ch.1 プロローグ
復讐を成し遂げた。
辛く厳しい三年間だった。
廃都の一角にある隙間風が入り込む古びた聖堂。その床一面に広がる黒い血の海で、宿敵の生首を見下ろしながら冒険者の少年──アルス・ライザックは手に持った黒い大鎌を構えていた。
「まだ生きてるんだろ。今どんな気分だ? ルサルカ」
生首になった女──ルサルカは唇を三日月の様に歪め、喉もないのに声を聖堂内へ響かせた。
「よもや妾の真名を知る者が居ようとはな。あの時の判断は正解だった」
「……覚えていてくれてありがとうよ」
二人には因縁がある。
アルスにとってルサルカは親友を殺した仇であった。
「あの時、お前はまだだと言ったろう?」
ルサルカが端正な顔を上気させてアルスを見つめる。
「復讐しに来た人間は三百年ぶりだ! 最近は十年も経てば恨み辛みを忘れ、幸せそうに暮らしている腰抜けばかり! まあ、それを踏み躙るのも趣があって良いが!」
興奮はルサルカの死人の様な肌に生気を与えていた。
(分かっちゃいたが、こいつは人と同じ形をした化物なんだな)
ルサルカは吸血鬼である。もっとも、ただの吸血鬼ではない。真祖と呼ばれる特異な存在だ。
「こうして向かってくる人間を縊り殺す時が最も生を実感できる! 狩りの手間を省けるし、何より生きがいいからな!」
止むに止まれぬ事情があるのなら、許すことはできなくても同情できる。しかし、ルサルカには御涙頂戴のバックストーリーも、人間が家畜に対して持つ最低限の思慮さえ無い。小さな命を無邪気に弄ぶ、子供の加虐性だけを煮詰めた様な邪悪な存在だった。
三年前、アルスの前でその親友を殺したのも単なる遊びの一環。壊したらどんな顔をするのだろうという興味本位に過ぎない。
アルスは深々と溜息を吐いて言った。
「盛り上がってるところ悪いんだけどさ……もっと焦った方が良くない? 生首だぜ?」
「妾の名を知るお前が、よもや我が力の一端を知らぬ筈もなかろう?」
「あぁ……血の一滴から全身を再生できるって話か?」
「左様」
──吸血鬼の不死性は個体によって異なり、それは有する力の多寡によって変わる。尋常な吸血鬼ならば銀の武器や、日光を当てれば死ぬ。
しかし、真祖にそれらは通じない。それどころか不死身に近い生命力が備わっている。
「故に妾は必ず……復讐を受け入れる事にしている」
ルサルカの異名は不死の女王。
その血肉が一片でも残っている限り──死ぬ事はない。
「そして復讐を果たした思い込み、滂沱の涙を流す者の肩を抱いて囁くのだ……おめでとう、とな」
刹那、床に広がる黒い血の海が沸き立ち、首を失った肉体がそこへ溶けていく。
血液が意志を持つかの様に生首へと集まり、豊満な胸、流線形を描く腰、すらりと長い脚。それらを覆い隠す豪奢な黒のドレスローブを形成した。
瞬く間に元の姿へと戻ったルサルカは、手を開いたり閉じたりを繰り返してからアルスへ告げる。
「……お前にはあまり効果がなくて残念だ。もういい。飽きた、さっさと肉になれ」
ルサルカがアルスへ肉薄し、掌底を叩き込もうと腕を振り抜く。
「見えてるぜ、女王様」
しかし、その一撃はいとも容易く防がれた。
打突を弾いたのはルサルカの首を断った黒い大鎌だ。武器としては余りにも扱いづらいそれを、アルスはまるで手の延長の様に軽々と振るって見せた。
「なんだ、人間の分際でやるじゃないか!」
ルサルカの肉体から噴き出た銀色の魔力によって聖堂全体が軋み、パラパラと石屑が天井から落ちてくる。
しかし、そこで初めて──ルサルカの顔から笑みが消えた。
「何故だ、何故……魔力が練れんッ!? 何をした人間!」
「何って……まだ気づいてないのかよ、お婆ちゃん」
ルサルカが錆びついたブリキ人形の様な固い動きで、そっと自分の首に触れた。
「なん……だと」
指先を黒い血液が汚すのと同時に白い髪がはらりと宙を舞って床へと落ちる。次いで、首に一文字の傷が生じ頭が床へと滑落した。
唇を歪ませ牙を剥き出しにしたルサルカが声を荒げた。
「馬鹿な、貴様らの使う魔術は詠唱や儀式を行わなければ世界への介入が出来ぬはず!? 一体どうやって──!」
アルスが言う。
「魔術なんて使ってねぇよ。テメェが弱り過ぎて斬られた事に気付けなかっただけだ」
「妾を愚弄するか、人間ッ!」
「ああ。バカにしてる。俺は性格が悪いからな」
アルスは憎々しげに自分を見上げるルサルカを笑った。
「お前は負けたんだ。十七年しか生きてないガキに」
「おのれっ」
「顔真っ赤じゃん。可愛いねぇ。よすよす」
アルスが腰を屈めてルサルカの頭を撫でた。その煽りは効果覿面──ルサルカの額に浮かんだ青筋が弾け、そこから勢いよく黒血が飛んだ。
「じゃ、もう帰るわ」
「ふ、ふざけるな! まだ終わっていない!」
「いいや。終わりだ」
アルスが大鎌をルサルカに向かって振り下ろす。その鼻っ柱を刃先で掠めながら床に突き立て、言った。
「こいつは“不死殺し”の大鎌……それ以上の説明が必要か?」
