「あなたみたいなお兄さんがほしかったんだ」という言葉を義弟が俺以外に言っていた件
「ぼく、司さんみたいなお兄さんがほしかったんだ」。父の再婚で血のつながらない弟になった高校生の理人。理人ははにかんだような笑みを浮かべた。8歳歳上の司は父との関係や男性性に悩みながらも良き兄になりたいと願う。しかし理人には謎めいたところがあり…。
連絡先を交換したのち、理人は何枚か美術部や予備校で描いたという絵を送ってくれた。美術室で見たような石膏をデッサンしたものを数枚と、花を描いたもの、静物を描いたものと抽象画だった。丹念に描き込まれた石膏デッサンは素人目にも違和感がない。司には絵の専門的な知識はないが、理人の絵は好ましい感じがした。
「画材が好きで」
「日本画をやりたいと思ってるんです」
理人がその日送ってくれた絵には、ピンク色のヒヤシンスが描かれていた。窓際に置かれたガラスの器で水耕栽培されている。白い根の広がりや、ガラスや水のきらめきも美しいが、とりわけひとつひとつの花の中央に向かっていくグラデーションが美しかった。
司はメッセージアプリに言葉を連ねながら、よく分からないのに褒めているのが丸わかりかもしれない、と思った。
「気に入ってくれてありがとう」
心底好ましいと思っている、と司は送信した。
決して理人と上手くやっていきたいから、気に入られたい気持ちが先にあって褒めているわけではない。
「わかってます」
理人が少し困ったように眉尻を下げて微笑んでいるような気がした。
父と「燈子さん」は春期休暇中、金沢に二泊の旅行に行くと言って出かけて行った。司の気にかかるのは、家で一人で過ごすことになる理人のことだ。週末には様子を見に家を訪ねよう、と思っていた。夏川税理士事務所は、三月に確定申告シーズンを終え、四月中旬からは五月の法人決算に向けて再び繁忙期が待っているが、四月の第一週は少しスケジュールに余裕があった。司は相馬に連れられて池袋の顧客を訪ねている。確定申告の報告と節税の提案をしたあとは、直帰が許されている。相馬はそのまま帰宅するらしかったが、司は何か腹に入れることにした。むしろ、池袋の外出業務が決まったときから、それが楽しみだったのである。池袋西武の屋上にはモネの絵画を模した庭園がある。フードショップのうち、司のお気に入りはイタリアンだった。司は池袋西武の看板を見遣った。司は春物のトレンチコートをはためかせながら、明るい足取りで東口前の横断歩道を渡る。風はふわふわと暖かい。夕暮れの時刻の庭園は美しく、ピザもハイネケンもきっと格別に旨いだろう。
信号機が瞬きはじめて、司は歩調を速めた。道路を反対側に横断しようとしている女性がヒールの靴で小走りに駆けだす。また別の歩行者は次の青信号を待つことにしたらしく、歩道で足を止めた。その背後の「池袋駅東口」の表示の下には数人、待ち合わせしているらしき姿があった。看板の陰から信号機の様子を気にしている者もいれば、そうでもない者もある。
司の心臓が跳ねた。
理人がいた。
司は眼鏡のレンズ越しに眼をすがめる。理人は琥珀色のチェスターコートを羽織った背中を丸めて、スマートフォンを見つめている。どことなく人目を引きつける佇まいは、間違いがなかった。声を掛けようとして、司はためらう。友人や、彼氏や彼女との待ち合わせだとしたら、理人が気まずい思いをするかもしれない。
司は父や燈子のいないところで理人を見かけたのははじめてだった。そのために、理人からよそよそしさを感じた。瞬間どきりとしたのもそのせいだった。
躊躇しているうちに、理人の表情がぱっと明るくなった。待ち合わせの相手が現れたらしい。司とそう変わらないだろう二十代半ばの男は理人と二人は並んで歩いていく。司は距離を取って二人を追いかけた。まるで尾行でもしているかのように。
小走りに近づいて呼びとめても不自然ではないはずだ。連絡先は交換しているのだからメッセージを送ってもいいし、電話を掛けてもいい。だが、第一声に何と言えばいいのだろう。
ストーカーじみてないか? たとえ理人くんが兄のように思ってくれたとしても、プライバシーの侵害ではないか? これは信頼を裏切る行為ではないのか?
