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水底の姫君  作者: 市村いお
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四季の部屋

 その後も僕は明日啼鳥の世話をひたすら続けた。

 明日啼鳥は今も苦しそうに啼く。聞いているのが辛い。でも、逃げたらダメなんだ。

 歌花に会いに行こう。ある時、僕はそう思った。辛そうだった歌花に会うのを、僕も自然と避けていた。でも、もう限界だった。会いたい。会いたい、歌花。


 明日啼鳥の世話をして三週間ほど経ったころ、僕は歌違えの間に向かった。向かっている間に、実感した。歌花がどれだけこの世界で高位にある人だとしても、僕にとっては、ただ、好きになったたった一人の女の子なんだ。それは乙姫であろうとクラスメートであろうと変わらない。ただ一人の、この世界で一番大切な人。

 思えば、父さんと母さんが亡くなってから、僕はずっと泣けないままだった。でも、この前、僕は初めて泣いた。それは父さんと母さんのためではなく、歌花のための涙だった。父さん、母さん。僕はあなたたちのことを思って泣きたい。悲しみはずっとくすぶった火のように心の底にある。でも、その前に、僕は救いたい女の子がいるのです。だから、あなたたちのために泣くのを、もう少し待ってください。歌花を救って、初めて父さんと母さんのために泣く資格があると思うから。そして父さんと母さんのために泣くとき、隣に歌花にいてほしいと思う。僕を救えるのは、きっと歌花だけなんだ。そして――歌花を救えるのも、僕だけだ。そう思いたい。他の誰でもない、僕が歌花を救うんだ。僕が歌花を笑わせて、幸せにするんだ。いつの間にか、想いは地中の中から植物が萌え出るように、ここまで育って大きくなっていた。


 歌違えの間の前には、いつものように氷見が控えていた。

「――樹朝臣様。乙姫は誰にも会いたくないと――」

 扉の前で制されたが、僕は引かなかった。

「分かっています。でも、会わせてください。今、会っておかなければならないと思うから来ました。お願いします」

「――わたくしはお止めしました。それでも――お会いになるのですね」

「氷見のことは責めさせません。僕が強引に入ったと…そう言ってかまいません」

「――では…どうぞ」

 改めて見ると、氷見は歌花とは別の種類の美しさがある。儚げな歌花からはあまり温度を感じないが、氷見はその名の通り氷のような張り詰めた美しさを持っている。歌花と違って、一目で目を引くタイプではないけれど、じっと見るとその美しさに気づく。切れ長な目は一瞬の印象ではキツさしか感じないけれど、よく見るととても蠱惑的だ。でも――思い出す。瑠璃ちゃんを見た時の憎悪に光った目を。あの時はそれどころではなかったけれど、思い出すと背筋が凍りそうな冷たい憎悪だった。あの時、芳葉さんはなんと言っていたか――思い出せない。何か重要な言葉を言っていた気がするのに……。でも、とにかく今は歌花に会うのが先だ。


 扉を開けると、水槽のような部屋は相変わらず闇の中で発光しているようだ。歌花の姿がない。階下の寝室にいるのだろうか。

「歌花?いますか?」

 僕はまず部屋の外から問いかけた。僕は歌違えの間に入れる唯一の人間だ。それでも、勝手に入るのはためらわれた。

 しばらくすると、奥の階段から上がってきた歌花が姿を見せた。

「…歌花!」

 僕は思わず喜びとともにそう口にした。好きな人の姿を見るだけで、こんなに嬉しいなんて。

 けれど、歌花はビクッとしたように肩を震わせた。目に見えて、怯えていた。胸が冷たくなる。僕を見て、こんなに怯えるなんて。仕方がないことだとしても、傷ついた。

「樹…。…誰にも会いたくないと氷見に伝えておいたはずだが…なぜここにいる」

「氷見を押しのけて入らせてもらいました。あなたに…会いたかった」

「見るな」

 歌花は扇で顔を隠した。

「今のわらわは…すごく醜い。運命への憎悪でいっぱいだ。運命ではなくわらわが悪いのは分かっているのに…。自分以外の何かを憎みたくてしょうがない。醜い。醜いのだ、樹…。見ないで……」

