64. 氷の茨と銀狼の咆哮
「どうして……ジークハルト先生がここに?」
私がここに来たのは、アニエスに呼び出されたからだ。
なのに、肝心のアニエスがいない。
ジークハルト先生は笑顔を崩さなかった。
「俺は体育教師だ。準備室にいたら悪いかい?」
んー?
でもここって、跳び箱とかボールとかを仕舞っている場所だから、先生が休憩に使うようなところじゃないし。
それに、周りの子達は……みんな体操服ではなく、制服だ。
男と女が半々。
顔ぶれは全員、記憶にない。
私の方を見て、うっすらと笑っている。
不気味だ。
「あ、あの、アニエスさんは?」
「アニエス君がどうかしたかい?」
「私、彼女に呼び出されたんです。どこかで見ていませんか?」
「いやぁ、知らんなぁ」
嘘。だって、私はアニエスから手紙を……。
(でも、あの手紙に名前はなかった。アニエスから貰ったって根拠は筆蹟だけ……)
しかし、状況的に鞄に手紙を挟めたのは、彼女しかいない。
ジークハルト先生が、一歩、足を進める。
私は、一歩下がった。
「君を待っていたのは我々だよ、マリアンヌ君」
「どういうことですか?」
「我らを妨害する存在が、君だからに決まっているだろう」
なに?
なにを、言っているの?
確かに、悪役令嬢としてのマリアンヌは、アニエスの邪魔をする存在だ。
でも、今の私にはそうした記憶がない。
むしろ私は、みんなと戦いたくない──レジナルドに敵対の意思がないことを伝えて、できれば協力したい。
「ジークハルト先生は、私の婚約を祝福してくださいましたよね」
「もちろん。生徒の幸せを願うのは教師として当然のこと」
「だったら……!」
「だが、オレは戦士だ。鎧騎士、ジークハルト・フォン・シュタインマイヤー」
「……っ」
「祝福しておいて悪いが、やはり君には消えてもらうべきだ」
名乗った声は低く、そしてぞっとするほど冷たかった。
ジークハルトがそんな声を出すところなんて、ゲーム本編にも、この世界での記憶の中にもなかった。
私は、反射的に踵を返して駆け出した。
ドアに背に立っていたから、すぐに出られた──。
「っ、うぁあっ!」
だけど、出た瞬間に床が思いきり揺れた。
立っていられなくて倒れこむ。
(ジークハルト先生は土属性……っ! だからこれはっ、先生の)
でもジークハルト先生は防御特化型で、攻撃やサポート系の固有スキルは殆どなかった。
(……ファンディスクに、何か追加要素が?)
前世の記憶が万全に残っているわけじゃない。
でも、ファンディスクの情報は、私はいっさい知り得ない。
あるいはレジナルドの『雲消霧散』のように、ゲーム本編とまた別の使い方ができる可能性もある。
──いや、考えるべきことは、こんなことじゃない。
ジークハルト先生は、私を殺そうとしている。
生徒達まで使って……。
(なんで? あり得ない! あの先生が……騎士であることを捨てても、騎士道を失わなかった先生が!)
地響きがおさまっても、身体に力が入らない。
体育準備室から、生徒達が出てくる。
みんな、ナイフや棒を持って──私を囲み出す。
(逃げなきゃ!)
振り下ろされた棒を、私は転がって辛うじて回避した。
動くと頭が判断したら、もう必死だった。
急いで体育館のドアに向かうけど──。
「っ!」
足元に無数の杭が打ち込まれる。
転倒しそうになるのを堪えて、左に足を向ける。
どうやら生徒に魔法が使える人がいるみたい。
(どうしよう、どうしようっ!)
──怖い。怖い。
体育館の中を走ったって、外に出なきゃ意味がない。
どうすれば倒せる?
『魔法とは小手先で使うものではない』
「……!」
『大丈夫。お前なら、できる』
レジナルドの言葉が、脳裏をよぎる。
私は追ってくる生徒達の方を向いた。
彼らの動きは、単純みたい。みんなひとまとまりになってる。
「万物の根源よ。停滞の力を示し、その場に集い留まり」
身体の奥が熱くなるのに、指先が冷たくなる。
レジナルドが教えてくれた、魔法。
使える! 今なら、放てる!
「──凍れっ!!」
ピシィィィ!!
鋭い音が体育館に響く。
地面に雪の結晶の模様が描かれて、今度はたくさんの氷の棘が生じた。
だけど棘は誰の身体を貫くことはなく──代わりに、膝までを氷で覆って動きを封じた。
やった! できた!
倒せていないけど、足止めはできたかも!
「……万物の根源よ! 鳴動の力を示し、凍れる大地を揺らせ!」
「えっ!?」
ジークハルト先生の声が響くと同時に、再び地面が震える。
バリィン!!
大きな揺れが、私の氷を全て破壊した。
ジークハルト先生はいつの間にか準備室を出て、生徒達の後ろに控えていた。
(そんなっ、これじゃ私──)
氷の魔法が通じない。
足止めができないなら、外へ出られない。
自由になった生徒達が、一斉に私を睨んで、駆け出してきた。
もう一度魔法を放っても、ジークハルト先生が打ち消してしまう。
なんで?
ジークハルト先生は話が通じると思っていたのに。
私、殺される?
戦士達を妨害する、悪役令嬢として?
「た、すけ……」
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
だって、私は──私は……。
「助けてぇー!! レジナルドォォ!!」
眼を固く閉じて、私は呼び、求めた。
その瞬間だった。
鍵を入れていた胸ポケットが、光を放った。
雄々しき狼の咆哮が、地を鳴らさんばかりに響き渡った。
眼を開くと、美しい銀の毛をなびかせる大きい狼が、私と生徒達の間にいた。
(──これって……!)
長い棒を生徒の一人が私達に向かって振り下ろした時──その生徒は、横二つに裂けた。
緑色の血しぶきが、周囲に飛び散る。
そして、狼は長身の人の姿に変じていた。
雌雄一対の剣を構えた、銀の光を纏う『剣豪皇帝』の姿に──。