街へ
その日は、それからすぐに歌違えの間を出た。歌花がもう口を開こうとしなかったのだ。岬さんのことを、詳しく聞きたかったが、龍日子は必要以上のことは口にしない人間のようだった。それに、なぜ殺したのか、なんて怖くて聞けなかった。人を、殺す。その行為の恐ろしさに、僕はすくんでしまっていた。それを聞くことで、たとえ龍日子が僕を殺すことがないと分かっていても。ただ、すまなそうにはしていた。
「歌花様のご機嫌をだいぶ損ねてしまったようですね。樹朝臣様には申し訳なかった」
「いえ」
そうは言ったものの、機嫌を損ねる、なんてものではなかった、と思う。歌花は、龍日子をはっきりと憎み、拒絶していた。愛らしい歌花の顔が憎しみに歪むのを見るのは、とても辛かった。どんな理由があるにせよ、龍日子は――人を、殺した人間なのだ。
「相変わらず――幼いお方だ。乙姫としての自覚は、今も昔も持っておられないらしい」
ふ、と唇の片端をあげて、龍日子が皮肉気に笑んだ。龍日子には龍日子の理由がある。亜古弥さんの信頼の仕方から見ても、龍日子ばかりが悪いわけではないのだろう。それでも、僕は龍日子にいい印象を持てなかった。幼い。歌花のことをそんな風に言う資格があるのか?歌花の、恐らく一番大事な人を奪ったのに?けれど、少なくとも亜古弥さんや龍日子にとっては、そんなことより歌花の「乙姫としての自覚」の方が重要なのだろう。その残酷な事実に、僕は怒りを覚えずにいられなかった。
歌花の力になりたかった。支えになりたかった。でも――今の僕にはあまりにも力がない。それに…僕はあまりにこの世界について何も知らない。それを改めて思い知らされる。
しばらく街で暮らしてみようか。ふと、そんな考えが頭をもたげた。僕はこの世界に来て、ほとんど宮城から出ない生活だった。一度、少し街へ出たことがあるが、たった一回だ。それでは、この世界のことが分かるわけもない。一度、ちゃんと海の民の生活に溶け込む必要がある。海の民が今、何を思っているのか。歌花に対して、どんな感情を抱いているのか。僕は何も知らない。知らなさすぎる。幸い、今、僕には龍日子という護衛がいる。これを利用しない手はない。
「龍日子、今から亜古弥さんに会います。来てください」
「亜古弥様に?」
龍日子の眉間にしわがよる。僕は頭を下げた。
「『風の間』に連れて行ってください」
「…なにかお話でも?」
「はい」
それ以上は言わなかった。
再び『風の間』に行くと、亜古弥さんは私室に戻っているということだった。僕と龍日子は、『風の間』で亜古弥さんを待つことにした。改めて『風の間』をぐるりと見渡す。高い天井、敷き詰められた床の白い小石。白い卓子に白い椅子。重厚な中にも、くつろげる雰囲気がきちんと作られている。実はかなり計算して作られた部屋なのだなと思った。
その時、門番により扉が開かれ、少し息を切らした亜古弥さんが入ってきた。
「樹朝臣様…お待たせして申し訳ありませぬ。わたくしにご用とか…いかがなさいました?」
少し慌てているように見えた。そう言えば、僕から用があったことはあまりない。いつも呼ばれてばかりだったから。
「亜古弥さん、実は…僕は、少し街で暮らしてみようと思います」
「街で!?樹朝臣様が!?」
亜古弥さんが思わず大声をあげる。龍日子も一瞬目を見開いた。想定内だ。
「はい」
「なぜ…ここでの暮らしに何かご不満が?」
「ありません。何もかも心地よく整えてくださっています。感謝しています」
「ならばなぜ」
「僕はこの世界のことが知りたい。でもここにいては何も分かりません。海の民が何を考えているか、今のこの…世界のことを、どう思っているのか。歌花にどんな感情を持っているのか。日々、何をして、何を考えて暮らしているのか。それを知りたいのです」
亜古弥さんは少し考えているようだった。
「宮城にいては何も分からない。だから…しばらく、街で暮らしてみたいのです」
「しかし…」
