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水底の姫君  作者: 市村いお
1/7

白い街

 プロローグ

 白い部屋だった。

 一面の白い壁、床に敷き詰められた丸く白い小石。天井は高かった。

 そこに置かれた白い卓子、白い三脚の椅子。

 そこに座る三人の白い老爺。皆一様に白く背丈ほど長い髭を持ち、白い長衣をまとっていた。

「急がねばならない」

 一人が言った。一刻の猶予もない、と。

「だがどうする」

「呼び寄せるのだ」

 一人の言葉に、その場が凍り付いた。

「まさか」

「そうだ」

 その言葉に、強い力があった。迷いはなかった。

「一刻も早く、その男を」

「その、男」

「『二度目の浦島』を――」

 それを否定する者はその場にはいなかった。 


(いつき)

 両親が死んだ。突然の事故だった。

息子の僕から見ても、父はかっこよく、母は可愛らしい人だった。自慢の両親だった。

もうすぐ17歳の誕生日だね。(いつき)の好きなものいっぱい作るからね。

母はそう言って笑っていた。

 両親が死に、その日から僕の中で何かがガラガラと崩れていった。

 友達がいないわけじゃない。親戚の人たちもみんな僕を心配し、僕を子供の頃から可愛がってくれたじいちゃんは、即座に僕を引き取ると言って聞かず、愛情は痛いほどに感じた。

でも、僕はなんだか生きる意味というものを失ってしまった気がした。

この先いくら生きても、もう虚しさしか感じられない気がした。

 普通に過ごしているつもりでも、ふいに頭の奥がグラグラする感覚。平衡感覚が保てず、立ってもいられない。そういう瞬間が、一日に数回はあった。父さんに会いたい。母さんの笑顔が見たい。

 突然断ち切られた日常は、僕のすべてを壊した。

 夜眠るとき、もうこのまま二度と目覚めなければいい、と毎晩思い、そして朝目覚めるたびに絶望した。また目覚めてしまった。また一日が始まる。虚しい一日が。

不思議なことに、涙は一度も出なかった。何もかもが現実ではなく、実感すら湧かなかったからだろうか。

 ただただ、気怠い空虚な思いだけが全身を支配していた。


1 白い街

「じいちゃんの家に?」

 自宅のリビングで、僕はソファでぼーっとしていた。三日前から、ばあちゃんが世話をしに泊りに来て、食事を作ったりあれこれ世話をやいてくれていた。そんなことすら、ありがたいと思う余裕はなかった。

「そう、まだこの家はそのままにしておくけど、まずは少しの間泊りに来ないかって言ってるの、おじいちゃん。気分転換になればってね」

 突然息子を亡くしたのだ。ばあちゃんだってつらいだろうに、気丈に振舞っている。ああ、父さんに似ているなと思う。

 じいちゃんは引き取りたいと言ってくれたけど、僕はまだそれを受け入れる気になれなかった。両親と過ごしたこの家を、まだ離れる気にはなれなかったのだ。

「別に数日たったらまたここに戻ってくればいいのよ、ただ、もうすぐ夏でしょう?うちは近くに海もあるし、樹もうちに来るの好きだったでしょう」

 じいちゃんちに行くのは確かに好きだった。ばあちゃんは料理上手だし、じいちゃんちの近くの海で泳いだり、釣りをしたり、自然というものを満喫できるのはひどく贅沢な気持ちで、毎年の夏は必ずじいちゃんちで過ごした。

 でもそれが楽しかったのは、この家で待っている父さんと母さんがいたからなんだと、今は思う。帰る家があるというのは、そういうことだったのだと。

 今は辛かった。じいちゃんちに行って、海で遊ぶ?そのあとは?僕はどこに帰ればいい?じいちゃんちは好きだったが、僕の帰る場所ではない。それを改めて思い知らされるのが怖かった。

