きょうだいではなくなったけれど
両親の再婚で血のつながらない家族となったゲイ男性・司と、7歳歳下の理人。理人は人を惹きつける雰囲気を持ちながら、どこかでそれを演じていた。きょうだいになってから7年、両親の再びの離婚ののちも、2人の縁はゆるく続いている。完結編。
チャイムが鳴った。司はキッチンから玄関に移動し、ドアを開けて理人を迎えた。
「こんばんは」
「こんばんは、」
理人はいつものはにかんだような笑みを浮かべていた。理人は今年、二四歳になる。初夏らしい清潔感のある白いシャツに、テーラードジャケットを羽織る肩は少し鋭角的になり、背も伸びた。眼差しや頬にはどこか少年らしさが残っていた。
「こんばんは。いい匂い、」
圧力鍋のトマトスープが出来上がっているから、その香りだろう。蒸気に乗ってトマトと玉葱、セロリ、ソーセージの香りがただよう。甘い香りはじゃがいもと玉葱のものだ。
代行業が司の知るところになり、理人はほどほどなくしてバイトを辞めた。美大に進学し、デザイン会社に就職して二年目だ。はじめて会った頃の司と同い年になっている。
「もう少しだから座って待ってて」
司は声をかけて、キッチンに戻った。鍋に再び火を入れ、調理を再開する。沸騰しかけていた湯はすぐに泡立った。塩を摘まみ、パスタをさっと茹でてザルで水気を切る。キッチンは暑いくらいだ。シャツの肩口でこめかみの汗を拭う。眼鏡のフレームがかちりと鳴る。
司の生活は七年前と変わっていない。千葉市内にある総武線沿いのこのアパートから、神田の税理士事務所に通勤している。恋人とは半同棲のような状態が続いている。
燈子と司の父は、理人の就職が決まった年に離婚した。だが、司と理人は月に一度は会っていて、外食をすることもあれば、こうして理人が司を訪ねることもあった。司も料理を人に振る舞うのは趣味のようなものだ。再婚直後、様子を見るために何度か実家に帰ったものの、父との関係は良くなることはない。母とも連絡は取っているが、直接顔を合わせる機会は減っている。
不思議なものだ。もともと戸籍上はきょうだいでもなかったが、義理のきょうだいという関係が消えても、理人との縁は残っている。
「朔久さん、来てたんだ?」
理人の楽しげな声がした。
「ああ、うん」
玄関のハンガーに恋人がカーディガンを掛けて行ったことを思い出し、司はそっけない返事をした。交際している恋人が、司の部屋に部屋着や私物をいくつか置いて行っている。理人はそれに気づいたらしい。隠しているわけではないし、とっくに紹介もしているのだが、理人の楽しげな口調に、妙に気恥ずかしくなる。もしかしたら、からかわれているのかもしれない。理人と朔久は馬が合うようで、仲が良い。照れはあるが、司にとって、理人と朔久の関係が良好なのは嬉しいことだった。
手洗いとうがいを済ませたらしい理人が、ダイニングの椅子に腰掛ける。
司はフライパンに油をひき、ベーコンと玉葱を炒める。カウンターごしに理人を見た。理人は伸びをして、あくびを洩らしていた。司はほっとする。
父と燈子が再婚した直後の理人は、少しくらい自分が疲れていても家事をして燈子を休ませようとするところがあった。長年染みついたふるまいのようだった。「俺がやっておくから、理人くんも休みなよ」司が交代や分担を申し出ると、はじめのうちの理人は固辞した。自分の立場や仕事が奪われることを怖れるような、子どもの顔をしていた。
父の視界にも入っていたはずだが、父は理人が家を出るまで思い至らなかったろう。
「……親父、また婚活してるっぽいんだよ」
「えっ、まだ懲りてないの」
理人は手厳しい。司はため息を吐いて、木べらでフライパンをかき混ぜる。ベーコンと玉葱は火が通り、香ばしい薫りが立ちのぼった。ほうれん草を加える。
「懲りてないんだよな」
「……というか、司さんのお母さんも、うちも結局子どもの手がかからなくなったら離婚したね」
「カネはあるし、悪い人間ではなさそうに見えるけど、だんだんアラが見えてくるんだろうな」
「……すごく悪い人というわけではないよ」
「うーん。でも話してると徒労感あるし、それを改める気もないだろ。何回再婚しても俺はいいけど、相手に悪い」
「ぼくにも弟みたいなのができるかも」
「有り得る。…いくらかカネは残してほしいのが正直なところだよ。俺は親父ほど稼げないだろうし」
「司さんでそうならぼくはどうなるのかな。……みのるさん元気? 検診引っかかったって言ってたでしょう」
理人は椅子から立ち上がり、勝手知ったる様子で台所までやって来た。母の体調を問われ、司は答える。
「再検査は問題なかったよ。燈子さんは?」
「うーん。もう少し休んでほしいかな…」
「そうか……」
司の目から見ても、燈子はきびきびと働く女性だった。理人が、なるべく燈子に負担をかけないように心を砕いていたのも分かる気がする。離婚後も、理人が家を出たあとも多忙なのは多忙なのは変わっていないようだ。「僕が子役をしてた頃、ぼくに過剰な期待をかけていたんじゃないか、いわゆるステージママだったんじゃないかと母は思ったみたいで」、燈子は理人が事務所を移ってから、仕事に打ちこむようになったらしい。理人は自分が独り立ちすれば、もう少し自分の時間を持ってくれると考えていたようだが、なかなかそうはいかないようだった。
