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ch.2 呪いを解く鍵


「助けてイルシーナ!」


 見るからに高価なアンティーク調の家具で統一された部屋の主に、アルスは顔の穴という穴から汁を垂れ流して縋り付いていた。


「どうしたんだいアルス。君が私を頼るだなんて珍しいじゃないか」


 アルスが頼ったのは童女だった。

 春の訪れを知らせる桜の様な淡い桃色の髪を三つ編みにして胸の前に垂らし、澄んだ青い瞳を眼鏡越しに輝かせている。まさに知的な少女という雰囲気の女の子だ。


 しかし──ただの童女という訳ではない。


「何でも言ってごらん。こう見えて意外と長生きだからね、私は」


 イルシーナはエルフだ。細長い耳がその証左。

 アルスの人生の何十倍も長い時を生きている。


「聞いてくれよ!  マジで大変なんだ!」


 アルスの様子を見てイルシーナは顎に指を添えて言った。


「長くなりそうだね……それならお茶を用意したいんだけど」


 のんびりとした調子のイルシーナにヤキモキするが、ここで癇癪を起こしたとて何も解決しない。

 アルスにとってイルシーナは育ての親であり、冒険者の師匠──その性格は熟知している。お茶の時間を邪魔して機嫌を損ねてしまうと、一ヶ月は口を効いて貰えない。


 これはイルシーナが根に持つ性格だとかそういう話ではなく、時間感覚の話だ。一ヶ月なんてイルシーナからすればアルスにとっての一日くらいでしかない。

 喧嘩が下手に長引くと年単位の禍根となる。それは絶対に避けなくてはならなかった。


 アルスは一度深呼吸をして、言った。


「なら、俺も手伝うわ」

「ありがとう。でも直ぐに終わるから先に座っていて欲しいな」


 イルシーナが慣れた手つきで紅茶を淹れている間に、アルスは席へ着いた。

 そして気を紛らわせる為に何となく部屋を見渡した。


(こんな部屋だったけな……)


 アルスがこの部屋を訪れたのは七年以上前、まだイルシーナから魔術を教わっていた頃だ。冒険者になってからイルシーナに会う事はあっても家を尋ねる事は無かった。


 人間、成長して心持ちも変われば見える景色も違ってくる物だ。

 あの机で勉強した、あの椅子はよく棚の物を取る時に台代わりとして使った──そんな子供の頃の取り留めない記憶を思い出すと焦っていた気持ちも幾分和らぎ、感慨深い気持ちにさせられる。


 そうしてアルスが部屋を眺めていると、お茶の用意を終えたイルシーナが席に着いた。


「今日はどうしたの?」


 イルシーナがそう言って、紅茶の香りに頬を緩ませながら口に含んだ。

 アルスは単刀直入に先ず自分が何をしたかを伝えた。

 

「一週間前に 、ルサルカを殺したんだけど」

 

 次の瞬間、イルシーナが口の中の紅茶をアルスの顔に向かって噴射した。


「ゲホッ、えほっ!?」


 アルスはビシャビシャになった顔をハンカチで拭いながら席を立ち、咽せるイルシーナの背中を撫でた。

 誤嚥性肺炎は怖い。見た目が十歳前後でもイルシーナはそれなりに高齢だ。労わる必要があった。

 少し落ち着いたイルシーナは肩を震わせながら尋ねた。


「や、殺ったのか……人類史の始まるより前から存在したという……あの不死の王族の一人を!?」


 ルサルカが誰なのか──エルフである彼女が知らない筈もない。むしろその活動の全盛期を知る分、驚愕が膨れ上がっていた。


「うん、まぁ」


 しかし、それに対するアルスの返答は随分と覇気がなかった。


「あ、あれ?  何だか元気が無いね……」


 アルスとて武勇伝を語りたい気持ちはあった──東奔西走して調べ上げた吸血鬼の生態、その過程で集めた武器や防具。そしてどうやって不死の女王と呼ばれる存在を死に至らしめたのか。