 でも、いつまでもばあちゃんたちに心配されているのも煩わしかった。

 一度だけ行こう。そうして、またここに戻ってくればいい。僕の帰る場所はここだと、実感するために行けばいいのだ。

 それに、確かに気分転換にはなるだろう。僕はばあちゃんに言った。

「うん、そうだね。少しの間、行こうかな」

 そう言うと、ばあちゃんの顔がぱっと晴れた。

「本当に?じゃあ、行こうね。おいしいものたくさん作るからね」

 その気遣いも、今は重かったが、感謝するべきなのはわかった。ばあちゃんは、いつもとても人に気を遣う人だった。母さんも言っていた。おばあちゃんにあまり気を遣わせないであげてね。申し訳ないくらい気を遣う人だから、と。うん、わかったよ、母さん。僕は心の中でそう返事をしていた。



 T県にあるじいちゃんの家は、古く趣があり、庭には小さな蔵まである。今まで蔵には入ったことがない。なんとなく、暗く薄気味悪いと思っていたのだ。それに、蔵の存在など忘れてしまうほど、じいちゃんちは居心地が良かった。夏はいつも、潮の香りに包まれて眠るのがこの上なく心地よかった。和風の作りの家に似合わず、ばあちゃんは洋風の料理が上手で、ラザニアとかチェリーパイとかを作るのが得意だった。


「樹、スイートポテト作ったよ。それと、ナッツが入ったサラダも好きだったでしょう」

「おい、一気にそんな食えんだろう。それより、樹、明日は釣りに行くぞ。久しぶりだろう。腕がなまってるんじゃないか?」

 気遣うばあちゃんに、いたずらっぽく笑うじいちゃん。僕はとりあえず、彼らの存在に感謝する。でも、スイートポテトも釣りも、やはり今は心躍るものではなかった。

「うん、あのさ、後でちょっと蔵を見てきてもいい?」

「蔵?別に構わんが、お前、あの蔵に近づくのすら嫌がっていただろう。どうしたんだ、急に?」

 じいちゃんが不思議そうに聞く。

「別に、ただちょっと興味がわいただけ」

「そうか。珍しいものが色々あるはずだ。気に入ったものがあればもらっていいぞ」

 じいちゃんはにこにこしながら言った。僕の気に入るものが蔵にあるとは思えなかったが、なんとなく物珍しさに惹かれたのだった。



「これが蔵の鍵よ。だいぶ開けてないからねえ、埃吸わないようにね」

 ばあちゃんがそう言って幾分重みのある蔵の鍵を渡してくれた。少し赤黒く錆びている。よほど古いのだろう。

「うん、ありがとう」

 僕は鍵を受け取ると、それをポケットに滑り込ませた。

 

 昼間だというのに、蔵を取り巻く空気は暗かった。重く、古びて、でもその不気味さも、今の僕には逆に心惹かれるものがあった。扉は重そうで、あの世への入り口のような趣があり、それならそれで構わないという気がした。この扉の向こうに、父さんと母さんがいればいい。もし二人に会えるなら、あの世への入り口でも構わないという気すらした。

 錆びついた鍵を、鍵穴に差し込む。鍵を回すと、ガチリ、と音がして、扉を押すと、ギイ、という音と共に扉が開いた。中は暗く、饐えた臭いがした。だいぶ長い間開けたことがなかったらしい。

 埃臭い。上の明り取りから差し込むわずかな外の光だけが、蔵の中を照らしていた。ものものしい箱や掛け軸のようなもの、古い鏡のようなものもあり、想像通り薄気味悪かったが、不思議と居心地は悪くなかった。梅雨明けの季節だけれど、蔵の中はいくらか涼しく思えた。中はそんなに広くないようだ。

 けれど非現実に思えたこの蔵も、結局少し薄気味悪いだけで、父さんや母さんに会えるわけでもない。当たり前のことだけれど、何かを期待していたのかと思うほど気持ちはしぼんでいた。その時だった。

