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水底の姫君  作者: 市村いお
4/10

氷の姫君の素顔

それから急いで長老たちの間で会議のようなものが開かれ、僕は「朝臣(あそん)」という位をもらうことになった。臨時的に。どうやらかなりの高官らしく、宮殿の中でもかなり豪華な一室をあてがわれた。衣装も凝った着物を用意されたが、さすがに動きづらそうで、簡易な羽織と袴だけで勘弁してもらった。それでも、服装が変わるとずいぶん気分が変わる。いくらかこの世界になじめそうな気がした。まだ気がしただけだけれど。

 ひとたび落ち着くと、ずいぶんお腹が空いていることが分かった。そういえばこんな不思議な体験をして、まだ何も食べていないのだ。出されたのはお茶くらいで、まともな食事はばあちゃんちで昼ご飯を食べて以来だ。短い時間でずいぶん色々なことが起こり、食事どころではなかった。

 手元に置かれた鈴を鳴らす。何かあったらこれで人を呼ぶようにと用意されたものだが、どうにも慣れない。しかし空腹には代えられない。チリンチリン、と鳴らすと、すぐにノックがする。ドアの外に控えていたらしい門番の少年が頭を下げてドアを開ける。なんだか見張られているみたいで落ち着かない・・・。

 思い直して、少年に声をかける。この少年も端正な顔をしていた。氷のような表情はその他の門番たち、彩己や乙姫とかわらない。この世界の人はみんな感情が希薄なのだろうか。

「あ、あの、お腹が空いたので・・・なにかつまめるもの、ありますか」

 呆れられるかと思ったけれど、少年は眉ひとつ動かさず口を開いた。

「間もなく夕餉のお時間です。少しお待ちください」

 ロボットのような正確さで話す少年が、なぜかひどく痛々しく見えた。同じ人間に思えない。

「夕餉・・・夕食?あ、はい、じゃあ、あの、待ちます、ありがとう」

 僕がそう言うと、少年はペコリとお辞儀をしてすぐに下がった。パタンとドアが閉められる。ふーっと息を吐く。ずいぶん緊張していたんだな、と自分で気づき、少し笑ってしまう。あんな子供みたいな少年ですら、驚くほどの緊張感をまとっている。いつまでこんな息のつまるような生活をすることになるのだろう、と、少し気が遠くなっていると、またドアがノックされた。

「は、はい」

 返事をすると、ドアが開き、二人の女の人が膳を持って入ってきた。

「夕餉をお持ちしました」

 二人とも、乙姫ほど整いすぎているわけではないが、美しい少女たちだった。

 置かれたひとつの膳には、ごはん、お味噌汁、煮物、魚が乗っており、もうひとつには小さなピッチャーとグラスが置いてあった。水が入っているようだった。

 なにしろ腹ペコだし、目の前の食事はとても美味しそうだった。少女たちに礼を言うと、不思議そうな顔で見られたがそんなことはどうでもよく、少女たちが引き上げると僕はすぐに箸をとった。

 が・・・一口目で顔をしかめ、食べ進めていくにつれて顔から笑みが引いていくのが分かった。――まずい・・・。煮物はベショベショしているし、ごはんも味噌汁も冷めている。魚も塩をかけすぎているのかしょっぱい。いくらお腹が空いていてもこれでは・・・、僕はあまりの食事のまずさに箸を置き、ピッチャーに入っている水をがぶ飲みした。まさか・・・これから毎日、毎食ごとにこんなまずい食事を出されるのか・・・?これ、何かの罰なんだろうか。僕をこの世界から追い出すため?いや、いくらなんでもこんなセコい手で追い出したりしないだろう。邪魔なら毒を盛ればいいだけの話なんだし。となると、この世界ではこんな食事が普通なのか?亜古弥さんも彩己も乙姫も、みんなこんなまずい食事を食べているのか?

 はあ・・・と、急にため息が出る。ばあちゃんのおやつを食べてくれば良かった・・・と後悔する。母さんもばあちゃんも料理上手だったし、そういうものに慣れていた自分がいかに恵まれていたかを今になって思い知る。お腹は空いていたはずなのに、食欲はすっかりなくなっていた。食はすべてのエネルギーだからね、と笑顔で言っていた母さん。本当だな、と思う。なんだか少し残っていたエネルギーすらもどこかへ行ってしまったような・・・。

 当たり前のように、三食美味しいごはんを食べていた日々がなんだか夢のように思えてきた。この世界でがんばろう、と思っていたところだった。そのスタートがこれでは、がんばる気持ちもどこかへ行きそうだった。

