瑠璃の涙
「娘って…どういうことですか?芳葉さん…」
僕は芳葉さんにかすれた声でようやく訊ねた。
「歌花様と岬様が愛し合って生まれたのが瑠璃です。しかし…」
「芳葉…やめておくれ」
歌花の声はびっくりするほど弱々しかった。歌花と…岬さんが?でも岬さんには奥さんも子供もいたんだよな?それなのに歌花と…?
「岬はわらわを愛したのではない。ただ同情したのだろう…。それでも良かった。岬に抱きしめてもらえるならなんでも良かった」
「そんな…」
同情で歌花を?そんなの許せるわけない。同じ男として、岬さんを絶対に許せなかった。
「海の民…それも乙姫の位にある歌花様と岬様の関係は許されなかった。生まれた瑠璃はすぐに宮城から追放されることになった。女官長をしていた私は瑠璃を託されたんだ」
芳葉さんの言葉も、今は僕の耳を素通りしていく。岬さんと歌花は、本当に深い仲だったんだ。少なくとも歌花は、岬さんをそこまで想っていた。砂の塊を飲み込んだかのような感触。吐きそうだった。歌花はともかく、岬さんは本気だったのか?奥さんと子供がいたのに?――理解できない。岬さんのことなんか理解できない。
「…悪いが今は一人になりたい。みな、出て行ってくれるか」
向こうを向いたまま、歌花がそう言った。
「…後日また参ります。恒龍が枯れたと聞きました。あまりゆっくりはしていられないのは…歌花様もお分かりですね?」
芳葉さんの言葉は容赦がなかった。正しい理屈だった。
「…分かっている。ただ…ここにはもう瑠璃を連れてこないでおくれ」
歌花…?瑠璃ちゃんのことをさっきからまるで見ないことが気になっていたが、はっきりとした拒絶の言葉に驚いた。
「…それは…わたくしが決めていいことではありません。今は引き上げましょう。けれど貴方は『乙姫』。乙姫としての務めは果たしていただきます」
またも容赦ない芳葉さんの言葉。
みんなで扉に向かって出ていこうとしたとき、向こうに向いたままの歌花が、震える声で言った。
「樹…わらわはそなたに想われる資格などないのだ。目が覚めたであろう?」
心臓が引き裂かれる思いだった。僕は歌花に、――拒絶されたのだ。
しかし、そんな僕を置いてけぼりにするように、扉を出てまた一波乱あった。
氷見だ。
「芳葉様…今更瑠璃様を連れてきてどうするおつもりですか」
「氷見。初めからあなたには何の権利もない。神託が歌花様を選んだ時からあなたの運命は決まっていたはず」
「瑠璃様がきちんとした血統ならそれはそうでしょう。でも瑠璃様の血の半分は海の民のものではない。それなのに権利がおありだと?」
「それは神託が決めること。どちらにせよ、あなたには何の権利もない。瑠璃を侮辱することは許しません。少なくとも――正統な直系なのだから」
そのやり取りの意味を、僕は理解できなかった。というより、今の僕にはそれどころではなかったのだ。
しかし、一連の出来事の中で、僕は瑠璃ちゃんのことを気にかけることをまるで忘れていたことに気がついた。僕たちを芳葉さんの家に案内し、着替えさせられ、宮城に連れてこられ、何より実の母である歌花に拒絶された瑠璃ちゃん。感情をあまり表に出すことはないのか、元から感情の起伏が少ない子なのか、これまで、まるで人形のようにただただ芳葉さんについてきていた瑠璃ちゃん。大きな黒い眼にはあまり光はなく、ものすごく深く物事を考えているようにも、あるいは一切何も考えていないようにも見える。
普段着の着物を着ていた時は可愛い街の女の子、という感じだったけれど、貴族のような着物を着た瑠璃ちゃんは、なんというか孤高のお姫様、という気高さが感じられた。やはり血かもしれない。母娘であるだけあり、それは歌花と共通したものだ。うかつに話しかけてはいけない気さえする。
でも、瑠璃ちゃんはやっぱり瑠璃ちゃんで、中身はあの桜貝のかんざしを作ってくれた、ただ歌を歌うのが好きな無垢な優しい女の子だったのだ。
僕はそれを理解してはいなかった。
「『風の間』に戻りましょう。しばらく私たちが滞在する居室も用意してもらわなければ」
瑠璃ちゃんの手を引き、芳葉さんが言う。
「あ、はい、そうですね。僕もその後に一旦自分の部屋へ戻ろうと思います」
「ああ、樹様はご自分の部屋があるんですね。それならば、わたくしは一度『風の間』へ行きますが、少し瑠璃を休ませてあげたい。貴方の部屋へ連れて行って何か飲ませてあげてくれませんか」
