瞬間も一つの模様として編めるなら、どんな形になるのだろうか。


「ねえシオン、あなたの網はどんな形だったの?」


思いもよらない質問に、私は少し目を瞬かせた。彼女は私を見上げ、まっすぐな瞳で問いかけている。


「……幾何学的な形でした。無駄がなく、強靭で、ただ生きるためのものでした」


「ふふ……あなたらしいわね」


彼女はくすりと笑った。


「でも、今だったら、少し違うものを編むかしら?」


私は少しだけ考え、口元に柔らかな笑みを浮かべた。


「おそらく、お嬢様の笑顔を想った形になるでしょう」


彼女は驚いたように目を見開き、それから少し頬を赤らめた。


「……まあ、あなたも冗談を言うのね、シオン」


「いえ、真面目ですとも」


私たちはしばらくそのまま並んで立ち、風を感じていた。彼女の髪がそよぎ、レースのような影が彼女の肩に落ちる。いつの日か、私たちがこの小道を歩いた記憶もまた、一本の糸として心のどこかに編み込まれるのだろうか。風の中、私は再び胸の奥でひそかに願った。


――この光が、彼女の心に永遠に宿りますように。


◆◆◆


彼女が亡くなったとき、世界から音が消えたように思えた。


風のささやきも、葉が揺れる音も、まるで遠い夢のように遠のいていった。レースの模様のように繊細で、儚く、それでいて確かな存在だった彼女は、静かに糸を断ち切られるように消えてしまったのだ。


私は彼女の最後の瞬間を、執事としての責務を全うするように冷静に見届けた――そのはずだった。しかし、心の奥底では何かが音を立てて崩れていった。糸を張り巡らせるように築いてきた日々の全てが、空中で引き裂かれるような感覚。


葬儀の後、屋敷の静寂は息苦しいほどに重かった。


私の役目は終わりを告げた。誰もいなくなった部屋に、彼女の最後に編んだレースだけが残されている。その細やかな模様は、永遠に結び目をほどけぬ問いかけのままだ。


そして私は気づいた。自分の体が変わり始めていることに。

指が細く、硬く、異様に軽くなっていく感覚――それは記憶の奥底にある感触だった。私の人間としての姿は、静かに崩れ去り、かつての姿へと戻っていった。


八本の細い脚が床を叩く音が響く。もう人間の声も、言葉も持たない。鏡を見れば、そこにはかつて森に潜んでいた頃と同じ、黒い光沢を持つ蜘蛛がいる。私は、かつての私に戻ったのだ。


だが、今はただの蜘蛛ではない。


彼女を知り、彼女の生きた時間を見守った蜘蛛だ。私は壁を這い上がり、かつて彼女が座った窓辺を見下ろした。そこには微かに日差しが差し込み、風に揺れる白いレースがかかっている。


私は静かに糸を紡ぎ始めた。指先ではなく、細長い腹部から放たれる糸が、空間にゆっくりと張られていく。その糸は、かつてのように狩りのための巣ではなく、記憶のための巣だった。私は慎重に、彼女の笑顔や声を思い出しながら糸を結び、模様を描いた。


網は大きな花の形になった。細い糸が絡み合い、柔らかな光を透かし、まるでレース編みのような模様を浮かび上がらせる。風が吹き抜け、網がかすかに震えるたび、私は彼女の声を思い出す。


「綺麗でしょう?」


その声はもう聞こえない。しかし、私はその問いかけに対する答えをずっと胸に抱いている。


――はい、お嬢様。貴女が編んだ光は、今も私の中で生きています。


やがて夜が訪れ、屋敷の影が深くなっていく。誰もいなくなった場所で、一匹の蜘蛛が静かに巣を編み続けている。その糸は、誰に見られることもなく、ただ風の音と共にそこにあり続ける。


かつて執事であり、かつて彼女を見守っていた私には、それで十分だった。

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