 ゴロン、と身体を床に投げ出す。目を閉じる。父さんと母さんが浮かぶ。それからじいちゃんとばあちゃん、クラスメート、陸上部のみんな・・・。父さんと母さんが死んで、友達はみんな気を遣ってずいぶんラインも送ってくれたっけ。また一緒に走るの待ってるぞー、と送ってくれたのは部でも特に仲のいい泰輔だった。あの時は、もう永遠に走れないかも知れない、と思っていた。泰輔の言葉もひどく遠かった。どうしてだろう、今の方があの言葉がきちんと響く。そして思う。また泰輔たちと一緒に走りたいな、と。遠くに来すぎたからだろうか、ひどくあの世界に対してホームシックになっているのかもしれない。戻ったらまた走れない、と思うのかも。現実感がなさすぎて、自分の感情もかなり混乱しているのが分かった。走りたいのか、走りたくないのか。戻りたいのか、戻りたくないのか。もう分からない。もう、何も分からない――。

 僕はいつの間にか、眠ってしまっていた。


 



 ・・・そんさま・・・いつきのあそんさま・・・

樹朝臣(いつきのあそん)様!」

!?

 飛び起きると、すぐ近くに整った彩己の顔があった。心配そうな顔。なぜか、一瞬母さんを思い出した。僕が熱を出すと、いつも心配そうにそばにいてくれた優しかった母さん。彩己は母さんに似ている。こんな時に、そんなことを思った。

「え?あれ?僕・・・」

「朝餉を持ってくるついでに朝のご挨拶にうかがいました。夕べ、膳を下げなかったと聞いたので、少し慌てまして・・・。樹朝臣、どこか具合が悪いのですか」

 イツキノアソン。ああ、僕のことか、と理解するまでに数秒かかった。そう言えばそんな位をいただいたんだっけ・・・。思わず苦笑する。

 夕食を食べたのが何時ごろかよく分からないけれど、そこから朝食の時間の今まで眠ってしまったのか・・・かなり眠ってしまったらしい、頭はまだ寝すぎのためぼんやりしていたけれど、妙にスッキリもしていた。

「ああ、いや、ごめん、少し疲れていたらしい・・・。もう大丈夫。え、もう朝ごはん持ってきてくれたの」

「はい、今夕餉の膳を下げますね、昨日侍女が下げ忘れたと・・・失礼いたしました」

「あ、でも・・・」

 何しろ昨日のごはんをほとんど残している。気まずい思いがする。母さんが言っていた。どんなものでも、出されたものはきちんといただきなさい。それが最低限の礼儀よ、と。

「・・・ほとんど召し上がっておられませんね。やはりどこかお悪いのでは・・・医師を呼びますか」

「え!?いえ、大丈夫です、あの、ちょっと環境が変わって緊張していただけで・・・どこも悪くないです!」

 まさかまずかったから食べられなかった、なんて言えない。

「それなら良いのですが・・・。女官が朝餉を今運んできますので、どうぞ」

「あ、ああ、ありがとう」

 とはいうものの・・・。

 朝食の膳も二つ。食事の乗った膳と、水の乗った膳。

 食事はごはん、お味噌汁、卵焼き。

 昨日よりはマシか・・・?と思ったけれど・・・。

「それでは、また何かあればお呼びください。あとで女官が膳を下げに参ります」

 そう言って、彩己も女官も引き上げた。

 僕は恐る恐る箸をとる。

 ・・・ごはんも味噌汁もやはり冷めていてまずい・・・。卵焼きは塩味なのか甘いのかわからないくらい味が薄い。再びため息が出る。

 箸を置いたとき、またノックがした。

「は、はい」

 返事をすると、彩己が申し訳なさそうに入ってきた。

「申し訳ありません、お食事中に・・・」

「いや、いいよ。なに?」

「亜古弥様がお話があると。お食事が終わったら、風の間にお連れしますので、鈴を鳴らしてくださいますか」

「亜古弥さんが?」

「はい。よろしくお願いいたします」

 そうお辞儀をして、彩己はまた出て行った。

 亜古弥さんが?なんだろう?まあなんでもいい、どうせ暇なのだ。いっそ、食事の改善を願い出てみようか・・・いや、それはずうずうしいのかな。でもずっとこの食事のままというのも耐えられない・・・。

 とにかく、もう少し食べないと。お腹は空いているんだ。

 箸をとり、もそもそと食べる。お味噌汁は、味自体はそこまで悪くない。冷めているのが一番の問題だ。ご飯も。卵焼きも、綺麗に巻けているのに・・・。どれもこれも、よく食べてみると惜しい、という感じなのだ。

