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水底の姫君  作者: 市村いお
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龍日子

自分の気持ちに気づいてしまい、歌花の前でどんな態度をとればいいか分からなかった。でも、それ以上に会いたい気持ちが強く、次の日お昼過ぎには歌花の元へ走った。さすがに朝すぐには行けなかった。気持ちの整理がつかなかったのだ。

「歌花…来ました」

 息を切らして歌違えの間を入ると、歌花は部屋の中にいたが、僕がそう言うとプイッとそっぽを向いた。

「歌花?」

 不安になる。僕の気持ちがバレた?いや、そんなそぶりはまだ見せていないはずだ。

「歌花、どうしました?まだ具合が悪い?」

 心配してそう言うと、少し怒った口調で歌花が答える。

「…朝、来ると言ったではないか」

「え?」

「樹が来ると言うから、朝からかんざしを挿していたのに…氷見に朝、見られてしまった。樹に一番に見せたかったのに」

 歌花を改めて見ると、昨日贈った桜貝のかんざしを髪に挿し、そして、眉毛を隠すくらいの長さだった前髪を、眉の少し上まで切りそろえていた。頬を少し朱く染め、きまり悪そうにふくれている。なんだか小さな女の子みたいだった。思わず笑ってしまうほど、愛らしかった。

「なんで笑う?…変か?」

「いえ、すごく…すごく可愛いです。かんざし、つけてくれて嬉しいです。すごく似合ってる」

 少し照れながらそう言うと、歌花は一瞬目を見開き、それから長い睫毛を伏せて息を吐いた。

「…それなら良かった…がっかりさせたかと思った」

「がっかりなんてするわけがない。本当に、似合っています。歌花のために作ったのかなって思うくらい」

 正直に言うと、歌花は真っ赤になった。

「…褒めすぎだ」

「そんなことないです」

 歌花は自分の美貌を自覚していないらしい。その不器用さも愛おしかった。でも。

「…歌花の心の中には、今でも一番に岬さんがいますか?」

 好きだと自覚した昨日から、一晩中考えていた。歌花にとって特別な人である『一人目の浦島』である岬さん。彼には勝てないのだろうか。この先もずっと?

「…え?」

「歌花と岬さんには深い絆があるんですね。僕には敵わないのかも知れない」

 ついそう口にすると、歌花は寂しそうに笑って言った。

「…絆などあるわけがない。岬には奥方もお子もいた。わらわのことなど相手にもしていなかった」

「え!?」

 本当にびっくりした。当然、岬さんと歌花は両想いなんだと思っていた。それなのに…奥さんも子供もいた?そんな大人だったのか?

「岬さんは…その、お歳は…いくつくらいだったんですか?」

「確か…数えで24と言っていたな。生まれたばかりの自分の子供のことを、それは楽しそうに話していた。それを聞いたわらわがどんな想いか…まるで気づいていなかった」

 歌花が自嘲気味に笑う。

「そんな…」

「地上に…奥方とお子の元へ、なんとしても帰してあげたかった。わらわのせいでこの海の底で果てた。父の帰りを待つ子供を想像するだけで胸が痛んだ」

 涙声で、歌花がそう話した。

 どんな想いだっただろう。愛した人に、すでに愛する人がいたこと。それでも、その人たちの元へ帰そうとした事実。それはあまりに哀しい。

「歌花…もう、いいです」

「…え?」

「もう苦しまないで、前を向いてください。僕を見て。岬さんじゃなくて僕を。僕と、向き合ってください」

 それはもう半分告白だった。歌花はそれに気づいただろうか。

「樹…」

「罪悪感があるのでしょう?でも、あなたはそのことを百年以上苦しみ続けてきた。もう十分です。もう、いい。苦しまなくていい。自分の幸せを考えてあげてください」

「でも、わらわのせいで」

「あなたのせいではない!何があったか詳しいことを、僕は知らない。でも、本当の罪人ならこんな風に苦しんだりはしない。一人で…この部屋の中で…苦しんできたのでしょう?もういい。もう、いい…」

 そう言って、僕は歌花を抱きしめた。歌花はただ泣いていた。最初はすすり泣きだったけれど、やがて僕の腕の中で大声で泣き始めた。それは、百年以上我慢し続け、本当には泣けなかった歌花が、初めて本当に泣いた瞬間だった。歌花はただただ泣いた。僕はずっと頭をなでてあげていた。それは小さな子供にするような仕草だったけれど、歌花は誰より大人だったのだ。百年以上、一人でずっと哀しみを背負って生き続けてきた。僕は知らず知らず、その哀しみを抱いた姿に惹かれていたのだろうか。

 大声で泣く歌花は、その大人の仮面がはがれ、子供に戻った瞬間だったのかもしれない。小さな、14歳の歌花。

 『乙姫』ではなく、ただの少女の歌花が、そこにはいた。

 もう、いくらでも泣いていいんだよ、と思った。――歌花を、救いたかった。



 歌花はそれからも泣き続け、やがて少しずつ泣きやみ、僕の腕の中から出て、静かに言った。

「ありがとう、樹…。少し、一人になりたい。明日、また来てくれるか」

「…はい、きっと」

 そう言って、僕はガラスの扉を出た。歌花は向こうを向いていた。僕は静かに言った。

「あなたが好きです。…歌花」

 歌花の肩がビクッと震えた。

「…今日はそれだけ言いたかった。では」

 そう言って、部屋を出た。


 けれどその日から3日間、今度は僕が体調を崩してしまい、寝込むほどではなかったが、歌花の元へは行けなかった。僕は早く行きたかったけれど、大げさに侍女の人たちに看病されてしまうと、自分の部屋を出にくくなってしまったのだ。