「うわっ」

 何かにつまずき、転んでしまった。足元にあったものに気づかなかった。

 見ると、そこには二つの箱があった。小さい方の箱は、今のはずみで開いてしまったようだ。恐る恐る見ると、中にはこの蔵と同じかそれ以上にクラシックなタイプの鍵が入っていた。どこの鍵だ?その箱の中の鍵に魅入られていると、ふいにもう一つの箱が目に入った。それは書道の硯などが入っていそうな、鍵の入っていた箱よりは浅いが大きさは二回りほど大きかった。その箱が、訴えているように見えた。自分を開けるようにと。

 なんだ?なぜそんな風に思うんだ?開けてはいけない、と、自分の本能のようなものが頭の中で叫ぶ。けれど一方で、さあ、開けて、開けなさい、と、箱が言う。ように聞こえる。

 震える手で、僕は箱の蓋をそっと持ち上げた。蓋は少し重かった。すると。

「・・・!?」

 箱の中からすごい量の煙が出てきた。もうもうと立ち上る煙。最初、焦って火元を探した。何かが燃えていると思ったのだが、ちっとも焦げ臭くない。

「・・・玉手箱かよ」

 僕の額を汗が一筋流れた。まさか、この煙に触れたら老人にでもなるのか?冗談だろう。この煙は一体・・・?

僕は恐る恐る煙に手を伸ばした。触れた、と思った瞬間、ぐんっ、と強く引っ張られた。

「!?」

 なんだこの力、抵抗できない。そうして、煙の中に強く引っ張られ、そのまま目の前が真っ暗になった。


 次に目を開けたとき、目の前は真っ白だった。真っ白い入り江。白い砂浜、打ち寄せる白い波。僕の知っている海とは明らかに違った。こんなに白一色の光景見たことない。あたりの、入り江を囲むのは高く白い崖だった。崖に囲まれた小さな入り江。真っ白な。

「なんだここ・・・」

 見回すと、煙はどこにもなく、煙の出ていた箱もなかった。ただ、手の中に、あの、箱の中にあった鍵がただあるのみだった。そうか、思わずこの鍵を抱きしめていたらしい。それにしても、ここは一体・・・。

 どうやってここを抜け出せばいいんだ?崖を登るのはとうてい無理だ。でも他に外に出られそうなところなどない・・・。そう思っていたその時、ザザ、と音がして、波の方を見た。と、まるでいつか聞いた聖書のモーゼの場面のように、海が割れだした。

「え!?」

 驚きの連続で、もう頭がついていかなかった。波が左右にどんどん割れていく。ザザザ、と音を立てて。僕は馬鹿みたいに口を開けてその光景をただ眺めていた。と、その割れた先の海の奥の奥から、一人の人間が波と波の間に空いたその道の上を歩いてくる。人?海の中から?泳いできたようには見えない。第一、水着じゃない。近づいてくるのを見ていると、濡れてすらいないようだ。なんで?水の中から出てきた(ように見える)のに、なぜ濡れていない?

 よく見ると、それは少年だった。着物のようなものの下に袴をはき、髪は左右で輪っかを作ったような・・・なんだっけ、日本史の授業に図説で見たことがある・・・そんな髪型をした、かなり顔の整った、中学生か、下手すると小学生くらいの一人の少年。顔の表情からは何も読み取れない。綺麗な姿勢でしずしずと歩いてきたその少年は、やがて僕の前に立つとぴたりと止まった。腰を抜かして座り込んでいた僕はただただ呆然とその少年を見上げた。と、少年が表情を一切動かさないで、口を開いた。

「お待たせいたしまして申し訳ありません、浦島さま」

「・・・は?」

「参りましょう」

「え?は?いや、ちょっと何のことか・・・」

「歌花様がお待ちです。こちらへ」

「かか?」

「はい、歌花様が」

「かか・・・あ、母さん?母さんが待ってるの!?じゃあ、ここはやっぱりあの世の入り口!?」

「・・・何をおっしゃっているか分かりませんが、歌花様は今、牢の中にいるのも同じ状態です。貴方様のお力が必要です。お早くいらしてください」

「牢・・・?母さんが?よく分からないけど、いいよ、行くよ。母さんたちに会えるならあの世だってかまわない」

 僕はそう言って、その少年(僕が立ち上がると、頭ひとつ分僕より小さかった)の後をついて、波と波の間の道をそろそろと歩いた。足元は白い石のような、でも妙に柔らかくて不思議な感触のするもので、あまり気持ちいいものではなかったが、母さんたちに会えるならそのくらい我慢しようと思えた。

