転章 明日啼鳥が歌う歌
泣き疲れて眠ってしまった瑠璃ちゃんにそっと布団をかけ、僕は部屋を出た。腹の底から怒りが湧いていた。苦しみ、泣くのを我慢していた歌花。そして長い苦しみに耐え切れず泣き続けた瑠璃ちゃん。これ以上、もう泣かせたくない。あの悲しい母娘を。運命に引きずられ苦しみ続けたあの母娘を、僕が救いたい。歌花が何をした?瑠璃ちゃんになんの罪がある?なぜあの二人がそんなにも苦しまなければならない。
こんなにも明確な意思を持って『風の間』に来たのは初めてかもしれない。門番に伝え、部屋へ入れてもらう。亜古弥さんを待つ間に、少しでも気を落ち着かせなければ。
「樹朝臣様。いかがされましたか?先ほどお会いしたばかり――」
「亜古弥さん。僕に力を貸してください」
「――?樹朝臣様…何を…?」
「歌花が何をしたというのです。陸の人間に恋をしただけでしょう。なぜあんなにも苦しまなければならないのですか。海の民の世界のために歌い続けてきた者へのこれが報いなのですか。――瑠璃ちゃんは?ただ生まれてきただけだ。人並みの幸せを望むことさえ許されませんか」
僕の言葉に、亜古弥さんは虚を突かれたかのようだった。
「朝臣様…」
「これ以上我慢できません。僕には何の力もない。でも、僕にできることだってあるはずだ。教えてください。僕にもできることを。あの二人を――救いたいのです」
僕の言葉に、亜古弥さんは少し目を伏せ、そして強いまなざしで僕を見た。
「――お力になれるかは分かりませんが……それならばいらしてください」
そうして部屋を出た亜古弥さんは、門番に一言告げた。
「一時宮城を出る。私と樹朝臣様のお衣装を用意してくれ。なるべく目立たぬものを」
「――かしこまりました。すぐに」
それだけ門番に告げ、亜古弥さんはまだ部屋にいた僕に向き直った。
「今から『媛ノ祠』に参ります。お行きになったことは」
「あ…芳葉さんが連れていってくれました。特にこれといったものはないですよね。小さなお社くらいで」
亜古弥さんはそれには答えなかった。
「…着替えが済んだら向かいましょう。護衛をつけたくないので、できるだけ質素な服に着替え宮城の裏から参ることにいたしましょう」
宮城の裏から出て、祠へ向かう。少し回り道になるのは僕でも分かった。が、仕方がない。僕はともかく、亜古弥さんほどの人が護衛をつけないのであれば、表門から堂々と出るわけにもいかないだろう。
それでも、祠には十分ほどで着いた。入口の岩のくぼみ、参道。この前来たばかりだ。よく覚えている。こんな短期間に二度も訪れる必要があるところとは思えなかったが、僕は亜古弥さんについて参道を歩いた。すぐに小さなお社に着く。
「――中へ」
「え?」
「この社の中へ。お見せしたいものがございます。――その前に、耳をおすませください。何か聞こえませんか」
「――?」
耳をすませたが、もちろん何も聞こえない。この前と同じだ。
「よく――耳をすませて。よほど集中せねばならないかと」
亜古弥さんが言う。僕は不思議でたまらない。仕方なく目を閉じ、集中する。やはり何も聞こえな――
…ピー…ルルル…ルル…
「――あ…鳥の…鳴き声…?」
本当にかすか過ぎて、よほど集中しなければ通りすぎてしまいそうな小さな鳴き声だった。
「…そうです。啼かぬ時も多いので、たまたま運が良かったとも言えますが…。では、社の中へ」
亜古弥さんは言い、お社の扉をガタン、と開ける。
中は六畳ほどの広さだろうか。何もない部屋の中央に、一本の、葉のついていない木が生えていて、そこに紅の模様の長い尾を持った、美しい青い鳥が一羽、止まっていた。嘴は金色で、この世のものとは思えないほど美しい鳥だった。折りたたまれた青い翼は艶やかで、瞳は深い茶色だった。煌めく眼光は強く瞬いていた。潤んでいるので、なんだか泣いているように見える。そのほうっておけない感覚は、何かに似ていると思った。
「亜古弥さん…この鳥は…」
生唾を飲み込んで、僕は聞いた。
「これは『明日啼鳥』です」
「『明日啼鳥』…?」
「これは乙姫の化身です」
「歌花の…!?」
僕は目を見開く。
「恒龍がこの海の世界の化身なら、『明日啼鳥』は乙姫の化身。喉を焼かれても何とかして啼き続けております」
僕は亜古弥さんを呆然と見る。
「喉を…焼かれた…?」
「百年前、瑠璃殿を身ごもった乙姫の噂を聞いた民が、怒りにまかせて焼きごてを喉に押し付けたのです。外の傷はこの百年でほぼ消えましたが、中の喉の傷はおそらく癒えることはないであろうと…当時の医師の見解でした。歌違えの間に幽閉された乙姫の心は歌いたがっていたのでしょう…身代わりのように歌っていた明日啼鳥は喉を焼かれ美しい歌声を失った後も啼き、歌うことをやめません。しかし…喉を焼かれ醜い歌声に変わった明日啼鳥の歌声は人々の心を蝕むと囁かれ…その歌声を封じるためこの社に入れられました」