「幸い、龍日子がいます。街で暮らすにあたり、龍日子の力も借りたい。許していただけますか?」
「それはもちろん…護衛もなしに街に行くことを許すわけにはいきません。ただ…それなら、せめて街で暮らす屋敷はこちらで手配させてください」
「いえ、それは自分の力で探さなければ意味がありません。龍日子だけで十分な力になります」
「それはあまりに無謀というもの。手配した屋敷でなければ、今のお話を許可はできません。せめて、住居くらいはこちらの安心できるところで。もちろん、十分な金子もお渡しいたします。それと…期間としては長くとも二十日間程度で。それ以上宮城を離れることをお許しするわけには参りません。樹朝臣様は陸の世界からの大事な客人。預かる身としての責任がわたくしにはあります。それを無下にはしないでいただきたい」
「…分かりました。ただし、それ以外はなるべく僕の自由にさせてください」
「…はい。ですがあまり羽目を外した行動はお控えください。樹朝臣様ですからお分かりかとは思いますが。――龍日子」
「はい」
「樹朝臣様から目を外さずに、しっかりお守りするように」
「――かしこまりました。亜古弥様」
そう言って、龍日子が深く一礼した。
「樹朝臣様も、龍日子の言うことはよく聞いてください。どうか、ご自分を大事に――くれぐれも危ないことはなさらないでください」
「大丈夫です。無茶はしませんから」
「では、ご準備いたしますから、今日のところは自室でお待ちください」
「今から街へ行ってはいけないのですか」
「色々なご準備で、最低でも一日はいただきます。屋敷の手配などもありますから、一日ではすまないかも知れません。――ご自分が無茶をおっしゃっていることを少し理解していただきたい。龍日子、くれぐれも頼んだぞ。あとでまた呼び、申し伝えることもある。よいな」
「かしこまりました」
無茶を言っているなんて、実際は百も承知だ。それでも、今の僕ができることは、やるべきことはこれしかないと思う。しばらくは歌花にも会えない。けれど、歌花のためにも、この世界のことを知りたいし、知らなければならないと思うんだ。
「龍日子、僕の護衛になって早々、面倒な思いをさせてすみません」
『風の間』を辞したあと、一度自室に戻って街へ出る用意をしていた僕のところに、龍日子が訪ねてきた。龍日子も準備や面倒な手続きが色々あったらしい。僕は龍日子に頭を下げた。龍日子に思うところは色々あったが、面倒な思いをさせているのは今のところ僕の方だ。そのことを、申し訳なく思う気持ちはあった。
「いえ…おとなしい方かと思っておりましたが、ここまで行動的なお方とは思っておりませんでしたが」
龍日子も案外率直な意見を口にした。そのことで、僕の警戒心も少し緩んだ。
「亜古弥様が頭を抱えておられました。無茶なお方だ、と」
そう言って、また口の片端をあげてフッと笑った。皮肉気に笑うのが癖なのだろう。それから、ふいに真顔になって言った。
「けれど、おっしゃっていることは間違っておられません。海の民の暮らしを樹朝臣様がご覧になるのはわたくしも必要なことだと感じておりました」
「そう思いますか」
「はい。樹朝臣様は…岬様とは違う。ちゃんと、歌花様だけでなく、この世界に向き合おうとしてくださっているのですね。――ありがとうございます」
岬さんの名前が出ると、僕はどうしたって意識してしまう。けれど、それ以上聞くのも憚られた。
ただ、龍日子には龍日子の正義があるのだと、初めて感じた。わずかだが、怒りは緩んでいた。
「僕は、歌花の役に立ちたい。それには、海の民のことを知らなければならないでしょう?」
そう率直に言うと、龍日子は虚を衝かれた顔をした。
「――ああ…そうですね。そう、思います」
それから、言葉少なになり、何かを考えているような顔になったので、僕もそれ以上話しかけるのをやめた。
龍日子は岬さんを殺した。それは事実なのだろう。けれど、僕が龍日子に殺されることはきっとない。それは、なぜだか信じられる気がした。
