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水底の姫君  作者: 市村いお
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幕間―百年前―

『――あなたが好きです。歌花』

 その言葉に、その瞳に、熱がこもっていた。狂おしいほどに惹かれた。その身体にこの身をゆだねられたらどんなにいいだろう。

 ――けれど――それはできない。わらわの汚れた身で、樹に抱きしめてもらえるわけがない。そんなこと、神が許さないだろう。あの清らかな青年に、わらわは似合わない。

 思い出す。百年前のことを。昨日のことのように思い出す。

 岬――。そなたは、わらわのことをどう思っていたのだ――?




 百年前、岬は家の押し入れにあった箱を開けたときに出てきた煙に引っ張られてこの世界へやってきたという。とても不思議な体験だったと言っていた。そのころ、本当に14歳になったばかりのわらわの前に、本当に突然、岬は現れた。

 綺麗な顔、力強い眼差し。一目で惹かれた。初めて好きになった人は、違う世界の人だった。それでも、本当に本当に好きだった。

「…奥方と…お子が?」

「ああ、陸で私の帰りを待っているだろう。何よりも大切な私の宝だ。でも…乙姫、あなたといると陸のことを忘れそうになる…」

 忘れてしまってほしい、と思った。そんな自分が心底醜いと思った。――これは、決して許されぬ想い。

「岬は…わらわのことをどう思っている?」

 やっとのことで絞りだした問いかけだった。応えて、岬。応えて――。

「可愛い…妹のようだなって思っているよ」

 わらわを抱きしめたくせに。妹。そうでしかないのか?それとも、嘘をついているのか?臆病で、卑怯な男。それなのに、なぜこうも惹かれる――。

「乙姫は綺麗だ。それに…君の歌声は本当に私を魅了する。不思議な響きだ。こんな歌い手は初めてだ。君の歌声が、この世界を支えているんだな。すごいよ。でも――辛くはない?この世界のためだけに生きること、辛くはない?」

 初めてだった。乙姫としてのわらわではなく、一人の少女としてのわらわを見てくれた人。わらわはこの世界を支えるために存在している。そのことに、なんの疑問も持っていなかった。けれど、岬に言われて、ああ、わらわは苦しかったのだと気づいた。気づいただけで、とてもとても楽になった。

「苦しかったら、歌わなくてもいいんだよ」

 岬が言う。涙がこぼれた。歌わなければ自分には何の価値もないと思っていた。自分の存在価値は歌だけだと。初めて違うと言ってくれた。その言葉が、わらわをどれほど救ったか、岬自身も気づいてはいないだろう。誰にも分からない。その言葉が、どんなに嬉しかったか。どんなにわらわを喜ばせたか。


「龍日子さんは、乙姫を好きだと思う」

 岬の言葉に、わらわは思わず瞬きをする。

「あの者に、そんな感情はないだろう。護衛としての務めは完璧だが、それだけだ。それに――ただの護衛が、そんな感情をわらわに持つことは許されない。それが分からない男ではない」

 異世界からの訪問者は、この世界の常識を何も分かってはいないらしい。たとえ婚約者相手でも、『乙姫』が恋をすることは許されない。まして婚約者以外の男が『乙姫』に恋をすることは絶対に許されない。その禁忌を、自分自身が犯していると岬は気づかないのだろうか。少なくとも――わらわは、岬に恋をしている。海の民のことだけを想って歌うこと。それがわらわに課された唯一の使命。それを破って、岬を想っている。


「乙姫は、私を好きなのですか?」

 改まって聞く岬に、怒りすら覚える。

 そんなことも、聞かなければわからないのか?わらわを抱きしめておいて、それを言うのか?愛しさと憎しみ。相反する二つの想いが、胸の中でひとつになる。岬――。わらわはそなたにとって、それだけの存在なのか。その程度なのか。禁忌を破ってまで愛した人は、なんと頼りない人なのか。

 岬の質問には、とうとう答えられなかった。


 岬は、海月みたい。海の中をふわふわ気分のまま漂い、誰にもつかめない。誰のものにもならない。そのつかみどころのなさが、わらわを余計に魅了する。腹が立って仕方がないのに、眼で追いかけずにいられない。気がつくと岬を見つめている。分かっている。この男は――わらわを幸せにできる男ではない。

 違う。わらわを幸せにできる男はいないのだ。どこにも、どの世界にも。

 だって、わらわの幸せは海の民を幸せにすることだから。それ以外の幸せなど、望んではいけないのだ。歌以外のわらわを初めて認めてくれたのは岬だ。でも、それが何になる?


