story02
時間にして数秒か、数分か。
どうしようもなくなった空気を入れ替えたのは控えめに発された少年の言葉だった。
「ええっと、怪我はないので大丈夫です」
先の質問に対する答えである。
我に返ったフィオリーノは素早く反応を返した。
不審に思われることはなかっただろう。
「良かった。いや、頭から海水を浴びせてしまった点は重ねて詫びる必要があるが……」
改めて2人の状態を確認して眉を下げる。
魔法を用いれば1秒と掛からずに解決する問題ではあるが、勝手に乾かして驚かせる訳にもいかない。
近付いただけで怯えさせてしまうのならなおさらだ。
……どうしたものか。
「それよりも、あなたの方こそ大丈夫だったんですか?」
悩むフィオリーノを他所に少年は尋ね返した。
「すごい音がしたというか……たくさんの木を倒してすごいことになっていますけど……」
何とも言い表しがたい表情を浮かべながらフィオリーノの背後に視線を向ける。
ドミノのように倒された木々と、木々を薙ぎ倒したトリアクトルが辛うじて視認できる位置に転がっている様はどう言い繕っても惨状だ。
「あー……」
ほんの少し気が遠くなる。
多分、大丈夫ではないだろう。
——フィオリーノ自身は無傷なのだけれど。
トリアクトルが無事とは考え難い。
10、いや1パーセントくらいの確率で船としての役割を果たせる程度の損傷に収まっている可能性もなくはないが、期待はしない方が賢明と言えた。
「大丈夫ではなさそうですね……」
フィオリーノの反応でおおよそのことを察した少年の呟きに「いや!」と声を上げる。
「多分どうにかなる範囲だ、多分!」
虚勢や希望的観測などではなく。
専用の魔道具を使用すればトリアクトルの修繕自体は可能なのだ。
ただ、そう。
損傷が酷ければその分時間を要することになる訳で。
……修繕の間、生き延びられるかが問題という。
あからさま過ぎた自身の発言を誤魔化すかのように少年たちの方へと向き直ったフィオリーノは無理やり話題を戻した。
「俺のことは後でいい。まずは君たちだ。風邪を引く前に服を乾かすなり、着替えるなりしないと」
「それならエウリアさんが乾かせるので」
少年が少女を振り仰ぐ。
……反応がない。
「エウリアさん?」
「!」
2度目の呼び掛けでようやく気が付いたらしい。
ハッと目を見開いた少女——エウリアは一拍遅れで頷いた。
次の瞬間、風が2人を包んで水気を飛ばす。
……詠唱どころか予備動作すらないまま魔法の行使するとは。
随分な実力者らしい。
まあ、そうでもなければ丸腰という無防備極まりない格好で未踏地の浜辺を散策なんてしていないか。
ワンピースとシャツにズボン。
治安の良い街中でちょっとした買い物に出掛けるかのようなラフさに加えて武器の1つも身に付けてはいない。
大の大人も逃げ帰るようなエクストラランクの未踏地で、だ。
あまりにも不自然な彼らが見た目そのままの非力な子供である訳がない。
「名乗るのが遅れたが俺はフィオリーノ・ヴァノーニ。地図職人、って言って通じるか?」
驚きが抜けたところで姿勢を正す。
少年を抱きしめたままの少女はきゅっと唇を引き結んで喋る様子がない。
心得ているらしい少年が代わりに「はい」と頷いた。
「特殊な用紙に特殊なインクで地形を記して半永久的に更新される地図を作ってる人たちのことですよね。有名なのはレオセルファの女帝の弟で、無敗の職人って呼ばれてる人とか」
「そう、そいつだ」
統治権を得て女帝と呼ばれるまでに至った少女をレオセルファの“剣”とするならその弟は“盾”であり、彼は恭順の証として島外へと追放されてからのち、地図職人として名を上げた。
——もっとも本名については秘される場合が多く、把握していない者が大半ではあるのだが。
毎年新たに生まれる幼島はゲディオトルムを軸に渦状の移動を繰り返し、相応の年数をもって中央大陸シドゥファトリアと結合。
地続きになる。
これを防ぐ手段は“断絶の光”以外にない。
手に負えない原生の存在が住んでいたり環境汚染に繋がるような土壌だったり、危険度の高い“島”を消し去ることによって大陸は繁栄と安寧を保っているのだ。
そして、その判断材料となる情報を収集、大陸政府の該当部署に報告を上げているのが地図職人——。
公僕の“探索者”と民間の“挑戦者”。
人の足で踏破が可能であるという事実と共に地図を捧げるのは土地そのものを捧げる行為にも等しく、“挑戦者”の立場から大陸に貢献することで女帝の弟は故郷への献身を今もなお続けているのである。
因みに、専用の道具を扱うには資格を要するため公僕であるか否かに関わらず地図職人は免許制だ。
フィオリーノは少年たちに免許証を見せて職人を名乗る無法者ではないことを示す。
「まあ、見ても本物かどうかは分からないだろうが」
「……そうですね」
「敵意がないってことだけは信じてもらえるとありがたいね」
返す言葉に悩むかのように何度か口を開閉させた少年は警戒心を残しながらも「無理を強いる人じゃないのは何となく分かります」と答えた。