道の突き当りに白い壁があった。そこに小さな扉のようにかたどった長方形の部分があった。開けるのかと思ったが取っ手のようなところがない。と、少年はそのまま突き進み、気がつくとその壁を通り抜けていた。え?なんだこれ?こわごわ後に続くと、壁のようなそこを通り抜けるとき、ぐにゃりと周囲が歪む感覚があり、一瞬酔いそうになった。なんだこれ、気持ち悪い――と思っていると、ふっと息がつける瞬間が来て、思いきり息を吐いた。次に息を吸い込んだ瞬間、はっと目の前を見ると、驚いたのはそこを取り巻く風景だった。霞がかった大気、見渡す限りの白い大きな石造りの壁。

 海の中?でも僕は息ができて、服も濡れていない。上を見上げると空のようなものがあるが、太陽も雲もない。でも僕が知っている空とどこか違う。なんというか、大気が灰色なのだ。空気に膜がかかっているかのような、異様な光景だった。そう、例えるならお天気雨の時のような。光があるのに太陽はなく、空気がけぶっている感じ。なんなんだここは。それともこれが本当にあの世というものなのか?

「『門』で手続きを済ませてあります。お入りください」

 ぼーっとしている僕にはお構いなしに、少年が先に立って案内をする。

「いや、え、門?」

「青龍門です。ここを通らねば入れませんから」

「は、入るってどこへ」

「海龍王の都です。街はそこここに散っていますが都はここだけですから」

「海龍王?都・・・?」

 聞きなれない単語ばかりで何も分からない。だいたい少年が目指す白い壁のようなものに挟まれた建物だけでもかなり立派なのに、これがただの門だというのか?中は一体どうなっているんだ。建物が大きすぎるのと、何より壁のせいで中の様子が一切わからない。これが門で、その中が都だというのなら、門と壁に閉ざされた都と言ってもいいのではないだろうか。そうか、これが城壁というやつか。外から見ると、そのくらい閉鎖的な空間に思える。そして建物の周りは一面森だ。この森の中にも建物があるのだろうか。森と言っても、そこに生えている木々に見覚えはなかった。奇妙な形をした木々があたり一面を覆っていた。

 門と言われる建物の中央には両開きの大きな扉があり、両側に門番のような少年が二人立っている。やはり着物に袴姿だ。この少年たちも相当顔が整っている。ただし髪は二人ともひとつに結っていた。

 さっきの案内の少年が扉の前に立つと、門番らしきその二人の少年が扉を厳かな物腰で開く。そこまで重い扉ではなさそうだ。

「どうぞ、お入りください。お待ちしておりました」

 一人がそう言ったが、それは少年に向けた言葉か、僕に向けた言葉かは分からなかった。

 少年について扉をくぐり、中に入った瞬間息を飲んだ。

 そこには大きな街があった。立派な石造りの建物が並び、その建物の中に、ひときわ目立つ、中央正面の宝石のような豪奢に飾られた大きな城のような建物の上部が見えた。そしてやはり、街を彩るように様々な色の樹々、それに見たこともない花がいたるところに植わっていた。ただ、花々は景色に溶け込むことなく、どこか違和感のある印象だった。

 その正面の建物を囲むように建つ街の建物は、ほとんどが白に統一されていた。白い石畳みの街。白い屋根、白い壁、白い柱。二階建ての建物というものは見られなかったが、どの建物もお金持ちが住んでいそうな立派なものだった。綺麗な、石でできた街。そういう印象だった。建物はひしめきながらも規則的に並び、住宅と、何かを売っている店の集合とでそれぞれまとまって建っていた。ただ、街のどこにいても中央のお城のような建物の一部は臨むことができるだろう。

