60. 夢の通い路をひらいて
教師の仕事は大したことはない。
ふしぎと、夜は魔獣達が静かだ。
星の力を使うノアの結界が、効きやすいのかもしれない。
手引きした人間を洗い出すには、教師という立場は有効だ。
もっとも、国王を通じていくらでも情報は入手できる……が。
現状、あまりあの男に借りを作りたくない。
あの男の息子と、マリアンヌの件だけではない。
マルモンテル王国の秘密を握っている──現国王。
利用はするが、あくまでこちらが優位でなければならない。
剣を振るっていて、気づいた。
やはり、俺の力は以前より衰えている。
この世界で復活する前よりも、確実に。
もちろん、復活するたびに、己の力に差を感じることがあった。
だが、喪失を覚えるほどの経験は、ない。
一方で──あり得ないことに、戦士と共闘している。
幾千と繰り返した世界で、ノアが接触してくることは一度もなかったはずだ。
あまりにも多くのイレギュラーで構成された世界だ。
『最愛の魂』に巡り逢い、愛することも、初めてだ。
強さと引き換えにしてもいい。
そう思えるほどの、初めての幸福を覚えた世界だ。
絶対に、今までの如く無為に終わらせたくはない。
この世界を、流転輪廻の終着としたい。
寮の部屋に戻る。
マリアンヌの部屋の前で、一度立ち止まった。
(寝ている、か。もういい時間だ。ゆっくり休んでいてくれれば、それでいい)
幸せを感じながらも、それに振り回される自分がいる。
ずっと、マリアンヌには笑っていてほしい。
なのに、曇らせてしまうことがある。
(明日の朝、顔を見たい。──謝った方がいいのだろうな)
ふ、と、自然に笑いがこぼれる。
皇国の頂点たる王が、女一人の笑顔のために頭を下げるなど。
美女の微笑みのために国が滅んだ故事など、枚挙にいとまがないというのに。
そもそもこんな、平民に化けてまで魔獣退治。
ありえぬ行為だ。
アラスターのいう『脆弱』も理解できる。
「……ん?」
自分の部屋のドアノブに、袋がさげられていた。
警戒しつつも、そっと手に取る。
(茶葉の缶に……手紙?)
こんなことを、するのは──一人しかいない。
マリアンヌ以外の誰がいる?
なんだ?
胸のうちに次々と花が綻んでいくような、この柔らかい熱は。
いや。
もう、俺はこの温もりを、知っている。
覚えてしまっている。
忘れがたくなっている。
部屋に入って、白衣とジャケットを脱ぎ捨てた。
ようやく、腰を落ち着けることができた。
結界術は不得手だが、護符さえ使えば擬似的なものを作れる。この部屋だけでなく、マリアンヌの部屋にも密かに施してある。
缶には『カモミール』と書かれていた。
ハーブティーだ。
昨日、紅茶の缶を置いていったばかりだというのに。
俺は、手紙を開いた。
『お仕事、お疲れ様です。
昨日、飲み過ぎてないですか?
お酒ばかりだと身体を壊します。
今日は、このお茶で我慢してください。
夢の通い路をひらいて、待っているからね。
マリアンヌ』
あんな、八つ当たりのような態度をとった俺に。
どうしてこんなことを書けるのだろうか。
今すぐに逢いたくとも、すでに眠っているだろう。
壁一枚ぐらい、容易く移動できる。
寝顔を見るぐらいなら……。
いや、やめておこう。
約束した。ドアから入る、と。
夢に誘われたのだから、夢で逢えばいい。
俺は湯を沸かした。
自ら茶を淹れるなど久方ぶりだ。
カップに注ぐと、果実のような香りが立ち上った。
一口だけ含んで、カップを置く。
(あいつの淹れてくれた紅茶の方が美味いな)
学園内で購入した茶葉なら、品質に大した差はないはずだ。
マリアンヌが淹れてくれたから美味と感じたことになる。
何をしようと、彼女に繋がることばかり思い起こす。
俺は、懐から二種類のリボンを取り出した。
まずは、マリアンヌの瞳と同じ緑色のリボン。
そして、彼女と同じ髪色の、金のリボン。
こちらは途中まで裂いてしまって、そのままだ。
『レジナルドがくれた金色のリボン、落としたみたいで……ねぇ、見てない?』
『……知らんな』
『そっか。ごめんなさい。金色のリボンはまた探すから……』
問われた時、マリアンヌに嘘をついた。
拾った時、衝動的に裂こうとしてしまった。彼女に拒否された、という思いがそうさせた。
そのことを知られたくなった。
だが、彼女の心にいつまでも引っかかり、捜し続けるなら、いずれは返さねばならない。
──また曇らせてしまう。あの顔を。
俺は、何を与えてやれる?
金も名誉も快楽も──望むままに与えてやれる。
だが、彼女の真の望みは何なのだろう。
前世で彼女が愛した俺なら、それを知っているのだろうか。
答えは、今の自分の中にはない。
金色のリボンをどうするかは後で決めることにして、今日はデスクに置いておく。
朝まで時間はある。
自分で淹れた茶は渋くて不味かったが、カモミールの効用が眠りを誘ってくれるだろう。
いい加減、夢を見たい──最後に見たのは、マリアンヌの鼓動を聞きながら微睡んだ時だ。
自然と、手に彼女のシャツを取っていた。
ベッドに横たわり、僅かな温もりを求めるように抱いて、俺は眼を閉じた。
『──レジ……ド……ま』
眠りに落ちる瞬間、マリアンヌの声が、聞こえた気がした。
『お逢いしたくは、ありませんでした……永遠に』
……?
お前。
マリアンヌ、だよな……?
俺は再び、お前に拒まれるのか?