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水底の姫君  作者: 市村いお
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歌花

今いた大きな部屋を出て、迷路のような建物の中を延々歩き、少し歩き疲れたと感じたところで、ひとつの扉の前に来た。なんてことない白い扉なのに、何故か異様な雰囲気が漂っていた。ドアの前には僕と同じくらいの年の少女が一人立っていた。綺麗な少女だ。

「こちらです」

「この中ですか」

 少し気味が悪いな、と思ったが今更後戻りもできない。

氷見(ひみ)様」

彩己がドアの前の少女にそう言うと、少女はうなずき、ドアの錠に鍵を差し込んだ。

 ギイ、とドアが開くと、中は真っ暗だった。蔵の中に入った瞬間を思い出すが、あれより遥かに暗い。年中真夜中のような空間だった。その中に、やがて光があることに気づいた。夜に囲まれたそこだけ昼間のような、そこには大きな大きな水槽があった。いや、水槽じゃない。真っ暗な部屋の中に、ガラスに囲まれた大きな空間があった。ガラスの空間の中だけ発光しているようだ。作られた夜の中に、作られた昼がある。そんな印象だ。ガラスの空間は十畳はありそうだ。その中、中央に黒い椅子があり、小さなテーブルがあった。そして、そこに十四、五歳くらいの一人の少女が腰かけていた。見た瞬間、僕は目を疑った。人形かと思った。今はアプリで顔なんか簡単に加工できる時代だけれど、どんなに加工してもここまで人間味のない美しさにするのは不可能じゃないかと思う。バランス良く大きな黒い瞳は宝石のようだ。白く通った小さな鼻は形がよく、紅い唇はいつか見た南天の実のような色と小ささだった。陶器のような頬にほんのり差す桃色は微かに朱を刷いた水墨画を連想させる。肩のところで切りそろえられた黒髪は艶やかに輝き、けだるげに顎を置いている手は細く、あまりにも白かった。遠目からでも、長い睫毛が目に影を落としているのが見える。その人間味のない美しさにゾクッとした。本当に美しいものを見たとき、人は感動する前に鳥肌が立つのだ。少なくとも僕はそう感じた。怖い。そんな風にも思った。

やがて少年――彩己が部屋の中央に設えられた小窓のようなところの前に立った。

歌花(かか)様」

 一拍おいて、少女が小窓の方を気怠げに目をやる。その眼差しすらゾクリとする妖艶さだった。少女はゆっくりと立ち上がり、小窓の前まで滑るように歩き、その前に立った。

「彩己・・・?」

 わずかに低い、かすれた声だった。

「浦島様をお連れいたしました」

「・・・・・・!」

 少女の顔に初めて生気が宿ったように感じられた。人形が人間になった瞬間を見たかのような。

「岬が・・・?」

 その次の瞬間、少女が滑らせた視線が僕をとらえた。無表情だったその顔が、僕を見た途端、ゆっくりとほどけていくように、花が少しずつほころぶように、歓喜の顔へ変わっていった。

その美しさに、僕は深く魅了された。

 学校でも、わりと可愛い女子から告白されたことも何度かあった。でも、心を動かされたことは一度もなく、ひょっとして僕は男が好きなのか?と真剣に悩んだ時期もあったが、男を好きになったことも結局なかった。クラスメイトの男子たちが、グラビア雑誌なんかを広げて、どの子が好みか、という話題で盛り上がった時も、僕はなんだかあまり盛り上がれなかった。この子かな、と適当に選んで会話に混ざっていたけれど、どの子も似たり寄ったりで、心を動かされることは一度もなかった。どんな子が好みか、と聞かれても、自分の好みすらはっきりしなかった。

 でも、この少女に感じた感情は、今までにないものだった。氷のような表情が一瞬にして溶けて花になった瞬間。それはまるで奇跡を見ているようだった。

 少女は恐る恐るというように小窓越しに僕に近づいた。

「岬・・・?」

「え?みさ・・・?」

 みさき?誰だそれは?

「岬だろう?生きていたのだな。逢いたかった。逢いたかった、岬」

 綺麗な瞳に涙がにじんでいる。その涙にすら魅入られそうになった。

「みさき、さん?僕は、樹です。木村樹。誰かと、間違えていますか?」

 やっとそれだけ言えた。その瞬間、花がしぼんだ。少女の顔から笑みが消え、輝いていた瞳には膜がかかったかのような虚ろなものになった。

「岬ではないのか」

 少女の失望が痛いほどに伝わる。でも僕は自分を偽ることはできない。僕は岬という人ではないのだ。

「似ているんですか?僕と、その、岬さんという人は」

 やっとそれだけ聞けた。

「・・・耳のほくろの位置まで一緒だ。でもそなたは岬ではないのだな。ならば用はない。下がれ」

 少女の瞳は今や氷のようだった。彩己がとりなすように言う。

「歌花様。この方は二人目の浦島様です。結界を解いてもらえるんですよ。歌花様が自由になるために、この方の力が必要なんです。受け入れてください」

 その瞬間、少女はビクッと肩をこわばらせた。

「結界を・・・?」

「そうです。この牢獄のような暮らしから抜け出せるのです。素晴らしいことではありませんか」

 彩己の言葉に、少女は怯えたような表情になった。

「お前」

 少女が僕をにらんだ。

「結界を解けるのか」

「え・・・いえ、僕はそんな方法知らないし、結界ってなんのことですか」

 正直に口にした。本当に分からないのだ。結界がそもそもどこのなにを指しているのかも。

「彩己。この者は何も分からないと言っている」

 彩己も困っているようだった。

「けれど、亜古弥様がこの方が確かに浦島様だと」

「亜古弥などに何が分かる。本人が何も分からないと言っているではないか。結界を解けるのは岬だけだ。亜古弥にもそう伝えよ。得体の知れないものなどをよこすなと」

 僕は蚊帳の外だった。何も分からない、得体の知れないもの。この少女にとって、僕はそういう存在らしい。素直に悲しかった。

 彩己が、そこで僕の方を向いた。

「浦島様、この部屋の中へ入れますか」

「彩己、無駄なことは――」

「入れれば、この方が浦島様であるというひとつの証明になります」

 彩己はひとつの賭けに打って出たようだったが、僕は相変わらず状況から置いてけぼりだった。

「浦島様、そこの扉から部屋の中へお入りください」

 ガラスの空間に、ガラスの扉。ここから中へ入れる・・・?