ルサルカの顔から色が抜け落ちていく。
吸血鬼は不死ではあるが不死身ではない。生物学的に死なない海月よりも頑丈で、常軌を逸した再生力を持つというだけ。アルスの大鎌はそんな不死性の高い生物を殺す為、遥か古に生み出された呪いの武器だ。
その能力は単純明快──生物に自死を選ばせるだけの苦痛を与えること。
「……あ」
ルサルカの美しい顔が炎に晒されたように爛れていく。秒を追う毎に目元は落ち窪み、肌が弛んで腐肉の様な匂いを発し始めた。大鎌の呪いによって身が蝕まれ始めたのだ。
「あっ、ぁああ、ああああああ!?」
しゃがれた断末魔が聖堂に木霊する。
不死殺しの大鎌によって傷をつけられた生物は、人類が発見した全ての病魔・毒によって侵される。その苦痛を形容する言葉はこの世に存在しない。
アルスは絶叫する仇を一瞥し、聖堂の入口に向かって歩き出した。復讐は果たされたも同然。態々看取る必要もない。
しかし──それは慢心だった。
「まだだ……!」
アルスが背後からした地を這う様な声に思わず振り返った、その刹那──首を失ったルサルカの体が罅割れ、そこから堰を切った様に黒血が噴き出した。
「はぁ!?」
瞠目したアルスは猫の様な俊敏さでその場から飛び上がり、眼下で広がる黒血の海へ下を巻いた。
「魔力を血液に変換してるのか!? 一体何のために──」
そして打開策を練ろうとするアルスへ、どこからともなくルサルカの声が飛ぶ。
「この命を奪ったお前にも相応の苦痛を味わって貰おうと思ってな」
刹那、血海が牙を剥く。
それは聖堂の壁を叩いて飛沫を上げながら高波を生み、重力に従って落ち始めていたアルスへ襲いかかった。
「くそッ、往生際がっ、もがぁ!?」
黒血の波濤がアルスを呑み込む。酸素を求めた開かれた口から黒血が体内へと入り込んでいく。
(窒息する前に死んでくれたら、俺の勝ちだ)
それでもまだアルスには余裕があった。
しかし──これは序章に過ぎない。
ルサルカの魔力によって猛り狂う黒血の海が聖堂を破壊して廃都へ溢れた。波は苛烈さを増し、瓦礫を飲み込みながら広がっていく。
激流に弄ばれていたアルスの脳で声が響いた。
「業腹だが妾は直に死ぬ」
黒血はルサルカその物であり、その中に居るという事はルサルカの体内にいると言っても過言ではない。普通ならアルスの生殺与奪はルサルカによって握られていた。
しかし、大鎌の力で弱体化した今のルサルカではアルスを殺す事が出来なかった。
故にルサルカは今ある力を全て使って──
「お前の生涯に二度と幸福が訪れぬよう……呪う事にした」
ルサルカが魔力とアルスが摂取した黒血を共鳴させ、互いの心の裡を繋げる。
その目的はただ一つ。アルスの欲求を探り、的確にそれを踏み潰す呪いを掛ける為だ。
「見せてもらうぞ。お前の欲望を」
その瞬間、ルサルカの脳に流し込まれたのは──
幼馴染(存在しない)と共に冒険者を始め、友達以上恋人未満な関係からスケベなハプニングを経て所帯を持つ妄想。
女冒険者の先輩と酒の席で良い感じになり何やんかんやで一夜を共にし、その後も何やかんやスケベ展開にもつれ込む妄想。
その他、後輩冒険者、受付嬢、宿屋の娘、薬屋の未亡人、女教師、女学生、医者、憲兵……
「あ゛ぁ゛ぁ゛ァァァア゛!? 妾にみっともない童貞の妄想を流し込むなァ!」
その癇癪は空き巣が盗みに入った家の中を見て不平を垂れている様な物だった。
黒血を沸き立たせて狂乱するルサルカに、涙目のアルスがゴボゴボと気泡を吐き出して叫ぶ。
「|勝手に見たのお前だろうが《ばっべびびばぼぼばべばぼぶば》!?」
「喧しいわこのドスケベ男め! まったく、人間の男はいつもこうよな……!」
ルサルカはアルスの秘めた獣性に口を窄めはしたが、同時に思った。これはこれで良い、と。
「お前に相応しい呪いが決まった」
転瞬、アルスは下腹部から感じた凄まじい熱に目を見開いた。
そこで何かが蠢いている──しかし、それに気が付いた所で止める術はなかった。
ルサルカが笑いを堪えながら言う。
「これからお前の身に起こる全てのスケベイベントは何かしらの妨害を受け、有耶無耶になる。そしてその数だけ──いや、これは後のお楽しみにしておくか」
「ふざけんなババア!?」
「これでお前の末路は既に決した……くふっ、ふふふ、はははははは!」
ルサルカの哄笑を最後に黒血の海は最初から無かったかの様に姿を消した。そこに残ったのは草一つ生えない不毛の大地。そして──
「ふ、ふざけんな……復讐が終わったら俺、俺っ……彼女作ろうと思ってたのにぃぃぃぃ!」
変わり果てた廃都の中心でアルスの号哭が響く。
その身に信じ難い呪いだけを残して、アルス・ライザックの三年に渡る復讐は幕を閉じたのだった。
そして、《不死の女王》ルサルカの討伐から一週間が過ぎたある日。
「助けてイルシーナ!」
「急だね。君が私を頼ってくるなんて珍しいこともある……いや、本当にどうしたの?」
アルスが呪いを解く為の物語が始まろうとしていた。