「宮城に案内するよう言われております。浦島さま、こちらへ」

 しばらく周りを見回して圧倒されていた僕に、少年が声をかけたところで我に返った。

「き、宮城ってあの正面の立派なお城みたいな建物?僕が行っていいようなところなんですか?」

 なにしろ僕のいでたちはTシャツにチノパンという大変チープな恰好だ。尻込みするなという方が無理だろう。それはそうだ、じいちゃんちでただのんびりするだけの予定だったのだ。もうちょっと綺麗めな服だって持ってないわけじゃないのに。

「もちろんです。浦島さまをお連れするよう申しつかっております。いらしてください」

「あの、さっきから浦島さまって、僕のこと?」

 僕が聞くと、少年が初めて表情を少し動かし、キョトンとした顔をした。

「はい。なにか」

「えっと、僕は浦島ではなく樹という名前なんだけど」

「地上の通り名ですね。ですがこちらでは地上のお客様は浦島様と呼ばせていただいています。と言ってもお二人目ですが。慣れないでしょうがお許しくださいませ」

 軽く流されてしまった。二人目?ということは、僕以外にもこんな目にあった人がいるのか?だとしたらその人と話がしてみたい。さっきから驚きの連続で感覚が麻痺しているのだ。普通の人と普通の会話がしたい。この驚きを分かち合えたらすっきりするだろうに。

 そんなことを思いながら街を横切って歩く。僕の恰好が珍しいのか、まばらに街を歩いている人たちがこちらをジロジロ見てくる。女の人は上は着物で下がヒラヒラしたスカートのような恰好で、髪型は様々だ。長い人も、短い人もいる。男の人は着物にズボンのようなものだ。ほとんどが髪を結いあげている。この服装は、歴史の授業で習った上代の恰好に似ているなと思った。『平安時代と比べるとマイナーだけど、、この時代の服の方が好きだな。十二単より動きやすそうだし可愛くない?』と、古典に詳しい女子が話していたっけ。


 二十分ほど歩き、ようやく宮城の前に来た。しかし目の前に来ると、改めてため息をつくほど豪華だった。柱の宝石のような石はあちこち煌めき、城の上部を飾る珊瑚のような細やかな装飾の白さはぬけるようだ。それにすごく大きい。いくつ部屋があるんだろう。

 門も、琥珀色の宝石で縁どられている。やはり門番がいるが、こちらは青年の門番だった。と言っても、僕より二、三歳年上というくらいの若さではあったけれど。

「亜古弥様は中に?」

 少年が門番に聞く。あこやって誰だ?

「おられます。先ほどからお待ちです」

「『風の間』か?」

「そうです」

 少年が振り返って僕に言う。

「中へ。あなたを待っている方がいらっしゃいます」

「えっと、誰が待ってるんだ?」

「この国の政務を取り仕切っている方です。あなたを呼び寄せるよう命を下した方です。ここからは私への質問などはご遠慮ください。私語もいけません。亜古弥様のお言葉に従われるのが賢明かと。どうぞ中へ」

 どうやら偉い人が待っているらしい。と言っても僕の知ったことではない。けれどとりあえずは従った方がいいのだろう。僕は多少しぶしぶと少年の後について建物の中へ入った。

 建物の中は少しひんやりしている。高い天井、白い壁。あらゆるところに扉があり、入り組んだ迷路のような建物で、すぐに迷子になりそうな建物だった。白くて清潔なよそよそしさは、なんだか病院を連想させる。昔話のような世界なのに、この中はちょっとした近未来のようだ。やがてひとつの、両開きの扉の前で少年が止まった。大きな扉だけれど、数ある扉の中では最も質素な、飾りのない扉だった。ここにも門番がいる。扉によって、門番がいたりいなかったりするらしい。ここは二人の、わりと貫禄のある門番が二人扉の両側に立っていた。

