サクラの家
ひらりひらりと、淡く色づいた花びらが宙を舞っている。薄紅色の吹雪の中心には、黒っぽくゴツゴツした太い幹があり、見事な枝を広げていて、長年ここに鎮座していることを窺わせた。満開に咲き誇った可憐な花たちは、風に吹かれては大樹の足元にピンク色の絨毯を敷き詰めている。
「見事な桜だな」
大きな窓ガラス越しに桜の木を見つめ、茶を啜りながら奈染解が思わず呟くと、ふふっと自慢げに笑う声が聞こえた。
「でしょう、我が家の自慢なの!」
「だろうな」
山盛りの茶菓子が乗ったトレイを持って戻ってきたこの家の住人、鏡宮光に、解は短く返した。
家の造りを見れば、この桜の木を家主がどれだけ愛しているかがよくわかる。
今いるリビングの中央は吹き抜けになっており、一階部分と二階部分に、大きなガラス窓がある。それはまるで、庭の桜を飾る額縁のようで、桜を見るために造られた窓に違いなかった。右側の窓も大きく、外にはウッドデッキがある。そこに座り、外で桜を眺めるのもいいだろう。左側のダイニングキッチンにも大きな窓があり、料理をしながらも、食事をしながらも桜を楽しめそうだった。
何をするにも、庭の中央に咲き誇るが目に入るように作られている。
「前の家の時は縁側に座って花見をしてたけど、建て替えた時に室内からもよく見えるようにしたのよ」
「桜以外も綺麗な庭だしな」
桜を中心に整えられた日本庭園風の庭は、四季折々に花をつける草花、紅葉や楓などがあり、季節ごとに色を変えて楽しませるように作られていた。
「でしょう。さすが解くん、わかってる!」
「だが、オレは花見を楽しむため来たわけではなく、謎解きが出来ると聞いて来たのだが?」
正面のソファに座り菓子に手を伸ばした光は、不服そうな解に笑顔を向けた。何も知らない男子なら、ちょっと勘違いしかねない愛らしい笑み。だが解は、光のことを良く知っている。これは裏がある時の顔だ。
「もちろんこれからしてもらうわよ、謎解き」
「……まさかとは思うが、隣の家の火事とは関係ない――」
「さすが、よくわかったわね‼︎」
言い終わるより速く光に笑顔で肯定をされ、解は深く溜息をついた。
隣の家に火災があったのは、来る時に気づいていた。まだ焦げ臭さもあり、火災があってからまだ日が浅いことが推測できた。幸いにも鏡宮の邸宅には被害は無さそうだったので、光に聞くことはしなかったのだが……。
「鏡宮……僕が好きなのは謎解きゲームであって、事件の解決ではないぞ。そもそも、物語のように素人の学生が事件に口を出すなんてありえないし――」
「いいから、聞いて?」
「……」
解は大人しく口をつぐむ。
口元には笑みを浮かべているが、光の黒い大きな瞳は笑っていない。反論は認めないと言っているかのようだ。持ってきた菓子の量といい、お茶のおかわり用に大きなペットボトルが用意されている辺り、すぐには帰さないという意志を感じさせた。
「何?」
解が聞く姿勢を見せると、光は肩にかからない長さの艶のある黒髪を耳にかけ、満足したように笑んだ。黙っていれば美人なのに恋人が出来ないのは、この無言の圧力のせいではないかと、解はそっと思う。
「一昨日の今くらいの時間に、隣の二階の部屋で小火があったのよ」
解はチラリと時計に目をやる。今は午後三時くらいだ。
「その原因を、うちの弟のせいじゃないかって隣のおばさんが言ってるの。そんなわけないってわからせたいのよ」
「それこそ、警察や消防の仕事だろ? 帰っていいか?」
「ダメに決まってるでしょ。最初から話すとね」
間髪入れずに却下し、話を続けようとする光。
解はそっと天を仰いだ。
光と出会ったのは一年前、高校に入学した時だ。互いに謎解きが好きだとわかり、親しくなった。それから、イベントなどをリサーチして情報を交換し、色んな謎解きゲームを共に楽しんできた。