 呪いさえなければ丸一日喋り倒していた。


「実はさ……」


 アルスはルサルカから呪いを掛けられた経緯を包み隠さずイルシーナに話した。それは大変な羞恥を伴う行為だったが背に腹は変えられない。

 見ず知らずの他人に知られるよりはマシで、何よりイルシーナにそれを解呪してもらいたくて此処へ来たのだから。

 イルシーナはアルスの話を聞き、神妙な面持ちで口を開いた。


「なるほど。それで元ヴァナディース王国宮廷魔導師たる私を頼った訳か」

「そういうこと……って、元?  辞めたのかよ」

「つい最近ね。で、実際どんな不都合があったの?  別にそれくらい困らないと思うんだけど」

「エルフの価値観過ぎる……」


 エルフは長命であるが故か性欲や繁殖行為に余り興味を示さない。生命としての在り方が定命の者とは違うのだ。童貞や処女などエルフでは珍しくない。

 しかし、アルスはヒューム(ただびと)に過ぎない。特に性欲が強い思春期真っ只中の十七歳。その辺りの話は人一倍敏感な時期だった。


 そこでアルスは取り敢えず事の深刻さをイルシーナに理解してもらう為、ここに来るまでの一週間で何があったのかを掻い摘んで話すことにした。

 

「まあ、まずクランのおっさんに連れて行ってもらったストリップショーだな。席が悪過ぎて前にいたおっさんの背中しか見れなかった」

 

 イルシーナの眉間に皺が刻まれる。

 

「それから、クランのおっさんに娼館へ連れて行ってもらった時だ。女の子が急用で皆んな帰って、代打で八十八歳の婆さんが出てきた。キャンセル料で貯金の一割が吹っ飛んだぜ……あとは……」

 

 指折り数えるアルスをイルシーナの冷たい眼差しが貫いた。ケロリとした顔で首を傾げるアルスにイルシーナが詰問する。


「ねぇ。今アルスが言った場所、全部十八歳からだと思うんだけど」


 それに対し、アルスは答えた。

 

「意外にな──バレないんだよ」

「そう」

 

 イルシーナはカップを口元で傾けてから、暫し目を閉じた。

 話を聞いて次の言葉を吟味しているのだ。

 アルスが固唾を飲んで判決を待つ中、目を開けたイルシーナが告げる。

 

「分かった。クランマスター(ねえさま)には私から報告しておくよ。丁度三ヶ月後に姉様の誕生日があるし、その時にでも」

 

 それはアルスにとって死刑宣告も同義であった。

 

「ちょっとフライングしただけじゃんか!? た、頼むからそれだけは勘弁してくれ!  マスターに殺される!?」


 冒険者はクランに所属しているかフリーランスかで社会的な信用度が激変する。アルスが所属しているクランはヴァナディース王国でも指折りの強豪で、そのマスターはイルシーナの実姉。親の身内のクランに入るという事はつまるところ──コネ入会だ。そういう意味でもアルスはイルシーナに頭が上がらない。


「なら、次はちゃんと十八歳まで待つこと。三度目はないからね」

「肝に銘じます!」

「全く……返事は良いんだから困っちゃうよね」


 そして重い溜息の後、改めてイルシーナが口を開いた。


「まあ法を犯すくらいアルスがエッチなのは分かったから。早く脱いで……呪い、見てあげる」

「脱ぐ必要ある?」

「アルスの服と鎧、特殊な繊維で編まれてたりするから魔術が通りにくくて見えないんだよ──それにそのマントと、武器を隠してる布は魔法具(アーティファクト)でしょ?」


 アルスの格好は吸血鬼を殺す事に特化した装備で固められている。身に纏う鎧は魔力を通しにくい金属オドタイトに複数の金属を混ぜ合わせた特殊合金で作られており、更にその上から魔力を弾く効果を持った翡翠竜の鱗を張り合わせている。徹底した魔力対策は吸血鬼の攻撃手段がそれに偏重している為だ。