 まあいい、と、まずいなりに一応今朝は平らげた。水を飲み、ふうっと一息ついてから、僕は鈴を鳴らす。すぐに彩己がノックして入ってきた。ドアの外に控えていたらしい。なんだか申し訳なくなる。

「食べ終わったよ。亜古弥さんのところ、連れて行ってくれる?まだこの宮殿の中の地理、分かってないんだ」

「はい、ただ・・・少し休まれなくて良いのですか。召し上がったばかりでしょう」

 彩己は機械的に動いているように見えて、とても気遣いができる子だ。あ、でも中身は七十歳くらいなんだっけ。外見の成長が止まると、それは内面にも通じるはずだ。普通の七十歳とは明らかに違う。

「大丈夫。ありがとう」

 そう言って立ち上がる。

 外見が老いれば、中身も老いる。彩己は、中身が成熟したとしても老いない。外見が内面に働きかける力はすごい。それはある意味自然の摂理なんだ。そう思った。



風の間の前で、彩己は門番に会釈し、ノックした。

「入りなさい」

 亜古弥さんの声が返ってくる。彩己だと分かっていたようだ。

 門番がドアを開け、彩己は深く頭を下げる。

「樹朝臣をお連れしました」

  亜古弥さんが椅子から立ち上がり迎えてくれる。

「樹朝臣、お呼び立てして申し訳ありません。私の私室では失礼にあたりますし、樹朝臣のお部屋に入るのは恐れ多いこと・・・故に風の間が一番都合が良いのですが・・・いつもご足労させてしまい・・・」

 亜古弥さんは毎回僕に必要以上に気を遣ってくれるが、この人に気を遣わせるのは僕にはとても居心地が悪い。そんなこと?ということを気にされると、僕の方が申し訳なくなる。

「いえ、いつでも呼んでください。暇ですから」

「そのことなのですが・・・」

 亜古弥さんはまたも言いにくそうだ。

「はい?」

「実は・・・、一日に一度でいいので、歌花様の元を訪れてほしいのです」

 僕はぽかんとする。

「え?乙姫様の元を?僕が?」

「はい。とにかく、樹朝臣には歌花様の幽閉を解いていただきたい。でも樹朝臣はその方法を存じ上げない・・・。であれば、まずは歌花様と少しでも多く接するのが良いかと。一度目の浦島様のように、恋仲になるようになどと思ってはおりません。むしろそれは望まれていないこと。ただ、少しばかり懇意になる必要はあると思うのです」

 思ってもいない亜古弥さんの申し出に、僕はなんと答えていいか分からない。

「え・・・でも、あの、乙姫様は明らかに僕を歓迎していないようでした。恋仲なんてとんでもないし、なんなら懇意になるとかも難しいと思います・・・」

 そう本音を言うしかなかった。怒ったり泣き出したり・・・僕に対する乙姫様の感情はマイナスのものばかりで、いい影響を与えられるとはとても思えなかった。そんな人の元を毎日訪れるのは、僕だって気が重いし荷が重い。できればなるべく関わらずに済ませたい。

「最初でしたので、歌花様を混乱させたのでしょう。なにしろ一度目の浦島様とご容貌がとても似ておられますし・・・。けれど慣れれば、歌花様もお心を開かれるはずです。それは歌花様にとっても喜ばしいこと。貴方様にお心を開かれれば、道は開けるかもしれません。どうかお願いいたします」

 え~・・・と、僕としては戸惑うしかない。亜古弥さんに頭を下げられると、僕はどうも弱い。じいちゃんくらいの年齢の人に頭を下げられると、申し訳なくなるのだ。でも・・・。

「でも・・・乙姫様に追い返されるのでは・・・」

「そこは歌花様を説得いたします。それに、何より歌違えの間にお入りになれるのは貴方様だけ。歌花様も人恋しく思われているはずです。お近くでお話ができる方がおられれば、歌花様も嬉しいはず。どうかお願いいたします」

「は・・・あ・・・」

 なんとなく、押し切られてしまった。情けない。

 いくら亜古弥さんの頼みとはいえ・・・正直、気が重いことこの上ない。でも、しょうがない。それに、僕も今の乙姫様の状況を少しでも打開しないことには元の世界に帰ることさえできないのだ。ならば、少しは乙姫様と関わらざるを得ないわけだ。

 かと言って、ただ訪ねただけではこの前と同じになってしまう・・・。

 その時、あっ、と思った。

「あの、食事は」

「は?」

「食事は、僕の分も皆さんの分も、同じところで作られているんですか」

「え?ええ、はい、恐れ多いことですが、宮殿に住まう者はみな、同じ厨房で、同じ料理番が作らせていただいておりますが・・・」

「・・・・・・」

「樹朝臣?」

 ということは・・・。あのまずい食事をみんな食べているということか?