「浦島様が参られました」

 少年が言うと、門番が二人、ピタッと揃ったタイミングで扉を開き、中へうながした。

 少年は中へ深くお辞儀をしてから中へ踏み込んだ。僕もペコリととりあえず礼をしてから慌てて中へ続く。

 中は丸く白い石が床に敷き詰められ、小さな白いテーブルと椅子が何脚か広い部屋の中央に置かれており、その椅子のひとつに老人が一人座っていた。背丈ほどもある白い髭に白いマントのような服。白い髪は短く切りそろえられていた。こちらを圧倒するような威厳のあるその佇まいに、僕はさすがに一瞬ビビらずにいられなかった。しかしこちらは勝手に連れてこられたのだ。なんの断りもなく。そう思うと、少し勇気がわき、負けてたまるかといくらか強気になれた。しかしそのあとすぐに恐縮する羽目になった。その威厳のある老人が、僕に対してひざまずいたのだ。

「よく・・・よく参られました。浦島様」

 それは本当に感極まっているようだったが、僕としては居心地の悪いことこの上ない。

「え、いえ、あの」

 老人はひざまずいたまま続けた。

 「地上では幾年月か・・・我々の世界ではもう百年以上、ずっと待ち続けておりました。そしてついにこの時が来たのですね。浦島様。どうかわたくしたちをお救いください」

 老人の声は震えていた。演技ではない。僕はいたたまれなくなった。

「あの、何のことか・・・僕は、その」

 お救いくださいと言われても、僕はなんの説明も受けていない。百年以上?なにからなにまで分からないことだらけだった。こんないかにも身分の高い人という感じの老人にひざまずかれる理由がわからない。冷や汗がつたう。

「結界を」

「え?」

「結界を解いてください。そして歌花様をあの部屋から自由に・・・。どうか歌花様の歌声を取り戻してください。お願いします・・・どうか」

「結界?歌声?なんのことか」

 本当に分からない。この人は何を言っている?頭がおかしいのか?でもすがるような目は真剣だった。頭がおかしくも、ふざけているようにも見えない。でも僕はそんなわけの分からないことを言われても何もできないのだ。間違いなく人違いだ。

「あの、間違えていると思います。僕は何もできません。あなたたちが探している人は僕ではありません」

 そう言っても、老人も引き下がらない。

「いいえ、貴方様です。『白い入り江』に貴方がいらしたのがその証拠。貴方が浦島様です。間違いはありません」

 ・・・どうすればいいんだろう。どう言われても、何を言われているか一ミリも分からない僕に、これ以上の期待をかけられるのはもはや困惑を通り越して迷惑だ。でもここで押し問答をしていても状況は変わらない。ならば。

「分かりました。じゃあ、そのカカ様という人に僕が会えばいいんですね。そうしたら僕が間違いであることがわかるでしょう。その人に会わせてください」

 カカという人が母さんではないこと、ここがあの世ではないことはなんとなく分かった。ならば、みんながカカ様というその人に会っても、僕が何もできないところを見せればいい。それですべて解決だ。僕は無罪放免、元の蔵に戻してもらおう。

「もちろん、ぜひ歌花様にお会いください。貴方にしか歌花様はお救いできません」

「分かりました」

「彩己、浦島様を『歌違えの間』にご案内しなさい」

「かしこまりました」

 サイキ、とはどうやらこの少年の名前らしい。

「ウタタガエ?」

「歌花様のいらっしゃる部屋です。四方が玻璃なので中は見えますし、小窓が付いているのでお話もできます。けれど、触れることは一切できません。最も、歌花様に触れていいのはお父上の海龍王だけ。だからお会いすることには何も問題はありません」

 どうやらずいぶん身分の高い人らしい。玻璃というものの意味は分からなかったけれど、父親しか触れてはいけないとはまたずいぶんなお姫様らしい。しかし僕もそんなお姫様に興味はない。僕は僕が間違いでこの変な世界に紛れ込んでしまったと証明されればそれでいいのだ。

 




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