20. 貴女の名前は……
応接間では、ベアトリスがぼんやりとした顔で立っていた。
卒業式よりも、やつれた気がする。
「あら、ベアトリス。座っていてよかったのよ?」
「あっ! いえ、なんだか……落ち着かなくて……申し訳ありません」
「謝らないで。さあ、お茶を淹れ直したら二人きりだから。安心してね」
「はい……」
お茶の用意をさせてから、メイドには「後はやっておくから、呼ぶまで来ないでね」といい含めて、私はソファーに腰掛けた。
ベアトリスは本当に落ち着かないのか、ずっと立っていたけど、座ってと促すとようやく腰を落ち着けた。
まずは、一杯。
マリアンヌが先に手をつけると、ベアトリスもおずおずと紅茶を口に含んだ。
「……さすが公爵家です……とても、美味しいです」
「そう? ありがとう。うちのメイドの腕はとても良いのよ」
この茶葉が珍しいかどうかは、環境による。
価格云々よりも、これは流通と人脈の問題。
結果として平民には珍しい茶葉になってしまうけど、貴族ならいつも飲むレベルなのだ。
ベアトリスの家でも、この茶葉は普通に飲んでいるとは思うのだけど……。
ベアトリスは侯爵令嬢だ。
マラルメ家当主は優秀な投資家で、かなりの財を築いている。
だがその生活は慎ましい。貧乏ではないが、不相応な贅沢は好まない。
そのせいか、ベアトリスは昔、孤立していた。
金持ちなのに、服を着回しているだとか、古着ばかりだとかいわれて。
彼女は同じ服を何度も着ていても、丁寧に手入れをしてあるし、小物を上手く使って印象をいつも変えていた。
どれも、一級品だった。何回着ても耐えられるように、職人の技が光る品。
だが、やっかむ人間は何をしても、相手を蔑むのだ。
マリアンヌはそんな彼女に『その手袋、私も欲しいわ』と、みんなの前で声をかけたのだ。
十四歳の頃のことだった。
人の物を見て欲しがるなど、貴族令嬢としてはしたない発言ではあった。
これは母親のお下がりの年代物で、もう手に入らないとベアトリスは申し訳なさそうにいった。
『まあ、残念。でもお母様とも貴女とも、趣味が合いそうだわ。ぜひ私と仲良くしてくださらない?』
──私にはわかる。
マリアンヌが手袋をいいな、と思ったのは確かだけど、自分には合わない色だから欲しいわけではなかったことが。
ベアトリスとは、それ以来の付き合い。
アナベルもほぼ同時期だ。
設定集にすらなかった出会いなんだけどね、これ。
マリアンヌ、良い人だったんだなぁ。
「そういえば、ベアトリスは宝飾デザインの仕事を始めるんですって?」
「はい。父から、これからの時代、貴族の娘も手に職を……と」
「素晴らしいわ。ベアトリスはセンスがあるし、きっと売れっ子になるわ!」
「あ……ありがとう、ございます」
貴族令嬢の多くは、成人するか学園を卒業するかのタイミングで結婚する。
ベアトリスには兄がいて、これまた複数の事業を成功させている有能な人物。
本来なら、ベアトリスは働かなくても嫁にいけばいい。
しかしマラルメ家の当主はあえて、ベアトリスを働かせることにしたのだろう。
いざという時、自分一人でも生きていけるように、と。
もしかして、ベアトリスの悩みは、仕事についてだろうか?
新客を取ってこい、といわれてるのかな?
宝飾デザインなら職人だけど、営業(?)も兼ねているのかな。
いいよ。私、全力で協力しちゃう!
お友達価格で……そう、原価の五倍は確実に払うからね!
ベアトリスのことだから、こっちに遠慮しちゃいそうだし。
モグリッジ皇国に行ってもじゃんじゃん宣伝する!
いっそ専属にならない? と思ったけど、それはまたちょっと違うかなって。
もちろん、困っていたら助けるけどね。
「あの、ベアトリス、私」
「あのっ、マリアンヌ様!」
ほぼ同時だった。
お互いどうぞどうぞと必死で譲り合って、ベアトリスの方が折れた。
だって、ベアトリスの方が私になにかいいたかったんだろうし。
ベアトリスは、すでに人払いをしたというのに、なおも周囲を見渡した。
「大丈夫よ。外でも待たないようにいってあるから」
「は、はい」
ベアトリスは、今にも泣き出しそうに眉を寄せた。
「あの、マリアンヌ様。これからお訊ねすることに、心当たりがなければ、すぐ忘れていただきたいんです」
「わかったわ。いったいなにかしら?」
うーん、これは、仕事の話なのだろうか?
私は紅茶を一口含もうと、カップを持った。
「……。あ、貴女は……めーちゃん……ですか?」
カチャーン!
私は、紅茶の入ったカップを床に落とした。