「いや、でも、え、いいんですか?」

「・・・入ればいい。入れるものなら」

 少女が投げやりに言った。

 僕は少し緊張しながら扉の取っ手を握り、ガチャ、と扉を開けた。

「開いた・・・!」

「!?」

 彩己と少女が同時にびっくりしているのが分かった。扉を開けただけで、なぜ?

 部屋に入ると、少女との間にしきりはなくなる。少女は怯えたように後ずさり、卓子の上に置いてあった短刀をとった。

「それ以上近づいたら、斬る」

 そう言いながらも、短刀を持つ手は震えている。扱い慣れていないのは一目瞭然だ。

「近づきません。だから刀を下してください。あと、この部屋に入るのはどんな意味があるんですか?僕は何をさせられているんですか?色々、教えてもらえませんか?」

 僕が言うと、少女の震える手から短刀が落ち、少女は膝をついて嗚咽をもらし、泣き出した。胸が痛んだ。慣れない短刀で身を守ろうとしていた心もとない姿。毅然とした姿で、必死に自分を守ろうとしている。本当に、ギリギリの状態で。それだけは、分かった。そしてそれが、恐らく自分のためではないことも。

「お前は岬ではない。岬にはもう二度と会えない。ならばわらわは何のために生きている。お前が二人目の浦島だというなら、わらわを殺せばいい。そのために来たのだろう」

 涙をぬぐいながら、少女は震える声でそう言った。そして僕はやはり何のことか分からない。

「あなたを殺す気なんて僕にはありません。僕はあなたの敵じゃない。それだけは分かってください」

 僕の必死の訴えも、少女にはあまり届いていないようだった。力なく座り込み、涙を流し続けている。ふと、部屋の外を見ると、彩己が困ったような顔をしていた。

「君、何か知っているの?こっちに来てちょっと教えてもらえない?」

 僕の言葉に、彩己はためらい、そして言った。

「・・・わたくしはその中に入ることは恐らくできません」

「え、なんで」

「そこは結界の中だからです。結界の中に入れるのは乙姫の歌花様、海龍王、そして浦島様だけです。わたくしたち海の民は入れません」

「そんな・・・。あの、結界って?」

「一人目の浦島様が張ったものです。この結界により、歌花様はこの『歌違えの間』から出られなくなりました。いわば呪いです」

「呪い・・・」

 つぶやく僕にうなずき、彩己は続けた。

「この海の民の世界は乙姫様の『歌』の力に守られて繁栄し、永続します。けれど唯一この『歌違えの間』では『歌』の力は消されます。それを知っていながら、一人目の浦島様は歌花様をここに閉じ込めたのです。以来百年以上、歌花様は『歌うことのできない乙姫』としてここに封じ込められているのです。結界を解き、歌花様をこの部屋から出し、世界に『歌の力』を吹き込まなければならない。そうしなければ、やがてこの海の民の世界は崩壊し、消滅します」

「なんだって・・・?」

「はっきり申し上げますと、乙姫の歌の力なしにこの世界が百年以上かろうじて持ちこたえているのはもはや奇跡なのです。でももうこれ以上は・・・無理です。一刻も早く、歌花様が『力』を取り戻さなければならない。そのために、貴方様に来てもらったのです」

「ちょっと待ってよ。なんでその・・・一人目の浦島、とやらはそんな呪いを残して、乙姫様をこの部屋に閉じ込めたの?どんな理由で?」

 僕がそれを彩己に尋ねた瞬間、乙姫が口火を切った。

「そなたには関係ない!岬に罪はない!彩己・・・二度と呪いだなどと言うな。この私が許さない」

 大きな目で乙姫にギラリとにらまれ、彩己は思わず口をつぐんだ。

「・・・樹、と言ったな」

 乙姫が僕に言った。

「は・・・はい」

「結界の解き方を知らないというのは本当か」

「はい、本当に知りません」

「・・・それならいい。早く陸の世界へ帰れ。そなたはもう用済みだ」

 そう言って、乙姫はスッと立ち上がり、くるりと向きを変え、部屋の奥へ引っ込んでしまった。その場に取り残された僕は、仕方なくそのガラスの部屋を出た。

「彩己、ごめん。僕は本当に何も知らないんだ。確かに、僕は用済みだと思う。もう、元の世界へ帰してくれないか」

「・・・亜古弥様にお聞きしないと。僕では判断できません」

 すまなそうにそう言ったあと、彩己はうつむいてしまった。彼も僕の力のなさにがっかりしているのだろう。

 歌の力により繁栄する世界?そんなの聞いたことがない。もし本当だとしたら、なおさら僕がどうこうできる世界ではない。それに・・・閉じ込められたのが本当なら、なぜ乙姫はその『一人目の浦島』とやらをかばうんだ?憎んで当たり前のはずなのに。

 ともかく、今の僕のこの世界に関する知識だけではどうすることもできない。

 さっきの、亜古弥さんにお願いしよう。まずはこの世界のことを教えてくれないと、僕にできることは何もないと訴え、その上で、僕が帰るべきか、とどまるべきかを決めよう。

 

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