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水底の姫君  作者: 市村いお
3/10

海の中のアマテラス

僕はまた白い部屋にいた。たしか「風の間」というところだ。

 白い椅子に座り、目の前には亜古弥さんが難しい顔をして座っている。この人の前にいると、僕はどうしたって緊張してしまう。とにかく威厳というものが半端ないのだ。この人を、さっきの乙姫は「亜古弥」と呼び捨てにしていたのだから、乙姫の地位はこの世界ではどれほどの高さなのだろうと思ってしまう。

「――それで」

 亜古弥さんが言葉を切り出し、僕はビクッとする。

「は、はい」

「――私に聞きたいこととおっしゃるのは」

「すべてです」

 僕は緊張しながらも答える。

「この世界のこと、成り立ち、それから皆さんのいう『浦島』とは誰のことなのか。そして『結界』とは何のことか。とにかく僕は、何から何まで分からないのです。その僕に、何かを期待されても僕は何もできないし分からない。だからまず教えてほしいんです」

 亜古弥さんは居住まいをただし、そして頭を下げた。

「失礼をいたしました。浦島様がお二人目ということもあり、事情をお分かりかと思い込み、ことを急いでしまいました。非礼をお詫びいたします」

「いえ」

「――何からお話すれば良いか――まず、この世界は、貴方様の世界からは水の中を通ってしか来られない異空間です。完全に水の中とは言えませんが、貴方様の世界からはあの白い入り江を通り水の中に入らなければこの世界へは来られません」

「その前に、僕はそもそも祖父の家の蔵の中にいて、箱の中の煙の中に引っ張りこまれたのですが」

「ああ、それは浦島様のために用意されたこの世界への『扉』です。そうですね・・・異空間というならば、白い入り江そのものも貴方様からすればすでに異空間と言えるでしょう。けれど、浦島様でない方が箱を開いても煙は出ないでしょう。『扉』は人を選びますから」

「人を選ぶ・・・」

「はい。つまり、貴方様があの箱を開き、煙が出たということは『扉』が貴方様を認めたということ。選ばれた方にしか、あの白い入り江に来ることはできないのです」

「で、僕が選ばれた・・・」

「はい。そして百年以上の時を経て、地上からこの世界へ『二回目の浦島』である貴方様が現れたのです。ですが・・・貴方様の世界と我々の世界では時の経ち方が違います。おそらく、貴方様の世界ではもっと長い年月が流れていたことでしょう。千年か・・・あるいはもっと・・・」

「でも、乙姫様はどう見ても十四、五歳ですよね?この世界の人は、不老不死なのですか?」

「それに関しては・・・完全に不老でもありませんし、完全に不死でもありません。個人差があります。わたくしはずいぶん老いているでしょう?」

 そう言って、亜古弥さんが柔らかい笑みを浮かべた。

「確かに歌花様は十四歳でほとんど成長が止まっていますね。まあ歌花様は特別としても・・・彩己も、あれで七十歳は超えているでしょう」

「彩己が!?」

 驚いた。どう見ても小学生くらいの彩己が・・・個人差があるというのは本当らしい。

「それで・・・最初の『浦島』である方が、呪いである結界を結んだというのは・・・」

「・・・それについては、まず乙姫の能力について話さなければなりません」

「能力・・・あ、歌で世界を繁栄させる、とか・・・」

「乙姫の『歌』の力は絶対です。数日に一度設ける儀式の中で、乙姫が『歌う』ことでこの世界は永らえます。大気が作られ、作物は実り、家畜が育ち、そして我ら海の民の命も続いてゆく。――地上には太陽があるでしょう?しかし海の世界にはない。その、いわば太陽の力に代わるのが乙姫の『歌』なのです。――それ故、乙姫はこうも呼ばれます。『水底の天照(アマテラス)』と」

「『水底のアマテラス』・・・」

 アマテラスって、神話の・・・確か太陽神、天照大神のことか?乙姫がそんな絶対的な存在だなんて・・・。僕には想像もつかない壮大な話に、もはやついていくのがやっとだった。

「でも、今は歌えないって・・・」

「乙姫にも休息は必要です。そのために『歌違えの間』があります。乙姫の歌の力が封じられる、乙姫が休まれる唯一の場所。けれど・・・」

「そこから、出られないって」

「謀反です」

 亜古弥さんの語調が厳しくなった。

「謀反・・・!?」

「一人目の浦島が、海の民を殲滅させるために乙姫を『歌違えの間』に幽閉し、結界を張ったのです」

「でも・・・乙姫様はその人のことをかばっている感じでした」

 僕の言葉に、亜古弥さんの表情が微かにこわばった。しかしそれは一瞬で、すぐに緊張を解いた。――何かが引っかかった。

「それは――恋ゆえの愚かさでしょう。歌花様は一人目の浦島に恋をしていた。だから必死でかばうのでしょう。愚かなことです。乙姫が一番気にかけなければいけないのは海の民の平穏ですのに」