もしかしたら、司の父との再婚の際にも、理人はワーカホリック気味の燈子の変化を望んでいたのかもしれなかった。
フライパンのなかのほうれん草がしんなりしてきた。司は薄力粉を加え、ベーコンと玉葱とともにさらに炒め、味を調える。
理人は冷蔵庫を開けた。
「このジョッキ、もしかして朔久さんの?」
「そうだよ」
一人暮らしだという割に司の家の冷蔵庫は大容量だ。ガラスのコンテナに保存された惣菜やピクルスのほかに、瓶ビールと缶ビールが数種類ずつストックされ、ビールジョッキが鎮座している。
「ビール飲む?」
理人はドアポケットのビールを見つめていた。理人がビールに興味を示すのは、司には意外な気がした。司の知るかぎり、理人は飲酒をしたことがない。飲めないのかもかもしれないと思っていたから、今まで勧めることはしなかった。そういえば、帝国ホテルのフランス料理店で燈子はシャンパンを開けていた。少なくとも燈子はまったく飲めないわけではないのだろう。
「飲むんなら好きなの持っていきなよ。ジョッキ借りても理人くんだったら朔久さんは文句言わないよ」
「好きなのって言われても…」
「缶ビールはどっちも今日の飯には合うと思う」
「そうなんだ…。じゃあこれ、いただきます」
「俺も飲もうかな。持って行ってもらっていい?」
「はあい」
理人はジョッキとビールを持ってテーブルに戻り、椅子に腰かけた。そのころには司もクリームパスタの調理を終えている。パスタを器に盛り、圧力鍋の野菜たっぷりのトマトスープと、すでにつくり終えてカウンターに置いてあるサラダをテーブルに運ぶ。
司もテーブルに就き、缶をを開けてジョッキに注いだ。理人は小さく礼をして、なみなみと注がれた琥珀色のビールを見つめた。とくになにがめでたいわけでもないが、軽く乾杯をする。
「いただきます」
「どうぞ」
理人はジョッキを傾ける。果実のような甘い匂いが、炭酸の泡となって弾ける。数口飲んで、ジョッキを置いた。ビールを飲んだことはないが、予想したような苦味はない。舌と喉にかすかな辛さと、爽やかな甘さが残る。複雑で、優しい味だ。美味しい、と思った。
「父が……」
飲み慣れないせいか、体温が上がるのが自分で分かった。
「父が……実父、血がつながった父のことなんだけど……飲むと殴る人で、あんまり人のいるところで飲みたくないんだ」
司が言葉を探していると、理人はサラダにトマトとレタスを刺して、大きな口を開けて頬張った。口をもごもごさせて、
「って言ったら信じる?」
と訊ねる。
「誤魔化すなよ」
理人は小さくかぶりを振って、サラダに続いてスープに手を伸ばした。大きめに切られたにんじんやじゃがいも、茄子、たまねぎに、セロリが混じったトマトスープは、夏が近い味がする。
「まあ多少暴れようが吐こうが、まあ、司さん家だし」
「理人くんが暴れるとは思わないけど。吐きそうになったら事前に言ってほしいな」
理人は軽口のつもりだったのだが、司は何割か真面目に受け取ったのかもしれない。視線がバスルームの方に行き、戻ってくる。食事中にする話題ではなかったかもしれない、と理人は内心反省したのだが、司は気にした様子はなかった。カフェオレボウルを傾け、スープをかき込んでいる。司は食べっぷりがいい。
理人もスープを飲み干し、フォークでクリームパスタを巻き取って食べた。クリームソースにベーコンの塩味が染み出している。つるつると食べてしまえるのが、少し勿体ないくらいだ。
「ごちそうさまでした」
理人は食事の前と同じく、小さくお辞儀をした。
「美味そうに食べてくれてありがとう」
玄関のベルが鳴った。司と理人は振り返る。
「ただいま。司くん、俺の分の飯残ってる?」
朔久の声だった。
「朔久さん、おかえり」
司は席を立って、台所に戻る。
「おかえりなさい」
「理人くん。来てたんだ」
理人が玄関を覗くと、仕事帰りらしい朔久と眼が合った。朔久はニッと笑い、理人も微笑んだ。朔久は司より二つ歳上だというが、しなやかな身体つきをしていて、ほっそりとした肩に、カメラとカメラバッグを提げていた。重たげに見えるが、本人は慣れたもののようだ。理人の知る限り写真家というのは警戒心を解くのが巧みだけれど、その中でも朔久は気さくで、信頼のできる人物だった。
いまさらしょうがないけれど、子役をしていた頃に出会っていれば何かが違ったかもしれないと理人は思う。
朔久も手洗いを済ませて、カウンターの向こうの台所に入った。圧力鍋を開け、トマトスープをよそっている。司はクリームパスタをレンジで温め直している。再びトマトとクリームの匂いが漂ってきた。理人はいい心地だった。慕わしい人たちがいて、美味しい夕食で腹が満たされている。子どもの時分にはあれほど怖ろしかったアルコールも、満たされた気分だけに寄与している。
少し酔っているせいか、耳がじんわりと温かい。
理人は穏やかに、あたたかな空気を呼吸する。