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水底の姫君  作者: 市村いお
8/10

芳葉さん

龍日子は、どういう男なんだろう。その日の夜、僕はあてがわれた屋敷の一室、寝台の上で眠ることもできず、思い出していた。

 歌花の宿敵…初めはそう思っていたけれど、それだけではなさそうだった。龍日子の…いや、人のあんなに優しい微笑みを、初めて見た気がする。あんな風に微笑まれたら、あの顔を歌花が見たら…。その光景を想像し、僕はなぜか少しドキドキしてしまった。どうかしている。そんなことを想像するなんて。僕はブンブンと首を振り、想像を振り払った。

 考えないようにしよう。龍日子のあの表情も、そして――岬さんを殺したという事実も、歌花との関係も、すべて。今は、考えないようにしよう。僕は、海の民のことをもっと知らなければならない。そのために街に来たのだ。今は、そっちに集中するんだ。

 ――眠りにつく中で、ぼんやりと、ああ、歌花に会いたいなと思った。今頃どうしているだろう。少しは僕のことを思い出してくれているだろうか。いつの間に、こんなに想いが大きくなっていたのだろう。歌花――君が好きだよ。本当に、とても好きなんだ。君のためにできることはなんでもするよ。だから、いつか――岬さんじゃなく、僕を見てくれる?僕だけを。歌花、いつか――。

 街へ出た最初の夜、僕はたった一人の大切な女の子を想いながら眠りについた。


 次の日、僕と龍日子はとりあえず再び紀正さんの元へ向かった。街の唯一の知り合いである紀正さんに、まずは話を聞こうと思ったのだ。この世界のこと、歌花――乙姫のことをどう思っているか。世の中の人、海の民たちは乙姫をどう思っているのか。歌えない乙姫とこの世界を――。龍日子を役人の調査員のようなものに仕立て、簡単な話をしたいと申し出たのだけれど、ひどくあっさりと断られてしまった。

「ああ、俺そういう堅い話は苦手でなあ。頭良くねえもんだから。そうだな、それなら丁度いい人を紹介するよ。あの人に色々聞くといい」

そう、あっけらかんと言われてしまった。紀正さんはそばで歌を歌っていた瑠璃ちゃんを呼び、何やら話していたが、顔をあげ、瑠璃ちゃんの頭をポンポンとたたき、言った。

「これから、瑠璃が案内するところへ行くといい。と、言っても俺の家なんだが。家人がいる。その人に聞いてくれ」

 

 紀正さんは店を離れられないから行けない、ということだった。瑠璃ちゃんは少し戸惑ったように、でも紀正さんにコクリとうなずかれ、瑠璃ちゃんもそれにうなずき返し、人差し指を宮城とは反対の方を指し、こっち、というように誘導してくれた。僕と龍日子はそれについていくしかなかった。

 やがて、宮城と城門の間くらいに位置するところだろうか、やはり白で統一された並びの中の一軒の家の前で、瑠璃ちゃんは立ち止まり、その家を指し示した。

「えっと、ここ?瑠璃ちゃん」

 僕が聞くと、瑠璃ちゃんはコクリとうなずいた。

 そして、瑠璃ちゃんはその家の扉を開いた。僕たちも入っていいのだろうか――龍日子と顔を見合わせて戸惑っていると、瑠璃ちゃんが扉を開けたまま振り返った。来い、ということだと受け取り、僕と龍日子は瑠璃ちゃんの後に続いた。と。

「あれ、瑠璃、どうしたの、紀正は?店番の日だろう?」

 玄関に出てきたのは一人の女性だった。30代半ばくらいだろうか。僕の母さんと同じくらいの歳に見える。切りそろえたボブヘア、切れ長な大きな瞳。綺麗な人だった。

「あんたたちは?」

 淡い緑の着物に白いスカート。キリッとした雰囲気が印象的な女性だった。

「紀正の知り合いかい?」

「はい、あの、瑠璃ちゃんに案内してもらうようにと言われて…」

「しょうがないね、得体の知れない人間を瑠璃を使って寄こすなんて…紀正ったら」

 呆れたように言う。

「それで、あんたたちは?」

「あの…宮城に務めているものなんですが、街の情勢を調査しているというか…。今の生活や歌花…乙姫について街の人がどう思っているか知りたくて…」

「宮城?ということは…亜古弥様の使いということかい?」

「え?亜古弥さんを知っているんですか?」

「ああ…あんた、もしかして『浦島』かい?陸から来た神代の国の人間が宮城にいる、って、けっこうな噂になってるよ」

「え…そうなんですね」

 役人だという嘘がいっぺんで見破られてしまった。仕方ない、こうなったら本当のことを話そう。それに、この人は亜古弥さんのことを知っているようだ。嘘をつき続けるのはどうせ無理な気がした。

「僕は木村樹という陸の人間です。そしてこちらは龍日子と言って、僕の護衛をしてくれている…」

 僕がそう言いかけると、その女性は目を見開いた。

「龍日子さん!?」

 そう言われて、それまで傍らで成り行きを見守っていた龍日子がビクッとした。

「え…」

「間違いない…。ちっとも変わらないね…龍日子さん」

「あ…もしかして…芳葉(よしは)様…?」

 え?龍日子もこの人を知っている…?