 そして、羽織っているマントは大枚叩いて作くらせた鎧よりも特別な装備──人類にはまだ作る事ができない技術の結晶だ。魔力の隠蔽や認識阻害の効果が付与されており、隠密性能を高める効果がある。


(私も何度か吸血鬼とは戦った事がある……彼らは認知を魔力感知に頼ってる様に見えたから、多分アルスはそれを掻い潜る為にこの装備を集めたんだろう)


 しかし、そんな物で全身を覆われていては分かる物も分からない。イルシーナは嘆息した。


「私に裸を見られたって恥ずかしくはないでしょ?」

「いや恥ずいわ…… パンツは履いてて良いか?」

「竜皮でもアーティファクトでもない?」

「流石にない」

「ならいいよ」


 口を窄ませながらもパパッとパンツ一丁になったアルスの身体を見て、イルシーナは瞠目した。

 驚いたのは鋼の如く鍛え上げられた肉体と、そこに刻まれた無数の古傷──ではない。アルスの下腹部に刻まれた特異な紋章だ。

 イルシーナが首を傾げて言う。


「ハートマークに薔薇の縁取り……淫紋かな?」

「口に出すのやめてくんね?  泣いちゃうから」


 言った側からアルスの双眸から滂沱の如く涙が溢れた。イルシーナが引き気味に言う。


「これ付けたまま娼館に行く度胸がある癖に、何を言ってるんだ……」

「えっちなお姉さんに見られるのと親に見られるのとでは意味が違うだろ!?」

「まあ、それはどうでも良いんだけど──」


 アルスの「よくねぇよ!?」という悲痛な声をイルシーナは無視した。目前にある不死の女王が掛けた呪いに興味をそそられていたからだ。


「じゃ、早速始めようか」


 イルシーナの青い瞳が微かに光を放った。


「『万物の父・盲目なる者・詩神の箴言を以て・その神秘を解き明かす』」


 紡がれたのはルーン語による呪文。

 魔力を込められた言葉がイルシーナの小さな口から生まれ、その周囲を踊る様に旋回する。


「『泉より湧き出でし全知の受け皿・我に真理を授けたまえ』 ──〈真理を見通す右目レコード・オブ・ミーミル〉」


 詠唱の完了と共にイルシーナの右目に【ᚪ】の字が浮かび上がった。その瞬間から、右目はイルシーナの意志から乖離したように動き出す。

 そしてアルスに刻まれた魔力の波長を読み取り、それがどういった物なのかをイルシーナへと嘘偽りなく伝えた。


「……これ、めちゃくちゃタチが悪いね。呪いが被呪者の思考と情動を読み取って嫌と感じる方向に向かう様に因果律へ干渉している。とてつもない闇の力だ。まともなやり方で解呪するのは無理そう」

「イ、イルシーナに無理とかあんの? 千年生きた魔術師だろ?」

「私、まだ八百歳と少しだよ……アルスたちから見れば同じだろうけどね」


 そう言うイルシーナの表情はとても険しい。

 しかし、それはアルスの言葉に腹を立てたとかそういう訳ではない。


「真祖が使う術は私たちの魔術の原型──魔法と呼ばれる力だ。魔術は所詮後追い。それの下位互換に過ぎない」


 言葉では敗北を認めてはいても、その態度にはあからさまな不満が滲んでいた。

 上位種族とは──吸血鬼の真祖を筆頭に、古代竜族や天使、悪魔、精霊などを指す言葉だ。大半は遥か昔に環境の変動などを理由に別次元へ住処を移したとされている。


 イルシーナは現代魔術師の頂点に最も近い存在だが、未だ上位種族には届かない。そして、彼女の敗北は即ち現代魔術の敗北であり、言い換えれば人類が積み上げてきた魔術の歴史が否定されたも同義。