「醜いなんて…そんな」
「歌わなければと…姫は思い続けているのでしょう。その想いがそのまま明日啼鳥に歌わせ続けている。焼かれた喉で歌うのはどれほど苦しいか……想像するに胸が痛みます。それに」
「それに……?」
「水に狂っている、と」
「え?水に…狂う?」
「当時明日啼鳥を診た医師が、明日啼鳥は水に狂っている。二重の苦しみだろう…と。その意味が分からぬまま、その医師は民に殺されてしまいました。今も医師はおりますが…殺された医師ほどの名医はなく、水に狂うという意味も分からぬままです。せめて苦しみを一つでも取り除きたいものですが……。明日啼鳥の苦しみは同時に姫の苦しみです。一心同体ですから。明日啼鳥の苦しみも…姫を相当苛んでいることでしょう」
「そんな苦しみを…?」
喉を焼かれた?それでも歌い続けている?痛いだろうに。苦しいだろうに…。僕はやりきれなかった。一体、どれほど。どれほど歌花が苦しまなければならない。
「明日啼鳥は…今は一部の民の間では明日無鳥と揶揄されています。無い明日を歌っている鳥。明日は来ないかもしれない、という民の苦しみを表しているのだと」
「そんな……」
歌花のせいなのか?明日無鳥?あんまりだ。何よりも歌うこと、民のために歌うことを願っていたのは歌花のはずなのに。
「もし乙姫のことをお知りになりたいのなら…しばらく明日啼鳥の世話を樹朝臣様にお願いしたい。一日に三回、食事の世話と、一日に四、五回水の世話を。それだけで良いです。世話をしているうちに何か思いつくことがあるかも知れませぬ。…本当は…もっと早く明日啼鳥のことを樹朝臣様にお教えするべきかと悩んだのですが…。あまりにつらい事実故、私も躊躇しておりました。申し訳ございません」
怒りがなかったわけではない。もっと早く教えていてくれれば…そうも思った。けれど…仮に知ったとして、僕に何ができていた?何もできなかったのではないか?そう思うと、亜古弥さんに怒りをぶつけることはできなかった。
「分かりました。しばらく……明日啼鳥の世話を僕にさせてください。誠心誠意、世話をしますから」
ひとつでいい。まずはひとつでも、歌花の苦しみを取り除きたい。それが僕にできるのかは分からないけれど。
その日から、僕の日課は毎日『媛ノ祠』へ出かけることになった。社の中はとにかく何もないから、汚れも大してなかったが、それでも掃き掃除をし、食事台や水桶を綺麗に磨き、とにかく明日啼鳥が少しでも心地よく過ごせるように心がけた。明日啼鳥をよく見ると、化身というだけあって、なんだか歌花にとても似ている気がした。特に深い茶色の瞳は、歌花そのものだった。そう思うと、僕は直視できなくなり、鳥相手に情けないが赤面して顔をそむけた。
明日啼鳥の食事は、意外なことに食べ物ではなく、宝玉だった。ルビーやサファイアのような、小さな宝玉の粒を金色の嘴に含む。この宝玉が、喉を治してくれればどんなにいいか。そんなことを祈らずにいられなかった。
水を口に含む様さえ、明日啼鳥は美しかった。少しでも、傷ついた喉を潤しますように。そう思いながら水を与えた。
毎日、毎日、とにかく必死に世話をした。なんとか楽にしてあげたい。でも…僕にできることなんかないかも知れない。そう絶望することもしょっちゅうだった。そうしている間にも、歌花のことも気になった。今頃、どんな想いでいる?成長した娘を見て、喜びより動揺の方が大きく見えた。なぜ。なぜ歌花ばかりこんな想いを…。
一か月ほど過ぎたころ、僕はいつも通り水桶を磨いていた。明日啼鳥の啼き声を聞くたびに、胸が痛む。苦しそうだからだ。あまり啼かないでほしい。と思う時も何度もあった。その時。
ルル…ルルル……。
かすれた声で、明日啼鳥が歌っていた。僕は黙って明日啼鳥を見つめた。かすれているのは、いつものように焼かれた喉のせいじゃない。直感で分かった。かすれているのは…。
ル…ル…。
深い茶色い瞳から、水の粒…涙がこぼれていた。ポロポロ、ポロポロ。
辛いだろう。焼かれた喉で歌うのは辛いだろう。どれだけ耐えればいいのか?
気がつくと、僕の目からも涙が流れていた。それは、この世界に来て初めて流れた涙だった。歌花。君は、つらかったね?これほどの苦しみに、独りで耐えていたんだね?
「…啼かないで」
僕はその場に崩れ落ちた。
「もう、啼かないで。泣かないで…」
歌花。もう、なんでもするから。だから、もう苦しまないで。僕が身代わりになってもいい。だから。
嗚咽が漏れ、僕は泣いていた。いつまでもいつまでも泣いていた。そうすれば、明日啼鳥の涙が少しでも減るかも知れない。そうなればいい。そう願って、いつまでも泣き続けた。