 それなら・・・。

「乙姫様の元へ行きます。けれど、その前に厨房へ案内していただけますか」

 ぽかんとする亜古弥さんに、僕は少しだけ微笑んだ。


厨房で2時間ほど過ごした後、乙姫様の元へ食事を運ぶと女官がやってきたので、僕も同行することを申し出た。そもそも僕が厨房にいることを驚いた女官は、いぶかしげに僕を見た。

「なぜここに浦島様・・・いえ、樹朝臣様が・・・」

「そんなことはいいですから。とにかく、僕も乙姫様の元へ一緒に行っていいですか」

「え?ええ、構いませんが・・・」

 地下の厨房から、階段を上がり乙姫の待つあの部屋まで行く。よくもまあ迷路のようなこの中を、みんな迷わずにスイスイ行けるなと感心してしまう。

 歌違えの間、とやらの部屋の前に着いた。あの、氷見とかいう少女がまたドアの前に立っていて、僕がいることに少々驚いたようだ。

「・・・なぜ、樹朝臣がここに・・・」

 もうすっかりその呼び名が浸透しているらしい。少し居心地の悪さを感じた。

「お食事を、乙姫様と共に取りたいと思いまして。いいですか?」

 一応「朝臣」の位を頂いている。簡単には断られないはずだ。

「・・・亜古弥様はなんと・・・」

「亜古弥さんには許可を得ています」

 僕が言うと、氷見は眉間にしわを寄せつつも下がった。

「・・・それならば良いでしょう。どうぞ・・・お入りください」

 ドアが開かれ、僕と、膳を持った二人の女官が暗闇の中へ入る。

 この世界自体が、僕にとっては異空間だが、歌違えの間はその中でも更に異空間だと感じる。ドアを開けた瞬間、暗闇の中は温度も下がる気がする。そしてその中で発光する四角い空間。水槽の中のように光る、乙姫の部屋。僕はいつか、小さいころ、熱帯魚を買いに店に父さんや母さんと行ったことを思い出す。ああ、ああいう店の電気を消したらこんな感じか、とふいに思った。

「歌花様、昼餉をお持ちしました」

 女官がそう言って張り出したガラスの小窓の台に膳を置くと、奥から乙姫がゆっくり出てきた。相変わらず怖いくらいの美しさだが、なんだろう、初対面の時にはその美しさに心奪われあまり分からなかったが、少し陰鬱に見える。頬も、桃色ではあるが全体的な顔色はなぜか青白いという印象だ。少なくとも、血色がいいとは言えない。だから余計人形のように見えるのだろう。そう、生気がないのだ。

「・・・もうそんな時間か・・・」

 そう言ったところで、僕がいることに気づいたようだ。乙姫の顔に緊張の色が走った。

「・・・!?そなた・・・なぜいる?昨夜、亜古弥からそなたがここにとどまるとは聞いたが・・・。わらわに用があるはずもなかろう」

 僕も少しずうずうしくなっていた。とにかく、この世界にもう少しとどまり、乙姫のために力を尽くすと決めたのだ。遠慮ばかりしていられない。

「亜古弥さんから話を聞き、もう少しここにいると決めたのです。それで・・・、勝手かとは思いましたが、料理を作る手伝いをさせてもらいました」

「・・・は?わけが分からぬ。ここに残ることを決め・・・料理を作った?一体なにを考えている?毒でも盛ったか」

「毒を盛るならもっとこっそりやるでしょう。堂々と料理を手伝ったりしません。それより、食べてみてくれませんか。ちゃんとできたか分からないし・・・良かったら一緒に食べませんか」