「穏やかじゃねぇな……」


 最高峰の魔術師が眉間に皺を寄せて唸るほどの物が下腹部に刻まれたという事実に、アルスは言いようのない不安に駆られた。

 イルシーナがアルスの呪いを嫋やかな指でなぞりながら言う。


「……どうやら呪いが効果を発揮する度に男性機能が死んでいく追加効果があるみたいだね」

「は?」

「精力の低下……いや、これはもはや性別の反転に近いね。肉体を作り変える作用か。私達の魔術文明はまだこの域に達していない」

「つ、つまりどういうことだ?」


 声を震わせるアルスに、イルシーナは無慈悲にも淡々と事実を告げる──

 

「呪いが何度も効果を発揮すると性器が縮んで女の子になっていくってこと」

「嘘だろ!?」


「あと、呪いの紋章に軽い催淫効果もあったよ」

「本当に淫紋だった!?」


「……ハッ!?  待て待て既に俺は二回、それらしい状況にエンカウントしてるんだが!  もしかして既にマイサンは──!」

「そうだね。既に発動した痕跡がある……あと十回ちょっと発動したら、これは私の小指くらいになるのかな? それから──」

 

 イルシーナの言葉に遂にアルスが顔を土気色にして発狂した。

 

「い、イヤダァァァァ!?  それ以上聞きたくない! イルシーナ先生!  何とかしてください!」

「無理。光神教会に行っても無理だよ。神威召喚(サモン・ゴッド)でご本神でも呼ばない限りはね」

「た、助けてママァァァァァァァァア!?」

「だから私には無理。でも手段はあるよ」


 ちょっと待ってね──そう言ってイルシーナは席を立ち、家の奥へと消えた。

 それから壮絶な物音を立て始め、暫くすると一冊の分厚い古びた本を抱えて部屋へと戻ってきた。その腕の中にある本のタイトルをアルスが読み上げる。


「……迷宮(ダンジョン)の秘宝図鑑?」

「そうだよ。迷宮の中で発見されてきたアイテムとか、それと同じ物があるだろうとされる迷宮について書かれてる」

「なんか、曖昧だな」

「著者不明だし、書かれた年代も判然としないからね。写本も殆ど出回ってない稀覯本だよ」

「……そんな眉唾もんが何の役に立つんだ?」


 イルシーナが机の上で本を開き、丁寧に捲りながら告げる。


「これに頼らないとどうにもならないレベルの呪詛なんだよ……あった。見て」


 指で示された箇所を見てアルスが溜息混じりに言う。


「《聖ヨークの白い涙》?  って、何だこの飲む気が失せるいかがわしい挿絵は……」


 本には棒状の物に球が二つ付いた瓶の挿絵が描かれており、見る者の失笑を誘う。しかしイルシーナは至って真面目な顔で言った。


「このアイテムの効能はあらゆる病魔と呪詛の無効。解呪できるとしたらこれくらいだろうね」

「冗談キツイぜ……え?  本当にこれしかない感じ?」


 紅茶を入れ直したイルシーナが口元でカップを傾ける。

 沈黙は是だ。


「この瓶から出てくる白い液体を飲めって?」


 冗談めかしてアルスが言うと、イルシーナは至って真面目な顔で言った。


「聖ヨークの性自認は女だよ」

「ああ……うん……そっか……自分をどう思うかは個人の自由だからな……というか今それ関係ねぇよ」


 イルシーナの返事にアルスは当たり障りの無さそうな言葉を返してから項垂れた。


「まあ、見た目はこの際いいとして……あるかも分からん不確かな物を探しに迷へ入るのはちょっと抵抗があるな」


 問題は聖ヨークの性自認ではなく、物品の存在が明確ではないという事だ。迷宮探索というのは冒険者稼業の中でもポピュラーな部類だが、アルスは迷宮探索をしたことがなかった。暗中の宝探しは困難を極めるだろう。


(せめて“ある”と分かっていれば)