「でも、幽閉されて百年以上経っているんですよね?でも、この世界は滅びてないですよね」

「――はい。こんなことを申し上げるのはわたくしとしても愚の極みなのですが、乙姫の『力』は我々の想像の遥か上をいくほどに強いものでした。乙姫のこれまでの『歌』の力により、百年以上、この世界は永らえてきました。ほとんど奇跡です。過去の遺産でここまで世界が保たれるとは。――しかし」

 そこで亜古弥さんは一度言葉を切った。

「――花が、枯れ始めたのです」

「花?」

「『恒龍(こうりゅう)』という花があります。青い、美しい、八つの花弁を持つ花。これはこの世界の化身とも言うべきもの。この花が咲いている限り、この世界が滅びることはないと言われてきました。もちろんこの花も、乙姫の『歌』の力により咲き続けてきたのです。しかし、百年以上たっても、『恒龍』は咲き続けてきました。我々は、この花の枯れる様子のない様に、次第に安心し始めました。『恒龍』は咲き続けている。だから大丈夫だと。しかし十数日前、花の世話係がわたくしのもとへ飛んできました。――『恒龍』の三枚の花弁が枯れていると」

「世界の化身である花が枯れた・・・」

「そうです。この世界が滅びる前兆とも言える出来事です。そこでわたくしたちは貴方様を呼ぶことにしたのです」

「僕を?」

「一度目の浦島と同じ能力を持つ浦島をもう一度この世界へ、と。結界を解き、乙姫を解き放つ者を、と。そして貴方様が現れた」

「――・・・」

 とんでもなくスケールの大きな話に、もはや僕は引いていた。同じ能力も何も、僕にはなんの能力もない。歌の力で世界が永らえる。海の中のアマテラス。海の民の殲滅を企んだ『一度目の浦島』。そして世界の化身である花。

 ――どれもこれも、とっくに僕のキャパを超えている。聞けば聞くほど、僕にできることは何もないと思い知る。

 話を聞けば、少しは僕にできることも有るかもしれない。そんな微かな思いを、完全に吹き飛ばされた。――僕には、無理だ。

 しかし、そんな僕の思いを読み取ったかのように、亜古弥さんは静かな声で言った。

「すぐにどうこうしてほしいとは言いません。けれど、煙の『扉』が貴方様の前で開かれた以上、白い入り江に貴方様が現れた以上、貴方様にはやはり何らかの力があると思うのです。どうか、いま少しこの世界にとどまり、お力を貸していただけませんか。現に、貴方様は『歌違えの間』にお入りになることができた。なんの力もない者が、あの部屋に入ることができるとは思えません。貴方様には、ご自分でも気づいていない何かがあるのです。それが何か分かるまで――どうか、お願いいたします」

 そう言って、亜古弥さんは改めて頭を深く下げた。

 何か力になれるなら、僕だって力になりたい。でも、こんな大きな話を聞き、尻込みするなという方が無理だろう。

 ――それでも、今目の前で頭を下げる人の前で、それを突っぱねる真似もできなかった。

 僕には力がない。そんなことは僕が一番わかっている。それでも、亜古弥さんは藁にも縋る思いで僕に助けを求めた。ならば、やるしかない。この世界にもう少しとどまって、僕に何かできることはないか考えてみよう。

 ――どうせ元の世界に戻ったところで、またあの絶望の日々が待つだけだ。じいちゃんたちには少し悪いと思うが、元の世界への未練もそれほどなかったのが僕の中で何かを決めさせた。

 僕を、疑いを持ちつつも頼りにしてくれる人がいる。そんなことも、今の僕には救いだった。必要としてくれる人がいるなら、とどまるのも悪くない。もし、最終的に失望される未来が待っているとしても。

「――分かりました」

 僕は答えていた。

「僕には何もできないかもしれない。それでも、僕がこの世界から『呼ばれた』のなら、なにか意味があるかも知れない。その意味が見つかるまで、この世界にとどまってみようと思います。でも、ひとつ言っておきます。結局、何もできないかもしれない。確固たる約束はなにもできない。――それでも、いいですね?」

 その言葉に、亜古弥さんは静かにうなずいた。

「構いません。あとの責任はすべてわたくしがとります。貴方様に特別なことは何も求めません。いてくださるだけで良いのです」

 そう言って、亜古弥さんはもう一度、今度はひざまずいた。

「海の民のために、どうか」

 それ以上は、もう言葉にならないようだった。

 ひとつの大きな決断だった。この世界にとどまる。それが意味することを、僕はまだ何も知らない。それでも、とどまると決めた。だから、しばらくは、この世界のために生きよう。

 静けさばかりが漂う「風の間」の中で、ひとつ、大きな約束が交わされた。


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