55. 皇帝と従者を射抜く瞳
学園の屋上で、雌雄一対の剣を振り下ろす。
おびき寄せた魔獣はそれだけで八つ裂きとなる。他愛もない。
醜い断末魔が響くが、外部へ漏れ聞こえる心配はない。
図書館では油断したが、アラスターが処理してくれた。
バーリフェルトの小僧が張った結界は、ひずみを塞ぐだけでなく、戦闘時に周囲への目眩ましとなる。
この結界に気づける者は、よほどの使い手だけだ。
(さすがは、バーリフェルト家の始祖の再来と呼ばれるだけある。味方に引き込んだのは正解だった)
正体を見抜かれた時は、さすがに焦った。
だが、向こうとて身体を張った行為だった。
「僕には大切な人がいます。その人の思い出がある場所、そしてその人の生きている国を守りたい。そのためなら、敵だった相手とも組みます。馬鹿げているとお思いですか?」
……昔の俺なら、一笑にふしただろう理由だ。
なにせ、この国を滅ぼすのは俺だったのだから。
無数の断片が残る、かつての記憶では、いつもそうだ。
『今は、魔獣の気配は全て消えております、レジナルド様』
アラスターの声が頭に響く。
これも術だ。
『わかった。引き続き警戒を怠るなよ』
『御意。……申し訳ありません。本来なら私のようなものが、戦わねばなりませんところを、御身の手を煩わせて……』
『構わん。お前にはお前の適した仕事がある。俺は剣を振るう方が性に合っている』
すると、アラスターが悶絶するような、耳障りな喘ぎを飛ばしてきた。
『そんな、ああっ! 我が君! 私めなどに優しい御言葉などおかけにならないでくださいっ!!』
『俺に命令するな』
『ははぁ!! ありがたき幸せ!!』
こいつのこういうところ、どうにかならんか。
ただ、それを差し引いてもこいつは有能だ。
マリアンヌを少しでも害した瞬間に始末するが、まぁ、今のところは問題ないだろう。
結界も完璧ではない。
たった一人では、この広さの学園敷地を守備しきれない。
どうしても、ほんの小さな綻びが出る。
そこを叩いているが、これではじり貧だ。
だが、攻撃に転じるにはまだ、色々と足りない。
それに、何よりも。
俺自身が今、『夜の世界』へ進入できない。
ひずみに入り込もうとしても、弾かれる。
それは、ノアとアラスターも同様だった。
しかし戦士の一部は、問題なく入り込めている。
肝心のアニエスが寝込んだために、奥深くへは行くことはできていないと予想されるが。
ふと、屋上から下を見下ろす。
魔法実技の授業が始まるところだった。
立ち並ぶ生徒の中、ただ一人、煌めきを放って見えたのは──。
(マリアンヌ……)
今の俺の、生きる理由。
お前のためなら、いくらでも戦える。
願わくば、終わるまでは安全な場所にいてほしい。
だが、何かをせずにいられないのだな、お前は。
そんなお前だから、愛しているんだ。
守ってやりたい。
この手で、あらゆる危険から、お前を。
だが、今の俺には、力が足りない。
守るべきものを見つけた途端に、喪失を覚えるなど。
魂の欠落は埋まっているはずなのに。
他者に頼らざるをえなくなるほど、俺は弱くなっている。
今の俺は、お前に愛されるに足る存在だろうか?
「未来の皇妃様は、大変勉強熱心な方でいらっしゃるようですね」
「おい、見回りに行け」
屋上に、あろうことかアラスターがやってきた。
奴は一瞬で移動する術を持たない。だから、わざわざ俺のいる場所まで上がってきた、ということだ。
「申し訳ありません。全体を見渡すなら、ここが一番よろしいのです」
「……勝手にしろ」
アラスターが眼を閉じる。
こいつの属性は、音。厳密には『振動』の使い手だ。
とはいえ、さすがに学園全体を、ただの一人で音を感知するのは、相当な精神力を消耗する。
「この程度のひずみで、魔獣が積極的にこちらへ来るなんて、本来はあり得ないことです」
「ああ。やはり何者かが意図的に呼び込んでいると見て間違いない」
戦士達が『夜の世界』へ行くためのひずみだけは、残してある。
奴らは何の疑いもせず、そこだけは守りを固めている。
できれば、こうして俺が魔獣を退治している間に、戦士達で『夜の世界』の秩序を正してくれると助かるのだが。
そこまで期待するのは酷か。
「ところでお前、昨晩、俺に何か伝達しようとしたか?」
「昨晩……ですか? いいえ。記憶にございません」
不意に質問をしたのは、突然の問いかけには大抵の人間は、嘘を準備できないからだ。
もっともアラスターの忠誠と能力は信用しているのだが。
(ならば、あの声はなんだった? 『早く、全てを手に入れてしまえ』、と)
だがあれは、間違いなく、俺の声だった。
声がしたと思われるあの鏡、処分しておいた方がいいだろうか。
「ならば良い。俺とマリアンヌのやりとりを盗み聞きしていたら、斬って捨てるところだった」
「…………。そんな、滅相もございません」
「なんだ、その間は。斬るぞ」
「いえ、ああなるほどその手が、と思っただけでございます」
こいつ、本当にこういうところだけは……。
首を振って、俺は再び地上を見た。
マリアンヌが、真剣な顔で講師の話を聞き入っている。
こちらに気づく様子はない。
結界があるから当然だ。
──だが。
「っ! アラスター、下がれ」
「はいっ……我が君も感じましたか」
そう、結界は目眩まし。
だがバーリフェストの小僧の結界など、見破れる者は滅多にいないはず。
だが、俺とアラスターは感じ取った。
急いで建物の中に入り込む。無意味かもしれないが、物理的な壁で遮蔽されればマシだろう。
結界を通り越して、俺達に向けた二つの視線。
一つは、地上を見ていた俺がすぐにわかった。
アニエス・アーベル。
戦士を率いるあの小娘だ。
今、俺を見た。偶然ではなく、明確に。
「私が感じた視線は、一瞬でしたので場所を断定しきれませんでした。しかし、学園寮のある方角からです」
「俺の仮住まいからか」
「おそらくは。ただ、距離を測定できませんでしたので、寮ではない可能性も……少し追ってみましょう」
「無駄だろうな。俺達が察したことを、向こうも、そして……俺を見たアニエスも気づいている。むしろ警戒を強めておけ」
「御意!」
ノアの結界を霊視するほどの力。
アニエスにそれだけの魔力があるのか。
そして、それに匹敵する魔力の持ち主がもう一人。
(マリアンヌにアニエスと接触させるのは──悪手だったか?)
お前を守ると、誓っておいて──。
あの繰り返す運命に、お前を巻き込みたくない。
孤独を味わうのは、俺一人で充分だ。