「――陸からの客人にそなたがご執心と聞き来てみたが…本当か?歌花」

 岬の噂を聞きつけ、海龍王である父上が都の宮城へいらっしゃった。普段は田舎の離宮に引っ込んでいらっしゃるのに。

「いえ…ただ、お聞きすることすべてが物珍しく…陸のお話につい夢中になってしまいました…。けれど…それだけです。特別な感情は何もございません」

 美しい海龍王は、切れ長な眼に冷徹な眼差しを宿し、わらわを見た。――見抜かれているのだろう。ゾクッとした。

「物珍しいのは分かるが…自分の務めをくれぐれも忘れぬように。――それと」

 ちらり、と妖艶な眼でわらわを見た父上は言った。

「もう少ししたら、私が婚約者を選んで差し上げよう。乙姫にふさわしい男を、私が見定める」

 冷や汗が流れる。――嫌悪感。それはとっさに出た嫌悪感だった。「乙姫にふさわしい」?非の打ちどころのない正しい血筋の者を、父上は連れてくるのだろう。けれど…愛してもいない男に…わらわは身を任せなければいけないのか?乙姫とは一体なんだ?

媛宮(ひめみや)制度』。わらわもそこから自由になることはできない。決して。涙が溢れる。


 ――歌いたくない。もう、歌いたくない――。

 そう思ったのは初めてだった。海の民のことなど知ったことか。わらわも…ああ、そうだ。わらわだって、幸せになりたい。そんな権利はないと思っていた。でも、岬が気づかせてくれた。わらわにだって、幸せになる権利がある。海の民はみんな、自分の幸せのために生きている。なぜ、わらわにはそれが許されない?『乙姫』だから?好きで乙姫に生まれたわけではない。『乙姫』としての義務が歌うことと愛していない男との婚姻なら、『乙姫』としての権利はなんだ?贅沢な宮城での暮らし?『乙姫様』と崇め奉られること?そんなのちっとも嬉しくない。義務と権利が、同等ではないではないか。


 けれど、所詮逆らえない。長くこの世界を支配してきた『媛宮制度』に逆らえる者など誰もいない。絶対的な規律。


 けれど――岬が見つけたのは、『媛宮制度』の「抜け道」だった。


「『媛宮制度』?」

「わが国を支配している規律だ。規律と言っても、事実の結果が記してあると言ってもいいだろう。つまり、変えられないものだ。『この事実があり、この結果がある』と示している。それをひっくり返せるのは、神だけだ。『制度』の名を冠した神話と言ってもいい。誰にも変えられない」

 わらわが言うと、岬はしばらく考え込み、そして言った。

「その『媛宮制度』を文書化したものは?」

「『海ノ民古文書館』にあるが――なぜ?」

「詳しく知りたい。乙姫、古文書館へ連れて行ってください」



 古文書館で、岬はずっと分厚い『媛宮制度』を読み続けた。

「これは…事実ですか?」

「そうだ。それが『媛宮制度』の現実だ」

「でも、それなら――」

 岬が言おうとしたことは分かったので、わらわは絶望的な事実を先回りして伝えた。

「岬。子ができた」

「!?」

 岬の瞳が大きく揺らいだ。

「岬とわらわの子だ。お腹の中にいる」

「そんな…。じゃあ、私のせいで君は…」

「岬のせいではない。わらわは何も後悔していない」

 岬は呆然としていたが、やがて眼に強い光を宿して言った。

「乙姫。時間をください。必ず…君を救う道を見つけてみせる」

「岬…」


 そうする間にもお腹の子は育っていった。

 すぐにそれは宮城に知れ渡り、そして…父上がいらっしゃった。憤怒にかられた表情と共に。

「歌花…汚れたものをその腹に宿していると」

「汚れてなどおりません。父上が待ち望んだお子では?」

「ふざけるな!どこの者とも知れぬものの子だと?そんなことが海の民たちに知られたらどうする?わが一族の恥だ!生まれたら即刻抹殺する!」

 父上なら本当にそうするだろうと思った。生まれたらこの子は殺される。


「芳葉」

 当時女官長をしていた芳葉を部屋へ呼んだ。

「頼みがある。この子が生まれたら…芳葉がこの子を宮城の外へ逃がして育ててほしい」

「…歌花様…!?」

「このままではこの子は父上に殺される。わらわはこの子を愛してやることも育ててやることもできない。だから…せめて母としてできる最初で最後のことは…この子に生きる道を与えることだけなのだ」

「歌花様…」

 気の強い芳葉の眼に涙が浮かんでいた。子供の頃から姉のように慕ってきた芳葉。誰かにお腹の子を託すなら…芳葉しかいない。

「分かりました。必ず立派にお育ていたします。安心してお産みください。あとのことはまかせてください」

 そうして、しばらく芳葉と抱き合って二人で泣いた。

 すまない。育てられなくて…愛せなくてすまない。せめてそなたを愛する者を託すから…幸せになっておくれ。



 娘の瑠璃が生まれ、すぐに芳葉が準備した手筈で父上の手から逃れ宮城を出た。

 それからすぐに、『媛宮制度』の文書を抱えた岬がわらわの部屋を訪れ、眼を輝かせて言った。

「君を救う方法が見つかった!」

 瑠璃のことはまるで頭にないようだった。素直にそれが寂しかったが…。

「どうやって…?」

「『歌違えの間』です!」

 それから、岬は『媛宮制度』を読み見出した「抜け道」をわらわに話し、気の進まないわらわを『歌違えの間』へ連れて行き、そして…言った。

「これで君は自由だ。鍵は僕が陸の世界へ隠す。もう何も君を害することはできない」

「岬、でも…」

「まかせてください」

 そう言って、ガシャン、と歌違えの間の扉を閉じ、鍵をかけた。

 わらわはもう『歌違えの間』から出られない。それがわらわの幸せなのかはもう分からない。でも、岬が満足しているならもうそれでいいと思えた。岬の気がすむなら、それでいい。