 歌花に告白をした。生まれて初めての愛の告白だった。けれど、心の中の海は不思議と凪いでいた。

 完全に熱が下がったのは5日後の朝だった。急いで歌花の元へ行こうとするした時、ちょうど彩己が部屋へ来た。

「彩己、久しぶりだね。今から歌花の元へ行こうとしてたんだ。彩己も行く?」

「いえ。お熱は下がられたと」

 相変わらず笑みひとつ見せない端正な顔。僕は思わず少し苦笑した。

「ああ、熱はもうない。心配しなくても、歌花にはうつさないよ。それで…」

「亜古弥様がお呼びです」

「…亜古弥さんが?」

 そう言えばここのところ亜古弥さんに会っていなかった。挨拶ぐらいはするべきかも知れない。歌花の元へはそのあと行けばいい。

「分かった。今行く」


 例によって『風の間』に行くと、こちらも相変わらずの威厳の亜古弥さんが深々とお辞儀する。この堅苦しさは、正直慣れない。――けれどその時、亜古弥さんの隣にいる青年に目が引き寄せられた。研ぎ澄まされた刃のような雰囲気、その鋭い眼光。美しい容姿だが、切れ長な目は怖いとさえ思わせる。漆黒の髪に漆黒の瞳。目が合った瞬間、金縛りにあったかと思うほどだった。背は180センチはあるだろうか。立ち姿も美しく、痩身だが体幹はしっかりしているのが分かる。

「樹朝臣、お呼び立てして申し訳ありません」

「あ…、ああ、いえ」

 一瞬、亜古弥さんの存在を忘れていた。慌てて返事をする僕に、亜古弥さんは微笑んで、その青年を促した。

龍日子(たつのひこ)、こちらへ」

 タツノヒコ――。

「はい」

 歩み出たその青年が僕に深々とお辞儀する。圧倒されそうな緊張感。歳は僕とそんなに変わらなそうなのに。

「樹朝臣にはお初にお目にかかります。龍日子と申します」

「あ、はい、は、初めまして」

 お辞儀されているのに、どう考えても僕の方がうろたえている。亜古弥さんが説明を加える。

「以前、乙姫の護衛をしていた者です。わけあって宮廷を下がっていましたが、この度また仕官することになりました。樹朝臣、これからこの者に貴方様の護衛を任せます。やはり何があるか分かりませんから。ご自分の部屋を出られる時は、この者を同行させてください」

「え?そんな、護衛なんて。僕に?」

「はい。最近、街でも物盗りがあったと耳にしました。用心するに越したことはありません。剣の腕は確かです。どうぞ、樹朝臣の護衛とすることをお許しください」

 この前、一人で街へ行ったことを嘉手菜さんたちから聞いたんだろうか。ますますここでの生活が窮屈になるな、と思ったが、こんな下手に出られてはとても逆らえない。

「はい、あの、じゃあ、よろしくお願いします」

「今から乙姫の元へ?」

 亜古弥さんが聞く。

「はい、そのつもりです」

「では、龍日子もお連れください」

「…はい」

 本当は、歌花とは二人で会いたかった。告白の後なのだから、なおさら。もちろんあのガラス部屋の中に入れるのは僕だけだけれど、部屋の外で待たれているのも落ち着かない。話しているところもじっと見られるのだろうか。気が重くなったけれど、僕に拒否権はない。

「…龍日子さん、では、歌違えの間へ」

 僕がそう言うと、AIのような正確さで、龍日子さんが答える。

「どうか、龍日子とお呼びください、樹朝臣様」

 こうなったら開き直ろう。僕も、うろたえてばかりもいられないのだ。

「…では、龍日子。行きましょう」

「…はい」

 内心ため息をつきながら、僕は龍日子という名の青年と共に、歌違えの間へ――歌花の元へ向かった。


 歌違えの間の入り口で控えていた氷見が、龍日子の姿を見て一瞬ぎょっとした顔になったが、すぐに改め、慌ててお辞儀をした。

「どうぞ、中へ」

「ありがとう、氷見」

 龍日子と共に中へ入り、発光しているガラス部屋の中に歌花の姿を見つける。でも今は龍日子が気になり、歌花ひとりに集中できない。

 けれどその後、振り向いた歌花の目が僕の顔をとらえ、そして次に横にいる龍日子を視界にとらえた瞬間、歌花の顔が蒼白になった。

「お前…!」

 いつの間にか、歌花の目に強い怒りの炎があった。

「なぜここにいる」

 龍日子は表情ひとつ動かさず、深々と頭を下げた。

「お久しゅうございます、歌花様。この度、樹朝臣様の護衛を務めさせていただくことになりました」

「護衛?お前が?」

 歌花の顔が歪んだ。

「お前にできるのは人を守ることではなく人を殺めることであろう?護衛とは面白い冗談だ」

 わずかに口角をあげて微笑む歌花の顔は哀しく歪んだままだった。

「歌花、どういうことですか」

 僕が聞くと、歌花は忌々しそうに吐き出した。

「樹。この者を信用するな。この男は――百年前、岬を惨殺した男だ」

「岬さんを!?」

「忘れたとは言わせぬぞ、龍日子。二度とわらわの前に姿を見せるなと言ったはずだ。下がれ」

「――今日のところは扉の外に控えております。ですがわたくしは樹朝臣様の護衛を亜古弥様から命じられました。それを反故にすることはできませぬ。それと」

 歌花が龍日子をじっと睨む。

「あの時は、岬様を殺すしか貴方をお救いする道はなかった。歌花様も、そのことをお忘れなきよう」

 そう言って、龍日子は扉の外へ出た。

 ――龍日子が…岬さんを殺した?歌花を救うために?その時、歌違えの間は、苦しいほどの沈黙が支配していた。

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