 僕は黙って歌違えの間の扉をガチャリと開けた。扇で顔を隠したままの歌花が気配を感じて後ずさる。

「隠さないで。歌花。顔が見たい」

 歌花は首を振った。僕はゆっくりと歌花に近づく。

「醜くない。醜くなんかない」

 歌花はしゃくりあげていた。首をブンブン振り続ける。それでも僕は近づくのをやめない。

「あなたは綺麗です、歌花」

 歌花の目の前まで僕は来ていた。扇をゆっくりと取り上げる。涙に濡れた歌花の顔は、それでも愛らしかった。

「醜くなんか、ないですよ……」

 そうして、ゆっくりと歌花を抱きしめた。

「何を憎んでも、あなたは悪くない。運命があなたを振り回しているのは本当だ。それでも、あなたは自分が悪いと思っている。自分を一番憎んでいる。そんなあなたが、醜いわけがない……。もう、自分を苦しめるのはやめてください。お願いだから……」

 抱きしめる手に力を込める。歌花の手が僕の背中に周り、しがみつくように力が入るのが分かる。歌花がこんな風に僕を求めたのは初めてだった。僕の胸の中で、歌花はずっとしゃくりあげている。辛かっただろう。瑠璃ちゃんが現れて、また歌花は振り出しに戻るように一から自分を責め続けていたのだ。育てられなかった小さな娘。救いたいのに歌えないために救うこともできずに堕ちてゆく世界。自分に失望しているであろう海の民たち。そのすべてを、自分のせいだと……。

「歌花、僕はあなたを愛しています」

 静かにそう言って、ゆっくりと身体を離す。歌花の顔を見た。そして、そっとその唇に口づけた。

 歌花はまだ泣いていたけれど、離れはしなかった。

 それからしばらく歌花を抱きしめ、歌花が落ち着くまで髪をなで続けた。



 ようやく、歌花は少し泣きやみ、赤くなった目に少し笑みを浮かべ、言った。

「樹…そなたにわらわの秘密を見せよう」

「秘密?」

「こちらへ」

 そう言って、階下へ階段を降り始めた。僕は黙ってついていく。

 階下は歌花の寝室だが、歌花は寝台の横を通り過ぎ、奥にある黒い扉の前で止まった。

「ここは唯一の乙姫のための特権の部屋だ。今まで誰にも見せなかった…岬にも」

「なんの…部屋ですか?」

「入れ」

 そう言って、歌花は黒い扉をゆっくりと押し開けた。

 光が溢れる。

 歌花に続いて部屋へ入ると、そこは濃密な香気が立ち上り、一瞬光でなにも見えなかった。

 けれど目が慣れてくると、ようやくその濃密な空気の正体が分かる。

 花の園だった。

 八畳ほどの部屋に咲き誇る様々な花たちが、それぞれの香気をくゆらせている。僕は唾をごくりと飲み込む。部屋の中は、明らかに異次元だった。光源もどこにあるのか分からない。

「歌花…ここは」

「ここは四季の部屋だ」

「四季の部屋…?」

「四季の花が一年中枯れることなく咲いている部屋だ。わらわしか…乙姫しか知らない部屋だ。驚いたか?」

「…驚きました」

 本当に、驚いた。これだけ花があると目にうるさくなりそうだが、見事に調和がとれた状態で咲き誇っている。それに、街に咲いている花は僕の知らない世界の花々だったが、ここのはほとんど僕が知っている、陸の世界の花だ。花の好きだった母さんを思い出す。ここは、この世界の中でもしかしたら最も特異な空間なのではないだろうか。乙姫だけが知る特別な部屋。その時、この世界でいかに乙姫という存在が特別なものであるか、改めて実感した。

「気分がめいるとここへ来るのだ…綺麗だろう?」

 歌花が今日初めてちゃんと、少しいたずらっぽく笑った。さっき泣いた名残で、まだ鼻の頭が赤い。

「綺麗です…すごい…本当に色々な季節の花が咲いていますね…」

 この花々が、今までどれほど歌花の心をなぐさめてきたのだろう。そう思うと、少しだけ救われた気がした。

「桔梗に…キンセンカ…クチナシは匂いがすごいな。センリョウの赤い粒は可愛い」

 僕が見まわしながら歩くと、歌花はポカンとして言った。

「樹は花に詳しいのだな。わらわは花の名前も知らない」

「亡くなった母が大の花好きだったんです。趣味がガーデニング…花を育てることだったので」

「そうなのか?樹の母君は花を育てておられたのか…すごいな」

「はい、だから花言葉にも詳しいんですよ」

「花言葉?」

「その花が意味する言葉です」

「そんなものがあるのか?」

 歌花が目を見開いた。

「はい、まあ人間が勝手に作ったものなんでしょうけれど…。僕の世界では花言葉を大事にする人も多いんですよ。あ、これ、エリカの花。この花言葉は「裏切り」という意味もあるんですよ」

