「あなたみたいなお兄さんがほしかったんだ」という言葉を義弟が俺以外に言っていた件・続
25歳のゲイ男性・司。疎遠になっていた父が再婚し、人目を引く容貌をもつ高校生「理人くん」と血の繋がらないきょうだい関係となった。「理人くん」は「ぼく、司さんみたいなお兄さんがほしかったんだ」とはにかみつつ口にする。司は良い関係を築きたいと願うが、偶然「理人くん」がべつの男性にも同じ言葉を言っている現場を見てしまい…?
「司さん?」
司は屋上庭園の睡蓮の庭にほど近いベンチで理人を待っていた。理人はまだ電車に乗ってはいなかったらしい。二〇分と経たず、司の待っている西武の屋上までやって来た。
陽が沈むと、春めいた陽気は一転し、ひんやりとした夜風が吹いている。それでも金曜の夜には屋上庭園にはそれなりに人出もあり、フードコートの周辺のざわめきが聞こえてくる。理人は先ほどと同じ、琥珀色のチェスターコートにパーカー、ジーンズを穿いていた。司はトレンチコートの襟元に埋めていた顔を上げて、理人を見る。
「寒くない? 建物の中の店にすれば良かったかな」
「ここでいい。大丈夫」
理人は頷き、司の隣に腰を下ろした。
「理人くん、何か食べる? 何か買ってこようか」
「ぼくはお腹減ってない。司さんは?」
さっきまでパフェ食べてたもんな、という意地の悪い返事が脳裏を過ったが、司は口にはしなかった。
「俺も今はいいかな」
理人の声ははじめて会ったときよりも硬質で、窺うような響きがあったが、もしかしたら、司の心情でそのように感じるのかもしれなかった。態度が硬化しているのも、理人の反応を気にしているのも司のほうなのだろう。
「さっき仕事の帰りに理人くんを見かけて、……声をかけようと思ったんだけど、誰かと待ち合わせしているみたいだったから、追いかけた」
「尾けたんですか」
理人は思いのほか直接的な、いささか人聞きの悪い言葉を使った。理人がそういう言葉使いをするとは思っていなかったので、司はハッとする。
「……ごめん」
屋上庭園に造られたモネの庭を模した池には夜が映っている。睡蓮の漂う水面は暗く、奥底の知れない沼のように見える。
「理人くん。……きみ、誰にでも『兄が欲しかった』って言ってるのか?」
理人は司の顔をじっと見つめた。鹿のように黒々とした大きな虹彩が一瞬、水面のように凪ぐ。かと思うと、理人はかたちのいい眉の尾を下げた。「どこから話せばいいかな」
理人は少し困ったような笑みを浮かべて、
「ぼく、二年くらい子役をしていたんです」
と、話しはじめる。
「十歳くらいから、二年くらいかな。そこで知り合った人が独立することになって、ぼくは中学校に上がるころにはほとんど芝居はしてなかったんですけど。それまで少しだけテレビに出ていたので、籍だけ移したんですね。義理のようなもので。そのあと、その移籍先の所長が、代行業も手がけるようになって」
「代行業」
「家族とか、友人代行とか」
「彼氏とか彼女とか?」
「僕は未成年なので。彼氏代行は二十歳以上って規約があります。お酒飲めるお店に行きたいってお客さんも多いみたいですし。ウチでは、身体接触はナシなんですけど」
危険なことはしていない、と理人は言外に語っている。
「燈子さんは知っているの?」
理人の眼が、刹那の間、静止した。
「母は事務所を移った、というところまでしか知らないです。学校はバイトが許可制なので」
「言ってないのか」
「母ひとり子ひとりで、お金に困ってると思わせたくなかったんです。母に伝えてないのは、だからです」
「俺には未成年が一人でやるには危ない仕事に思える」
「今日、一対一になったのはたまたまです。あまり多くはないです。弟代行ってあまり需要がないんです。さっき言ったように、彼氏代行は二十歳以上ですし、子役が必要な場面ならもっと年少の子が行きます」
「…理人くん。答えになってない」
「家族代行が必要な場面があります。……司さんには分からないかもしれないですけど」
理人は唇の端をつり上げた。昏いような笑みだった。
司は言葉を重ねる。
「俺は成人で年長者だから、理人くんが危ないことをしていたらやめてほしい。理人くんはたぶん自分で思ってるより、危ないことをしてるよ。俺にはやめさせる責任もあると思う」
「…司さんは、ぼくの家族でも、なんでもないのに?」
理人の顔になまなましい影のようなものが過ぎり、しかしその表情もすぐに消える。
「戸籍上は、そうだね……。俺は母の籍に入ってるから、きみとは家族じゃない。でも俺は大人だから未成年が危ういことをしてるのを見たら止めるし、理人くんとは良い関係を築きたいと思ってるよ」
司は眼鏡のつるを避けてこめかみを押さえた。そのままスーツの両膝に頭を埋めるように、頭を抱えた。
「でもこの『良い関係』って、理人くんが自分が思ってたのと違うと思ったら、勝手にがっかりする程度のものでもある……」
司は髪をくしげずり、息を吐く。
理人は池のほうを見た。ほとりに植えられた柳の枝が揺れている。
「司さんは素直でいいね。素直で、まともだ」
池に架けられた、緑色のペンキで塗られた橋のうえを、二人連れの影が渡っていく。人影からは性別も関係性も判別がつかないが、親しげな様子だった。
理人は息を吐く。
「司さん、ぼくはその場かぎりの嘘をつくのがけっこう得意なんだよ、」
理人はベンチから立ち上がった。春の夜風はいよいよ冷たくなってきている。理人はコートの襟元に顎を埋め、司を振り返った。
「画材を買って帰りたいから、付き合ってもらってもいい?」