 陸への戻り方は、岬にしか分からない。煙を作り出せばいい、と言っていたが、詳しい方法は分からなかった。陸へ戻るということは奥方とお子の元へ戻ったということだ。もう二度と会えないのだと思うと胸が潰れそうだったが、ホッともしていた。これで岬の人生をわらわが乱すことはもうない。狂わすこともなく、岬は陸の世界で幸せに生きてゆける。

 そう思っていたのに……。


「乙姫!」

『歌違えの間』に入ったわらわの前に、再び岬が現れたのは岬が陸に帰ってひと月ほど経った頃だった。

 その間に、この世界は混乱を極めていた。『乙姫』であるわらわが、歌の力を封印される『歌違えの間』に幽閉されたのだ。父である海龍王は怒り狂い、元老院たちは連日会合を開き、海の民の間にもこの世界が滅びるという流言が飛び交い気がふれるものも多く現れたと聞く。


 だが、そのどれもわらわには遠い世界の出来事だった。

 この世界がどうなるかなんてもう分からない。ただ、少しの幸せな想い出を残して岬は陸に戻った。それだけで良かった。岬…。たぶん、わらわの一生に一度の恋だった。その想い出があれば生きていけると思った。


「岬…!なぜまたこの世界に?陸の世界へ戻ったのだろう!?」

「うん、鍵は陸の世界にある。この世界の誰も手出しできないところだ。ただ…もう一度だけ君に会いたかった。君が幸せかどうかこの目で確かめたかったんだ」

「馬鹿な…!そんなことのために…!今すぐ陸の世界へ帰れ!」

「乙姫?」

「そなたの命があぶな…」

 そう言ったその時、歌違えの間に龍日子が現れた。岬を見た瞬間、切れ長な眼に冷たい光が宿った。

「貴様…!」

「龍日子さん…」

 岬は最初、龍日子のはっきりした敵意に気づかないようだった。

「龍日子さん、私は」

「鍵はどこだ」

 そこでようやく敵意に気づいたのだろう、岬は毅然として言った。

「陸の世界に隠しました。戻す気はありません」

「今、戻すと言えば命は助けてやる」

「できません」

「…ならば」

 岬と離れた場所に立っていた龍日子は背負っていた矢筒から矢を一本引き抜き、弓につがえた。

「龍日子!やめろ!岬はわらわのために」

「…貴様のせいで海の民の世界は滅茶苦茶だ」

「龍日子さん、私は」

 しかし岬はその次の言葉を発することはできなかった。

 シュンッと空気を切り裂いた矢は、次の瞬間岬の首に突き立っていた。

「岬―――っ!!」

 玻璃の扉の外、わらわが触れることもできない場所で、岬が崩れ落ちた。

「岬!!岬!!」

 叫ぶわらわに、岬は血を流した口で絶え絶えに言った。

「おとひめ…いつか…鍵を持ったもの…が陸から…あらわ…れるかも知れない…」

「岬、しゃべるな!!誰か医師を!!」

 岬は顔に笑みを浮かべていた。

「もし…あらわ…れたら…そのものは殺したほうがいい…」

「岬…!」

「そうすれば…君はえいえんに…」

「岬、もうやめて…!」

「くるしめて…ごめん…かか…」

 歌花…?今…わらわの名前を呼んだのか…?初めて…呼んでくれたのか…?

「岬…?」

 けれど岬は、もう二度と動くことはなかった。

 

 たくさん、たくさん苦しめられた。好きだったのに、名前すら呼んでくれなかった。一度も好きだといってくれなかった。抱きしめておいたくせに、一度も。子供ができたと告げたときも、生まれた時も、喜びの言葉一つくれなかった。

 わらわのことを本当はどう思っているのか、ついに口にしてくれることはなかった。

 でも、わらわに初めての感情をくれた人だ。人を恋うるということがどういうことか、自分以外の人間が自分より大切で、そこにいるだけで視線が追いかけてしまうという存在。そういうものを、全部教えてくれた人だった。


 そして…わらわのために命をかけてくれた人だった。


 岬は、そういう人だった。


 それが、わらわにとっての浦島岬という男のすべてだった。





『僕は、樹です。木村樹』


 初めて樹が目の前に現れたとき、本当に、岬かと思った。

 けれど、なんだろう、すぐに違うと思ったのは、まとう空気だった。

 岬より子供で、岬よりずっと柔らかかった。


 顔が似ているからではない、この想いは。

 もう二度と、持つことはないと思っていた感情。



『あなたが好きです』



 その言葉に、涙が出るほど震えた。


 嬉しくて。



 樹に恋をした。



 わらわの、永遠に来ることはないと思っていた、二度目の恋だった。

 


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