 なんてアルスが考えていると、イルシーナが言った。


「これ、王都のオークションで出てきた事からあるのは確実だよ。幾つかの迷宮でそれらしい物が発見された話もあるし」

「先にそれ言ってくんない!?」


 机に勢いよく手をつきながらアルスが身を乗り出す。

 イルシーナはその額を指で弾き「はしたないから辞めなさい」と一喝した。

 しかし、アルスの口は止まらなかった。


「そん時は幾らだった!?  俺、結構貯金あるぜ!」


 落札できれば態々迷宮へ潜る必要すらない。もしもの為にアルスは計画的に貯金していたので、預金口座には余裕がある。

 娼館でお婆さんにキャンセル料を毟り取られはしたが、男としての命は金よりも重い──無一文になる覚悟くらい出来ていた。

 固唾を飲むアルスにイルシーナは言い放った。


「五十億四千六百万ゼニー」


 それはかつて、《海の皇帝》と呼ばれた鯨型の魔物につけられた懸賞金額と同等だった。当然ながら一般人に用意できる物ではない。


「しかも四滴だけ。確か……古代文明の魔法書に掛けられた呪いを解くのに使った余りだったんだけど、その四滴で魔竜に呪われて不毛の大地と化していた国が息を吹き返したんだよね」


 追い打ちをかける様にイルシーナは矢継ぎ早に情報を話していく。

 アルスは目の前が真っ暗になった。椅子に座り直したイルシーナが頬杖を突き、項垂れるアルスへ向かって息混じりに言い放つ。


「取りに行けば良いじゃないか──冒険者なんだから」


 イルシーナの言葉にアルスはハッと顔を上げた。


「ここから一番近いのは……迷宮都市ランドルフだね。そこにある《迷宮カダス》。深層域への到達者は数えるほどだけど、前例が無い訳じゃない」


 実在の証明も、その効果も歴史の生き字引たるイルシーナのお墨付きだ。

 後は女の子になる事を受け入れるか、それとも死ぬ気で迷宮に潜るのかの二択。


「クソッ!  やってやるよ!  行ってきます!」


 ──アルスの答えは決まっていた。




「あぁ……行っちゃった。せっかちだなぁ。夕飯くらい食べて行けばいいのに」


 イルシーナは少し寂しそうに笑ってから本を仕舞う為に椅子から立ち上がった。


 ──昔からせっかちな子供だった。


 イルシーナから魔術を学び、戦う術を得たアルスは十歳になると同時にこの家から去った。イルシーナはアルス以外にも大勢の子供たちを見てきたが、アルスの親離れが最も早かった。

 だからと言ってアルスへの愛情が他の子供達と比べて薄い訳ではない。むしろ早くに離れた分だけ未だに甘やかしてしまう所があるくらいだ。


 本を棚へと戻す前に、イルシーナは指先に魔力の光を灯して東洋の魔術作法に倣って印を切った。


「……君の復讐が終わるを祈ってるよ」


 その祈りが届くかは──まだ分からない。




 そして、イルシーナに祈られている事なんて欠片も知らないアルスはというと──少しでも早く迷宮都市ランドルフに辿り着くべく、昼も夜も狂った様に走り続ける運びランナーズ・ハイへ駆け込んでいた。