自分の行動を誤魔化すかのように、司は雑踏に紛れて二人の背中を追いかけていく。
理人と二十代半ばの男ははグリーン大通りをしばらく進み、二つ目の交差点沿いのビルに入った。一階の店舗の横に、螺旋階段が備えつけられている。階段の手すりは建物の年季を感じさせるもののよく磨かれた金色だった。二人は二階の喫茶店に向かったらしい。司は彼らの姿が見えなくなってから階段を上った。
ガラス扉の横のガラスケースには、星を模しているらしいクッキーやアイスクリーム、フルーツで飾られたパフェやクリームソーダのサンプルが並んでいる。
司は中を窺いながら、ガラスの扉を開いた。池袋の駅前にしてはやや広めの敷地面積だった。金曜の夕方という時間帯のせいか、席は八割方埋まっている。若い女の子連れやカップルが多い。西日を避けるためにほとんどの窓にはブラインドが下ろされていたが、天井には天の川を模したイルミネーションが輝いている。店内は全体的にレトロでポップな雰囲気だった。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
店員は80年代を想起させるピンク色のエプロンを着用していた。
「一人です。……あの」
司は二人の姿を見つけ、そのあたりを示した。
「あのへんの席がいいんですが」
「空いているお好きな席にどうぞ」
理人はちょうど店の奥のほうを向いていた。司は店員に礼を告げ、二人と観葉植物を隔てたブロックのテーブルに着いた。距離は近いが理人からは死角になっている位置だ。
耳を傾けるとざわめきに潜んだ話し声が漏れ聞こえてくる。司と同年代くらいの男は、紺色のジャケットに白いシャツというモノトーンに近いいでたちだ。男は端で聞いていても浮かれている様子だった。ジャケットを羽織ったままであるため少し暑そうだが、そのまま一方的に話し続けている。理人はにこにこと相槌を打ちながらメニューを開いた。男の注文を訊ね、店員にパフェとチョコレートドリンク、メロンソーダを注文した。
男が注文したチョコレートドリンクには丸いアイスクリームと星形のクッキーが浮かび、メロンソーダは生クリームで彩られていた。男のパフェはチョコレートアイス、理人のパフェはキャラメルでデコレーションされている。
注文内容が揃い、パフェを突つきながらも、もっぱ喋っているのは年長の男のほうだった。
「理人くんは学校でなにか、ないの?」
話の内容はすべては聞こえなかったが、天気の話であったり、男の勤務先の話であるようだった。司もメニューを開いた。店員のよく通る声にひやりとして理人の様子を窺いながら、司はオリジナルのブレンドコーヒーをオーダーした。コーヒーは星のかたちのポットに淹れられ、カップとソーサーとともに運ばれてきた。司はなるだけ静かに、カップにコーヒーを注ぐ。
「ぼく、あなたみたいなお兄さんがほしかったんだ」
まだ熱いコーヒーが、司の指に跳ねた。
司は呆然と理人を見つめた。理人はあのはにかんだような笑みで、司に対して口にしたことと一言一句変わらないことを言った。
司はしばらくポットを傾ける手を止めていた。
一分程度だったのかもしれないし、もっと長い時間が経過していたのかもしれない。コーヒーを飲まないと、と我に還った。一杯分をカップに注ぎ、飲み干した。酸味と苦みに、少し我に還る。ポットの容量は二杯と半分ほどだった。
いつの間にか、理人と男の姿は消えていた。司も三杯目のコーヒーをすすって、店の外に出る。
どういうことだったのだろう、あれは。
はじめて会った日、理人は心にもないことを言ったのだろうか。そもそも今あったことは現実だったのだろうか。よく似た別人ではないのか。
信じられなかったが、コーヒーを飲んだあと喉と胃に残るかすかな重みが、今見聞きしたことが現実だと訴えている。カフェにいるあいだに陽は傾いて、紺青の空に池袋西武の照明が灯っている。駅に向かう歩道を進むうち、ポケットのスマートフォンが振動した。手に取ると通知が入っている。セールのお知らせ。気に入っているコーヒーショップからのお知らせ。
司は少し迷ったすえ、理人にメッセージを送る。
「話がしたい。池袋西武の屋上に来れる?」