思いがけない芳葉さんの言葉だったけれど、黒目がちの大きな瞳が不安げに揺れている瑠璃ちゃんを見て、僕は状況を理解した。この一連の出来事で、瑠璃ちゃんは思った以上に疲れている。
確かに、すぐにでも休ませてあげたい。
「分かりました。疲れたよね、瑠璃ちゃん。僕の部屋へ行こう」
僕が笑いかけると、心なしかホッとした顔をした瑠璃ちゃん。やっぱり可愛いな。
二日ぶりくらいに自分の部屋へ戻る。
侍女の人に頼んで、冷たい水を用意してもらったから、それをグラスに入れて瑠璃ちゃんに渡す。
「のど渇いたよね。これ、飲める?」
ちょこんと卓子の前に座った瑠璃ちゃんが、コクリとうなずき、両手でグラスを受け取る。
今気づいたけれど、瑠璃ちゃんは一見普通の女の子だけれど、所作のひとつひとつがとても綺麗だ。
ただ、すべてが綺麗すぎて、一瞬、この子はやはり何も感じていないのだろうかとも思ってしまう。
感情がまるで読めない表情は、ただ歌を歌えない状況を窮屈に思っているだけなのではないのか、ともとれるものだった。
コクコクと水を飲み、グラスを卓子の上にコトンと置き、それから瑠璃ちゃんは虚空を見つめた。本当に人形のようだ。黒い瞳は何も映してはいないように見える。でも。
「あの、瑠璃ちゃんは知ってたの?自分の、お母さんのこと」
「……」
「芳葉さんが、お母さんだって、思ってた?紀正さんが、お父さんで」
「……」
瑠璃ちゃんは何も言わない。なんだか不安になってくる。
ちょうど、侍女の人がくれた水菓子があったので、それをお代わりの水と一緒に卓子に置く。
「よかったら、お菓子食べて。美味しそうだよ。疲れた時には甘いものだよ」
僕が笑いかけると、瑠璃ちゃんがようやく口を開いた。
「お兄ちゃんは、やさしい」
お兄ちゃんて、僕のこと?やっと口を開いた瑠璃ちゃんがそんなことを言ってくれるから、僕は思わず照れくさく、嬉しくなる。
「僕?優しいかな」
そう聞くと、瑠璃ちゃんはコクリとうなずいた。
「でも、瑠璃ちゃんも優しいよ。すごく優しい子だ。瑠璃ちゃんは、いい子だよ」
僕がそう言うと、瑠璃ちゃんはハラハラと涙をこぼした。
「瑠璃ちゃん!?」
瑠璃ちゃんの涙に僕はびっくりして、駆け寄った。
「瑠璃ちゃん、どうしたの?どこか痛い?」
僕が顔をうかがうと、瑠璃ちゃんは静かに涙をこぼしながら言った。
「瑠璃は、いらない子」
え?
「瑠璃ちゃん、何言って…」
瑠璃ちゃんは涙を流し続ける。
「瑠璃は、いらない子なの」
瑠璃ちゃんが繰り返す。僕はどうしていいか分からない。
「瑠璃ちゃん、そんなこと」
僕の言葉を遮り、瑠璃ちゃんが言った。
「歌花さまは、瑠璃が嫌い」
え――?
「嫌い……」
それから、綺麗な着物の袖で涙をぬぐいしゃくりあげる瑠璃ちゃんの背中を、僕は静かになでてあげることとしかできなかった。
実の母親に拒絶され、平気な子供なんているわけない。それは、この世界でも僕の世界でも同じことだ。そんな簡単なことも分かっていなかったなんて。
それに――瑠璃ちゃんは、今、歌花さま、と言った。お母さん、と言わなかった。自分の母親を、母と呼べない哀しさはどれほどのものだろう。
実の母親である歌花は、さっきほとんど瑠璃ちゃんを見なかった。
瑠璃ちゃんの言うことは本当なのだろうか。歌花は、瑠璃ちゃんをどう思っているのだろう。
このままにはしておけない、と思った。
この母娘のことを、僕は何も分かっていない。でも、助けたかった。目の前で声も出さずに静かに泣く瑠璃ちゃん。瑠璃ちゃんをほとんど視界にも入れようとしなかった歌花。
岬さんが絡み、恐らく複雑になった母娘の関係。
このままにはしておけない。
百年近く、苦しみを背負い続けた母娘を、この世界に来てほんのわずかな僕がどうこうできることではないかも知れない。
けれど、目の前で苦しむこの母娘を、救うのは僕でありたい。そう思った。
それは、この世界に来て、初めて生まれた強い感情だった。瑠璃ちゃんのことも、歌花のことも。救うのは、僕でありたい。僕がこの母娘を救うんだ。
僕の中で生まれた強い感情が、この先この世界をどこまで動かすのだろう。一ミリも動かせないかもしれない。でも、それでも、この世界を救いたい。僕にとってのこの世界を救うというのは、イコール、この母娘を救うということだ。
瑠璃ちゃんの涙は、僕の心の深い部分を強く動かしたのだった。