 この運び屋の評判は両極端。凄まじい高評価とボロカスに叩かれた物のどちらかしかない。

 票の割合は若干後者の方が多かったが、切羽詰まっていたアルスは前者に賭けた。


「いらっしゃいませ。当店のご利用は……なる程、どうやらお急ぎの様子」


  ──当たりだ。


  老紳士といった風体の店員はアルスの顔を見た瞬間、一分一秒すら惜しいという状況を察し「一番速い馬車から案内させていただいた方がよろしいですか?」と話を進めた。

  一も二もなくアルスは頷き、店員の案内に従った。

  しかし、その後だ。


「馬車はヴァナディースで生まれました。ジパーニャの発明ではありません。我が国のオリジナルです。暫し遅れを取りましたが巻き返しの時です」


 違和感が首をもたげ始めた。


「はぁ……」


 アルスが適当に相槌を打つと店員は朗らかに笑い、尋ねた。


「馬車はお好きですか?」

「いや、好きとか嫌いとかは」

「馬 車 は お 好 き で す か ?」

「アッ、ハイ。好きです。嘘じゃないです」

「結構。ではますます好きになりますよ。さあ──此方へどうぞ」


  圧の強い店員にオススメの馬車へと押し込まれる。座席はアルスが見たことのない材質で出来ていた。しかし、中々どうして座り心地は悪くない。


「こちらは学院都市セスルで開発された最新モデルです。快適でしょう?  んああー、仰らないで。シートはジパーニャ出身の発明王ハヤテ・タチカワ考案の新素材“ビニール”でございます。レザーなんて見かけだけで夏は熱い。よく滑るわ、すぐひび割れるわ、ろくな事がありません。天井もたっぷりありますよ。獣人(セリアン)の方でも大丈夫」


 早口で長々と語り出した店員にアルスは面食らった。


「は、はぁ……」

「お次は馬車の動力です。ご覧くださいこの軍馬の如き二頭を」


 次に店員がアルスへ紹介したのは馬車を引く馬だ。

 席に乗り込んだまま紹介された二頭は確かに立派ではあった。熊を轢き殺せそうな真紅の巨躯、草食動物とは思えない血走った目、口の端から腐肉の様な匂いがする紫の涎を垂らしている事を除けば──それは確かに馬だった。


 尋常な馬ではない。魔獣と呼ばれる魔素へ適応する為に独自の進化を遂げた種類である。

 アルスが口元を引き攣らせていると二頭が嘶いた。


「「ブルゥゥゥォォオ゛オ゛オ゛!!!」」


 地獄の使者が跨る馬はきっとこんな感じなのだろう。アルスは馬車から無言で降りようとしたが、店員に肩を捕まれてゆっくりと座り直させられた。

 そして、鼻を高くした店員は言った。


「良い嘶きでしょう?  余裕の音だ。馬力が違いますよ」


 ──馬だけにってか。クソつまらん。

 アルスは焦った。碌な目に合わないと直観した。


「え、ええ、まあそうですね……でも、お高いんでしょう?  ちょっと予算の都合もあるからなぁ」


 遠回しに「他のも見せてくれ」と伝えるアルスだったが──それは悪手だった。

 鼻息を荒くした店員が捲し立てるように言う。


「よくぞ聞いてくださいました!  私一番のお気に入りポイントは価格なのです!  通常、ここからお客様が向かわれる迷宮都市ランドルフまで馬車を乗り継ぎ一週間。最安値は片道十五万ゼニーといったところですが……な、なんと!  当馬車なら片道二日で四万ゼニー!」


 確かに安いが命の保証は無さそうだった。

 幾ら急いでいるとは言え命は惜しい。

 しかし、店員は何も言わないアルスを見て「我が意を得たり」とでも思ったのか──

 

「お安い!  乗るしかない!  行ってらっしゃい!」

「待て待て待て!?  まだこれにするって決めてなっ、ウワァァァァァッ!?」


 二頭の馬が前足を上げて出発進行。

 瞬く間に馬車は最高速度に到達し、アルスは脱出する契機を見失った。


 そうして丸二日、アルスは馬車で揺られ続けた。

 休憩はなかった。当たり前の様にトイレだってない。アルスはやむを得ず、馬車が山中を爆走している間に窓から屋根へ登って用を足した。


 乗り心地も最悪。馬は悪路も平然と猛進したため、酷い時の馬車内は嵐が如き様相を呈した。高い天井に何度も頭をぶつけ、尻は腫れた。そこに不眠不休、飲まず食わずの地獄が重なる。


 一日が経過した時点で──アルスは狂った。


 人間は限界を超えると我を失う。深夜に気分が上がったり、徹夜が続くと一周回って辛さが消える様な感覚が力尽きるまで続くのだ。

 迷宮都市ランドルフに着いたアルスは悟りを開いたかのような穏やかな表情で呟いた。

 

「生まれ変わった気分だぜ……このまま冒険、いっちょ行ってみっか」

 

 そうしてノリと勢いでアルスはランドルフを出て迷宮カダスへ向かい──到着するなり探索を開始したのだった。

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