――信じてみよう、と、思った。
それから街へ出る準備など、色々な手続きがあったようで、僕と龍日子が無事街へ出られたのは2日後だった。どう考えても多すぎる貨幣も持たされ、朝早くに僕と龍日子は街へ出た。
「まずは逗留先の屋敷へご案内します。街の中は一通りご案内できますが、行きたいところはございますか」
龍日子に言われ、僕は考えていたことを口にした。
「会いたい人たちがいます。まずは、彼らに会ってもいいですか」
桜貝のかんざしを売ってくれて、僕に初めて働くということを教えてくれた、瑠璃ちゃん親子を真っ先に思い出していたのだ。龍日子は予想外の言葉に少し戸惑ったようだった。
「会いたい…?街に…知り合いがいらっしゃるのですか」
思ってもいないことだったらしい。
「はい。以前、少し街に出たときに…僕を働かせてくれたんです」
「働いた!?樹朝臣様が…街で!?」
言わない方がいいのかと一瞬後悔したけれど、嘘もつきたくなかった。それに、悪いことはしていないはずだ。
「失礼ですが…どのようなことをされたのですか」
「簡単な帳簿つけです。僕にできることなんてほとんどありませんから。それでも、銅貨を数枚頂きました。僕が買いたかった商品と一緒に」
「そのこと…亜古弥様は知っていらっしゃるのですか」
「いえ、特に言ってませんけど。言う必要もないと思ったので」
「そうですか…いや、そうですね、申し上げない方が良いでしょう。…樹朝臣様は…思ったより大胆な方なのですね」
大胆!?僕が最も言われ慣れない言葉なので少しびっくりした。
子供の頃から、良くも悪くも、列を乱すことのない人間だった。ある意味、臆病だったのだろう。その僕が、大胆と言われるとは。思わず少し笑ってしまう。
「樹朝臣様?」
僕の笑いに、龍日子は顔をしかめた。
「いや、なんでもありません。人って分からないなあって思っただけです。僕にも、そんな一面があるんですね」
そう言ってにっこりすると、龍日子は目をしばたたき、
「…不思議なお方だ」
とつぶやいた。
父さん、母さん。僕はどうやら、大胆で不思議な人間らしいよ。生きてるって、驚くことの連続なんだね。今の僕も、父さんや母さんに見てほしかったな。でも、見てて。僕は、今、一人の女の子のために一生懸命生きているよ。
街は、中央の宮城を離れれば離れるほど建物は貧しくなっていくような作りだった。そのことに、今日初めて気づいた。
用意された屋敷は宮城にほど近く、こぎれいに手入れしてある白い清潔そうな比較的質素な建物だった。石造りの質素な門を入ると、部屋は椅子と卓子が置いてあるダイニングのような部屋が一部屋、寝台が備え付けられている部屋が二部屋。そのほかに、トイレとお風呂場がついているだけの、簡素な建物だった。急いで用意されたにしては、僕にとっては上等すぎるくらいの屋敷だった。一見質素だけど、とても清潔に保たれている。
「申し訳ありません、なにしろ急なことでしたので、樹朝臣様には少し質素すぎる屋敷で…」
龍日子が本当に申し訳なさそうに言うので、僕は慌てた。
「とんでもない、急なお願いなのに、十分すぎるお屋敷です。宮城へ帰ったら、亜古弥さんにもお礼を言うつもりです。ありがとうございます」
「足りないものがあれば、買い足しますので遠慮なくおっしゃってください」
「はい、ありがとうございます」
とはいえ、足りないものなんてない。寝台さえあれば十分だ。
「じゃあ、えっと、行きたいところがあるのですが…」
荷物を置くのもそこそこに僕が切り出すと、龍日子がうなずいた。
「お供いたします」
以前来たときは気づかなかったけれど、瑠璃ちゃんたちの露店は街の中央からは少し離れた場所にあった。相変わらず、なかなかの賑わいを見せる露店の一角。そこへ行く前に、僕は龍日子に前もってお願いした。
「あの、これから会う人たちの前では、樹朝臣様と呼ばないでもらえますか」
「え、じゃあ、なんて…」