「裏切り!?この愛らしい花が?」

「花からしたらいい迷惑ですよね」

 僕も思わず笑う。

「でも、綺麗なものもあるんですよ。これ、向日葵は「あなただけを見つめている」。胡蝶蘭は「幸福が飛んでくる」。ナデシコは「純粋な愛」。そう思って見ると、新鮮でしょう?」

「へえ…面白いな。それに…なんだか素敵だ。花言葉か…。樹は物知りだな」

 その後は、歌花が次々にこの花の花言葉は?と聞いてきた。僕は記憶を総動員して教える。

「これは?」

「菊です。――「あなたを愛しています」――」

 僕がまっすぐ目を見てそう言うと、歌花は顔を赤くして、慌てて他の花に目を向ける。なんだかはぐらかされたみたいだ。

「――こっちは?」

「桔梗、母の好きな花でした。「変わらぬ愛」です」

「この青い花は?」

「それはワスレナグサ。「私を忘れないで」です」

「『私を忘れないで』……」

「歌花?」

「あ、ううん、こっちのは?」

「アマリリス、「輝くばかりの美しさ」。歌花みたいな花です」

 僕が笑って言うと、歌花はまた顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。

「…樹の言葉は時々信じられない」

「ひどいなあ。本気なのに」

 僕が言うと、赤い顔のまま歌花がにらむ。そんな顔すらただただ愛らしい。

 それにしても、母さんが花好きで今度ばかりは助かった。歌花の花言葉への興味は思ったより深く、花の園中の花言葉を聞きそうな勢いだった。もし、元の世界へ戻れたら、僕もガーデニングをやろうかな。父さんと母さんが亡くなってから、僕は初めて未来のことを考えられた。それが素直に嬉しかった。でも…元の世界に戻った時…隣に歌花はいるんだろうか?――いてほしい。強く思う。歌花に、隣にいてほしい。それがどんなに不可能なことだとしても。


「歌花。あなたを救う方法を、考えます」

「樹…」

「そんな心細い顔をしないでください。僕はそんなに頼りないですか?」

 僕が笑って言うと、歌花は顔をゆがませた。

「そんなことはない。ただ…」

「ただ?」

「わらわを救おうとする者は、不幸になる。岬だって…。わらわは疫病神だ。大切な人には、もうわらわに関わらせたくない…」

「僕は岬さんじゃない。歌花も疫病神なんかじゃない。それを証明して見せます」

「……」

 黙ってしまった歌花の額にそっと口づけた後、僕は歌花の目をまっすぐ見て言った。

「もう一度、亜古弥さんの元へ行きます。そして、もう少し解決策を探ります」

 明日啼鳥の世話は、直接的な解決にはならなかったけれど、それでも、歌花の苦しみを知るには十分すぎるものだった。他にも、何かあるかも知れない。歌花を知るためにできることが。明日啼鳥は、それを僕に教えてくれた。

「樹…危険なことはしないでくれ」

「大丈夫です。自分の身を守りながら、あなたのことも守ります」

 今、僕に何かあったら、歌花を救える人がいなくなる。だから自分のことも守ると決めた。歌花のために。


 またすぐに来ると約束をして、歌違えの間を出る。と、氷見が鋭い目でこちらを見た。

「…氷見?」

 僕が言うと、耐え兼ねたように氷見が声を絞りだした。

「…役立たずの乙姫と、『二度目の浦島』の分際で…」

「…え?」

 静かに、抑えた声で氷見が言った。

「これ以上は我慢ならぬ。お前たちさえいなければ、歌花の妹であるわたしが乙姫だったかも知れぬのに…」

「妹!?」

 本当にびっくりした。てっきり、ただの、いや、少し位の高い侍女、くらいに思っていた氷見が、歌花の妹…!?

「二度もわたしの邪魔をし、挙句の果ては瑠璃までが…。すべては忌々しい『媛宮制度』、そしてお前たちがこの世界に現れたせいで…」

「『媛宮制度』…?」

 その言葉を確認しようとしたその時、腹部に鈍い痛みを感じた。刺された、と気づいたのは一瞬あとだった。お腹には、短刀が突き立ち、真っ赤な血がしたたっていた。

「……っ」

 めまいがし、ガクン、と膝から崩れ落ちる。

「…お前にいてもらっては困るのだ」

 僕を刺した氷見の声が遠くに聞こえる。

「乙姫の座はわたしがもらう」

 その言葉が、耳に残った最後だった。

 ――あとはただ深い深い闇の中に、ゆっくりと落ちていった。再び目が覚める時がくるかも分からぬままに――。

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