「あ…じゃあもしかしてこの瑠璃という娘は…」

 龍日子が言うと、芳葉さんという人は哀し気に目を伏せた。そしてコクリとうなずく。

「そう…でしたか…」

 龍日子が呆然とした声を出す。

 まるで話が見えない。この人は何者だ?それに…龍日子は瑠璃ちゃんを知っている…?もう分からないことだらけだ。

「とにかく、お茶でも淹れるから。そこの椅子に座って」

 芳葉さんはそう言って、台所の方へ一旦消えた。

「龍日子…どういうことですか。あの人は何者ですか?なぜ瑠璃ちゃんを知っているんですか」

 僕が椅子に座りながら声をひそめて聞いても、龍日子は考え事で頭がいっぱいで聞こえていないようだった。綺麗な横顔が張り詰めている。


「茉莉花茶だよ。今はこれが気に入っているんだ」

 いい香りのお茶を、芳葉さんが淹れてくれた。

 僕はもうわけが分からな過ぎて、かえって落ち着いてしまっていた。お茶を飲む。とても美味しかった。香り高いジャスミン茶だった。

「あの、芳葉…さんは宮城のことを良く知っているんですね」

 僕は恐る恐る口を開いた。

「昔、女官長をやっていたんだ。歌花様はお元気かい」

 芳葉さんの口から歌花の名前が出たことにびっくりしながらも、僕は答えていた。

「は、はい。元気、です」

「ちゃんと、笑っておられるかい」

「いつもではないけど…笑顔を、見せてくれます」

「そうか…それなら…良かった…」

 芳葉さんが遠い目をしながらつぶやいた。女官長をやっていた人が、なぜ今街で暮らしているのか、なにかわけがありそうだったが、今聞いていいのか分からなかった。

「街のことを…なぜ知りたい?調査というのは建前だろう?」

 芳葉さんは僕の嘘を見抜いているようだった。正直に言うしかない、と思った。

「…僕は…歌花の役に立ちたいんです。歌花のために何かしたい。でも、何をすればいいか…何からやればいいか分からない。だからまずは、海の民が歌花のこと、この世界のことをどう考えているか知らなければならないと思ったんです」

 僕が言うと、芳葉さんは目をしばたたかせた。

「あんた…陸の人間と言っても、岬様とはずいぶん違うんだね。あんたのような人が歌花様のそばにいるなら…大丈夫かも知れないね」

「え?」

「いや、うん。そうだね…。まあ、海の民にも色々な人がいるさ。歌えない乙姫の歌花様に同情する人、憎む人。この世界の行く末を憂える人…。様々だね。みんな、退屈するとすぐそのことについて話し合って論じ合うことをなんだかんだで楽しんでいる、っていう感じかね。まあ、海の民は基本のんきな気性なんだよ。人生を楽しむことを一番に考えている。宮城の中のことなんて、所詮海の民にとっては草紙の世界さ。話のタネになればなんだっていいんだよ」

「でも、恒龍が枯れたことは…」

「樹朝臣様!」

 僕の言葉を、龍日子が慌てて手で制したけれど、遅かった。

「恒龍が枯れた!?」

 そのことは、芳葉さんもさすがに聞き流せなかったみたいだった。

「いや、まだ2,3枚で、全部枯れたわけではないようですが…」

 僕は引っ込みがつかなくなり、正直に答えた。龍日子がため息をついている。この情報は、まだ街の人には流してはいけないものだったのか。

「そうか…。思ったより事態は深刻のようだね。――時が、来たのかもしれない」

 芳葉さんは何か決心したようだった。

「樹様、と言ったね。それと龍日子さん。あたしはまだ静観するつもりでいたけれど、恒龍が枯れたと聞いたらこのままでいるわけにはいかない。あたしと瑠璃を、宮城へ連れて行っておくれ。至急だよ。亜古弥様と歌花様にお会いしなければ」

「え!?」

 僕は驚いたけれど、龍日子は思ったより冷静だった。

「――分かりました。お連れしましょう。確かに、事態は切迫している。私も、もっと急ぐべきでした。瑠璃殿のご成長は少し遅いようですが…それでも、あそこまで大きくなられた。もう、その時なのかも知れません」

「紀正は反対するだろうけれどね…もうそんなことは言っていられない」

「ただ…結界が、まだ」

 そう言って、龍日子が目を伏せた。

「まだ解けないのかい。けど、強行突破の方法がないわけじゃない。それに、樹様とやら」

 僕の知らない話を進めていた芳葉さんが、キッと僕を見た。

「は、はい」

「あなたが岬様の後釜なのだとしたら…なんとしても結界を解いてもらうよ。あなたなら、たぶん…できるはずだ。陸の人間にしかできないことは、あるんだよ。あんだが陸から招かれたなら…きっと、なんとかなる」