「ただ、樹、と」
「そんな恐れ多い…」
「僕はもともと朝臣なんかじゃない。陸では普通の平民でした。その方が本当の僕です。恐れ多くはありません。お願いします」
「せめて、樹様、と」
「いや、でも」
「陸ではどうあれ、わたくしにとっては朝臣様です。呼び捨てだなんて絶対にできません。こちらの要望も受け入れていただかなくては街の人との交流も許可できません。お互い譲歩が必要だと思います。朝臣様とは呼びません。けれど呼び捨てもできません。受け入れてください」
それが、お互い譲歩した上での結果だった。僕は樹様、と呼ばれ、高位の役人の遠縁にあたる、ということにした。瑠璃ちゃん親子には、そんな風に見られたくなかったのに。けれど龍日子の言い分も分からないではなかった。仕方ない、と諦めた。
「あれ、いつかの…樹の兄ちゃん、かい?」
「こんにちは」
僕が屋台に近づくと、瑠璃ちゃんのお父さん―紀正さんという名前だった―が明るく手を振ってくれた。
「おじさんと瑠璃ちゃんにまた会いたくて、来てしまいました」
「ちょうど良かった、今日すごく混んでて困ってたんだ。帳簿つけお願いしていいかい?もちろん賃金は弾むよ」
「な…!そんなこと」
止めようとする龍日子を抑え、僕はにっこり笑った。
「もちろん、いいですよ。あの、今日は瑠璃ちゃんは?」
「そこらへんで遊んでるんだろ。そのうち戻ってくるさ。さ、頼むよ兄ちゃん」
「樹…様、そんな庶民の商売など」
「いいから。これは僕がやりたくてやっているんです。亜古弥さんにさえ言わなきゃ、龍日子の立場も困らないでしょう。やらせてください」
「……」
龍日子はしばらく困っていたようだが、やがて諦めたようだった。僕だって、龍日子の立場を考えていないわけじゃない。ただ、これは僕が初めて海の民である紀正さんと瑠璃ちゃんと持った大事な関わりで、それを止められたくはなかった。
お昼過ぎまで帳簿付けをがんばり、龍日子は幾分手持無沙汰のようだったが、僕は忙しさに追われるままであまりそちらに意識を向けられなかった。
少し人がまばらになり、紀正さんからお昼休みをもらった。
「龍日子、ここらへんでお昼を食べられるところはありますか」
「ああ、ではあちらに食堂街がありますので…」
そう言って、そちらに行こうとしたとき、どこからか歌声が聞こえてきた。幼い声が歌う童歌。しかし不思議と心地よく、とても癒される歌声で、ずっと聞いていたい思いに駆られた。龍日子もその声の元を探しているようだった。
と、近くの木陰の下で、綺麗なヨーヨーで遊びながら、歌を歌う瑠璃ちゃんを見つけた。
この歌声、瑠璃ちゃんだったんだ…。相変わらず愛らしい笑顔で、歌を気持ちよさそうに歌っている。
「…あの少女…」
「あ、紀正さんの娘さんです。瑠璃ちゃんて言って…」
龍日子に、慌てて教える。
「…まさか…」
「え?」
「…いえ、なんでもありません。…いい声ですね…」
「はい、こんな綺麗な声だなんて知りませんでした。それに、とても可愛いし、手も器用なんですよ。あ、ほら、あの台の上のかんざし。あの中に、瑠璃ちゃんが作ったのもあるはずです。この前、桜貝のかんざし、瑠璃ちゃんが作ったものを歌花に贈ったんです。すごく、似合うと思ったので」
僕が言うと、龍日子は遠くを見るような目でつぶやいた。
「歌花様に…桜貝のかんざしを…」
「はい、それを…」
僕が言いかけると、龍日子は、今まで見たことのない、皮肉も混ざっていない、とても優しい微笑みを浮かべた。
「…それは…とても…お似合いになるでしょう…」
「…龍日子…?」
僕が言うと、龍日子ははっとした顔になり、それからいつもの氷のような表情に戻り、言った。
「では、食堂街はこちらです。参りましょう」
けれど僕は、今の龍日子の表情が引っかかっていた。
龍日子は…本当に歌花の敵なのだろうか…?だとしたら、今の表情はいったい…?
僕の心の中に、小さな疑問がいつまでも渦巻いていた。