33. お前のためなら世界さえも
甘い香りの中、久方ぶりに、熟睡した。
あんなに穏やかな気持ちで眠りに就いたのは、いつが最後だ?
たった三十分だが、頭が隅々まで冴え渡る感覚があった。
──眼が覚めると、マリアンヌの胸に抱かれていた。
夢の中で漂っていたのは、薔薇に混じった彼女の匂いだった。
なんとも甘美で、優しく、温かなのか。
誰も、俺を満たしてはくれなかったのに。
彼女はいとも容易く、俺を満たしては、まだ求めさせる。
これが、最愛の魂なのか──。
愛しくて、たまらない。
こんな幸せは、後にも先にも存在しない。
昨晩は一睡もしていないが、こんなのは本当に慣れている。
夢を見るはずがないのだから、彼女のもとへは行けない──。
そう思って、戯れまじりにあんなメッセージを書いて寄越した。
なのに、彼女は……あんなものでも、大切だと。
茶の後で、俺は公爵家を出た。
次の約束はしなかった。
本当は、毎日だってマリアンヌに逢いに行きたい。
しかし、彼女はそれを拒むだろう。
無理をしてほしくない。などといって。
不眠はそこまで辛くないが、一日ぐらいは休息にあてることにした。
(俺は随分と甘くなった。最愛の魂を見つけた者は、皆こうなのか?)
家の人間には、マリアンヌを含めて、馬車は離れた場所に喚んであるといった。
だが、実際は馬車などどこにもない。
術である程度、見た目の印象を変えられる。
適度なところで陰に消えれば、すぐに戻れる。
「お待ちしておりました」
だが、人目のつかないルートをしばらく歩いた先で、馬車が停まっていた。
その前には、一人の男がいた。周りに人間は誰もいない。
深々と頭を下げるそいつ──アラスターに向かって、俺は眉を顰めた。
「迎えは要らんといっただろう」
「そういうわけには参りません。御身に何かあっては、我々にとって最大の悲劇となりますゆえ」
「その辺の輩が、俺に傷をつけられると? 随分と舐められたものだな」
「万が一があってはなりません」
動じずに薄気味悪い笑みを湛えるそいつに、俺は舌打ちをした。
命令を聞かんやつだ。
多少、独善的なところがある男だが、以前はここまでではなかった。
俺は、無視して馬車を素通りすることにした。
「未来の皇妃様は、大変魅力的な方のようでございますね」
「……おい」
「移り香がきつうございます。あの女が、御身をよほど悦ばせたと──」
「黙れ」
やわな首を右手で掴み、高く掲げると、さすがに表情は歪んだ。
だが、まだ笑っている。気に入らない。
気道の圧迫が先か、へし折れるのが先か。
俺は冷ややかな気持ちで睨めつける。
『ああ、貴方様の御手で、こんな……ああっ!』
「……おい。俺にその術を使うな」
『申し訳ありません。喉が潰れそうなものでして。事切れる前に、少しだけお話をさせてくださいませ』
アラスターは、探査・伝達の魔法に優れている。
俺の頭に直接、声を流し込んでくる。
普段は防壁を作るが、一瞬の隙を突いてこいつは語りかけてきた。
「……チッ」
俺は首から手を離した。
地面に落ちた従者は、無様に咳き込んで、血の混ざった唾液を吐き出した。
『レジナルド様。この世を統べる『神』に相応しい御方──貴方様に与えられるなら、死は至高の悦びでございます』
「やめろ。鬱陶しい」
『ですが、その前に……どうか、我らをお見捨てにならないでくださいませ』
防壁を張るか。
聞く必要はない。
「以前ノ貴方様なラ、私の術の介入ナどそモそも許サズ、罪深キコの身を一瞬で斬り捨ててくだサッタはずなの二……ドウして」
こいつ。
今度は喉に新たな声を張りつけたか。
歪んで、音程が狂った声だ。不愉快極まる。
「アア……貴方様は……ナんと、脆弱におなリなノですか……あノ女のせいで!」
「以前モ、貴方様ガ呼びかけテも反応一ツ返さズ! ソレが今になっテ、別人のヨウに媚びはじメ!」
「御身も御身! 皇妃ハ不要。女は、退屈シノぎの存在に過ギヌと仰ったのに!!」
なおも言い募るアラスターに、何の感慨もわかない。
どうせこいつを切り捨てたところで、似た人間が、いくらでも俺の周りにわいて出てくる。
「ですガ、貴方様の望みなら……受け入レましょう、私だけは……」
なら、利用価値のある者を選んで傍に置く。
ただ、それだけだ。
「私こそが、孤高ナ貴方の最大の理解者なのですカら……!」
「貴方様のために、あの女にハ手を出サないことを誓いましょう」
「我が赤心をどうかお受け取り下さい」
皆、同じだ。
何一つ変わらない。
「その言葉に偽りはないな?」
「はい! もちろんでございます!」
つま先で顎をあげさせると、アラスターは喜色に満ちた顔で答えた。
こいつはいつだって、本心しかいわない。
横っ面を蹴りつけてもよかったが、気分が乗らない。
俺は足を下げ、踵を返した。
「……いいだろう。今日のところは許してやる」
「ありがたき幸せに存じます! ああ、我が君……!」
アラスターには、それなりに信を置いている。
マリアンヌを良く思っていない一方で、害するつもりは全くない。
そういう男なのだ。こいつは。
本人に誓言させれば、充分だ。
俺は馬車に乗らず、振り返らず歩いた。
恐らく背後では、アラスターが額をこすりつけていることだろう。
あいつにとって、これが一番の望みなのだ。
マリアンヌ。
お前を害する輩は、俺が全て排除してやる。
お前のためなら、世界だって手に入れてやる。
お前の望みはなんだって叶えてやる。
なのにどうしてだろう。
今、思い出すのは、泣いているお前ばかりだ。
……頭も、胸も、痛い。
アンダー・ザ・ローズ編は終幕です。
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