 そんなことを言われても、僕はむしろヒントを探しに街へ来たはずなのに、こんなことになるなんて…。なんだか一気に気が重くなってきた。浮かない顔の僕を見て、芳葉さんはふっと動きを止め、ふむ、と手を顎に添えて考えたあと、何を考えたのか、言った。

「樹様、龍日子さん。宮城へ行く前に『(ひめ)(ほこら)』へ寄ろう。そこで祈るんだよ。縁起を担ぐなんて頼りないって言われるかもしれないけど、縁起は大事だよ。先人の知恵の証だからね。知恵をおすそ分けしてもらいに行こう」

「『媛ノ祠』?」

「乙姫を祀っている祠だよ。大事な祭祀は、たいていそこで行われている」

「宮城からは少し距離がありますが、祠へ寄るのは賛成です」

 龍日子が応じた。

 僕はもう理解が追いつかず、ただついていくしかないようだった。


 芳葉さんは最低限の用意をしたら、瑠璃ちゃんを、持っている着物の中で一番上等の着物に着替えさせ、出かける準備を完成させた。

 もともと可愛い瑠璃ちゃんだったけれど、上等の着物を来た瑠璃ちゃんはまるで貴族のお姫様のような気高さが加わった気がした。

 『媛ノ祠』というのは、芳葉さんたちの家から歩いて十分ほどのところ、街のはずれにあった。要は神社のようなものだ。入り口のところに置いてある小さな岩には、変な窪みのようなものがあって、そこから参道のようなものが続き、中に小さな社があった。手をたたきこそしないが、手を合わせ祈る。その形式は、僕たちの世界と変わらないようだった。

 祈りながらも、僕の頭の中は疑問でいっぱいだった。瑠璃ちゃんのことはもちろん、紀正さんと芳葉さんの関係も気になった。紀正さんは妻、とは言わなかった。家人、と言った。それに、芳葉さんの瑠璃ちゃんへの態度は、親子というにはどこか距離があるような気がするし、芳葉さんと紀正さんと瑠璃ちゃんがただの三人家族とはとても思えなかった。質問の余地もなかったけれど、どういう繋がりの三人なのだろう、と思った。

 言えるのは、確実に事態が動いているということ。何かが、起ころうとしている。奇妙な予感が突き上げてくる。


 祠でお祈りをし、僕たちは早々宮城へ行った。まさかこんなに早く戻ることになるとは思わなかった。2週間は街で暮らす覚悟だったのだ。

 すぐに『風の間』へ通され、僕と龍日子と芳葉さん、そして瑠璃ちゃんは亜古弥さんを待った。十分ほど待ち、亜古弥さんが『風の間』へ現れた。

「芳葉――久しゅう」

「亜古弥様。お久しぶりでございます。――こちらが」

「瑠璃、か――成長がだいぶ…」

「はい、少々お時間がかかっております。儀式を受ければ多少早まるかと」

「ふむ…そうか。確かに、そこまで育っていれば問題はない。しかし、結界が解けないことには」

「まだ解けていないようですね。けれど急がなければならないと思いました。瑠璃の存在を、まずは確かめていただきたかったのです。亜古弥様にも…歌花様にも」

「――会わせるといい。歌違えの間に連れて行くがよい」

「――よろしいですか」

「構わぬ。それで事態が少しでも動けば喜ばしいことだ」

 亜古弥さんが目を細めて瑠璃ちゃんを見た。しかしそこには、温かいぬくもりのようなものは皆無だった。普通、亜古弥さんのような人は、小さな子供をもう少し温かい目で見るものだとなんとなく思っていたけれど……。


 僕たちは『風の間』を出て、歌違えの間へ向かった。

 入り口に立っていた氷見が瑠璃ちゃんを見た瞬間の、嫌悪に歪んだ顔にまず驚いた。いつも人形のような能面の氷見が、こんな風に感情を見せることはとても珍しいことだった。

「芳葉様…?」

「お久しぶり、氷見」

 芳葉さんはその嫌悪を無視して冷徹な眼差しで氷見を見た。

「歌花様に…瑠璃を会わせるために参った」

 氷見は悔しそうに顔を歪めたが、扉の前をどき、僕たちを部屋の中へ通した。屈辱、という言葉がぴったりの表情だった。


 歌違えの間には、いつものように歌花がいた。しばらく会えないと思っていたから、こんなに早く歌花の姿を見られるのは嬉しかった。

「歌花……」

 僕は思わず言葉をもらした。

 振り向いた歌花は僕を見てまず微笑んだ。しかしそのすぐあと、芳葉さんを見て、そして瑠璃ちゃんを見た途端、真っ青になり、手に持った扇をポトリ、と床に落とした。

「芳葉……」

「歌花様、お久しぶりでございます。――あなたの娘の瑠璃を、連れて参りました」

 …え…?

 その言葉に、他でもなく真っ先に凍りついたのは僕だった。

 娘…?瑠璃ちゃんが……歌花の…?

 震える歌花を、僕はただ呆然と見つめることしかできなかった。

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