「・・・そなたと?一緒に食事・・・?」

「はい。僕はそちらへ入れるし・・・。一緒に何か話しながら食べましょう」

 そう言って笑うと、乙姫の顔の、なんだか張り詰めた力がふっと緩んだように見えた。

「・・・笑った顔も・・・岬によく似ているな・・・」

 乙姫はそうつぶやき、それからスッと顔をあげ、何かを決意したようにガラスのドアに歩み寄った。

 カチャリ、とドアを開ける。

「入れ。勝手に入られるのは好かない」

「・・・はい」

 若干でも警戒を解いたのは、やはり僕がその岬さんとやらに似ているからだろうか。

 少し複雑だったけれど、僕はガラスのドアの中へ足を踏み入れた。

「・・・お邪魔します」

 女官は張り出し小窓に二人分の膳を置き、礼をして出て行った。とたんに沈黙がわずかに重くなる。

「あ、えっと、乙姫様はお腹は空いていますか」

 僕はなんだか焦って言葉を紡いだ。

「お腹が空くときなどない。時間が来たから食べるだけだ」

 そう言って、乙姫は膳を卓の上に置いた。奥から椅子を一脚持ってくる。

「そなたの分の椅子だ。座れ」

「は、はい、ありがとうございます」

 そうか、召使いみたいな人がいる身分でも、この部屋の中には入れないから、こまごましたことは全部自分でやるしかないのか・・・。一生懸命椅子を運ぶ姿が、なんだか妙に可愛らしく映った。

 椅子に座ると、乙姫も隣で自分の椅子に座る。距離が近くて、僕は少しドキドキしたけれど、乙姫は顔色ひとつ変えない。二人でなんとなく同時に箸をとり、食べ始める。僕は乙姫の顔をそーっとうかがった。

 すると・・・、一口食べたとたん、大きな目が更に大きく見開かれた。それから無言でモグモグ食べるが、ご飯、お味噌汁、煮物と一口ずつ食べ終えると、ホーッと息を吐いた。

「美味しい・・・」

 そうつぶやいた。僕は自分の顔に笑みが広がるのが分かる。

「美味しい、ですか」

「うん。ご飯もお味噌汁も温かい。温かいだけでこんなに美味しいのだな・・・。このお芋も、いつも水っぽいのに今日のは違う。違うお芋を使ったのか?こんなに美味しいお芋は初めてだ」

 僕は少し得意になる。

「いえ、同じお芋です。煮る時間を縮めたのと、きちんと面取りもしました」

「メントリ?」

 乙姫がキョトンとした顔をする。

「あ、いや、良く煮るためのちょっとした工夫です。ご飯を炊くタイミングやお味噌汁を作る時間を少し工夫しました。料理番の方たちは、少し手際が悪かったんです。ちょっと言い添えるだけで、すぐに理解してくれました。工夫さえすれば、あとはプロの方たちですから、僕がどうこう言わなくても良かったんです」

「ぷろ・・・?」

「あ、いえ、厨房では長い間、作り置きとかのタイミングだったり、そういうちょっとした工夫がされていなかったんですね。それが普通だった。だから気づかなかった。なんでも、何かを少し変えるだけで物事が驚くほど良くなったりします。料理も、そうなんですね。僕はそれを、母や祖母から教わっていました」

「母君やおばあさまが・・・?お前は、料理人の家の子なのか?」

「ああ、いえ、違います。母も祖母も本職の料理人ではないけれど、料理がとても上手なんです。さっき言った面取りとか、灰汁抜きとか、僕は小さい頃から教わっていました」

「・・・すごいな。料理人ではないのに、料理ができるのか・・・」

 乙姫は、単純に驚いているようだった。それからまたご飯を口に運んだ。

「・・・うん。美味しい・・・」

 そして、黙ってパクパクと食べ始めた。僕も食べ始めた。うん、一応それなりにできている。良かった、とホッとする。


 綺麗に食べ終わり、それから二人でピッチャーの水を飲んだ。

「本当に美味しかった。お前はすごい人間だったのだな」

「いえ、この程度、少し教われば誰にでもできます。それに・・・」

「?」

「乙姫様に美味しい料理を食べてほしかったので」

 そう言うと、乙姫は少し首を傾け、不思議そうに僕に言った。

「わらわのためか?」

 ドキッとした。その表情は、本当に無垢で愛らしかった。

「は・・・はい」

 直球の質問に、僕は緊張して答えた。こんな顔で聞かれたら、誰だってドキドキする。

「そうか・・・ありがとう」

 そう言って、乙姫が微笑んだ。

 今度こそ、初めて本当に僕に向かって、花がほころんだ。ああ、この顔が見たかったんだ、と思わせる、優しい微笑みだった。

「もう一度・・・お前の名前を教えてもらえるか」

「え、あ、はい。樹です。イツキ」

「・・・ありがとう。樹」

 そう言って、もう一度微笑んだ。

 初めて、乙姫の氷のような仮面の下の素顔を見たような気がした。

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