春休みの今日、場所が光の自宅だったにも関わらず、オンライン上や光自身が考えた謎解きなのかと勝手に思い込み、信じて疑わなかったのは己のミスだ。
聡い光が、素人の考えを公的機関の人間にぶつけるはずはない。隣人に反論できる材料が欲しいだけだろう。ある意味これは、光の満足のいく答えを導き出さない限り、彼女のテリトリーから逃れられない脱出ゲーム。早急に逃れるには話を聞くしかないと、解は結論付けた。
「うちの弟、映って言って、この春から中二になるんだけど、この半年不登校なのよ。そのきっかけが、今回小火にあった部屋の持ち主の咲良ちゃん」
咲良の名前を口にした途端、光の顔が曇った。隣家で燃えた形跡が見えたのは一室だけだったが、人的被害はわからない。
「……火事で誰か被害に?」
安否によっては、事の重大さが変わる。
思わず口を挟んだ解に、光は目を伏せて答えた。
「咲良ちゃんが煙を吸ってしまって、一時意識不明だったわ。命に別状はないみたいだけど、まだ事情聴取ができる状態じゃないみたい。他の家族は大丈夫だったそうよ」
「そうか」
「咲良ちゃん、例の感染症にかかってて自宅療養中だったの。それは軽症らしいけど、感染症のせいで搬送先がなかなか見つからなかったみたいで、処置が遅れたのよ。早く良くなってくれればいいけど……」
祈るように、膝の上で合わせた手をぎゅっと握る光。咲良のことを心から心配しているのが伝わってくる。
「弟の不登校のきっかけではあるが、彼女自身のせいではないんだな」
「うん。咲良ちゃんは可愛くて、すごく優しい子なの。映とも小さい頃から仲良しよ。毎年うちで一緒に花見したりね。ただ、その関係が気に食わない奴がいたみたいでね……」
光の眉間にシワがよる。
「咲良ちゃんは映の二個上で、見た目も中身も可愛いからモテるの。でも、男子は苦手であまり話したりしないのよ。それなのに、一年に入学してきたうちの地味な弟には笑顔で話しかけたり、じゃれついたりするわけ」
「それを見た彼女に惚れてる三年男子が、弟を虐めたってことか」
「そ。運悪く、そいつが部長の部活に入っちゃったのよね、映。明らかに一人だけしごかれてるのに、そいつが教師の前では優等生だから、先生たちも虐めてるってわかってくれなくてね。夏休み明けから学校行けなくなっちゃったの」
弟がいるであろう二階に視線を向ける光。姉として弟を案じている眼差しだ。仲がいい姉弟なのだろう。
「だったら、弟が火をつけるなら隣家ではなく、虐めた男の家だろう? 何故隣家に、弟が原因だと疑われるんだ?」
光は視線を正面の解に戻すと、プルンとした唇を尖らせた。
「そうなのよ。咲良ちゃんは自分のせいだって気に病んでたけど、映はそうは思ってないわ。少ない小遣い貯めて、咲良ちゃんに入学祝いのプレゼント買ってたし、恨んでなんかないわよ。それなのにさー」
怒りを飲み込むように、光は冷たいお茶をごくりと飲んだ。ふぅ、と一息つき、まるで疑っているのが解であるかのように睨みながら口を開く。
「隣のおばさんが、火事のあった日、映が咲良ちゃんの部屋に何かを投げてたのを見たって言ってるらしいのよ。火事はそれから数時間後だったけど、窓ガラスが割れる音がして咲良ちゃんの部屋に行ったら窓付近が燃えてたから、映が練習した後、今度は火のついた可燃物を投げ入れたんじゃないかって」
「随分と乱暴な論理だな。弟は何て言ってるんだ?」
「咲良ちゃんのことがショックだったのか、あの日から何も話さないで部屋にこもってる。おばさんは、咲良ちゃんの部屋に火の気はないはずだから、誰かが何かを投げ入れて放火したはずだって騒いでるみたいで」
唇を尖らせている光を見つめながら、解は口元に指をあてて疑問を口にする。
「窓ガラスが割れた時に火災が発生したなら、すぐに駆けつけた家族は大丈夫で、幼馴染だけが未だ事情聴取出来ない程煙を吸い込むのはおかしいだろ。家族が部屋に行くのに何分もかかるほど豪邸でもないし、本人が寝ていたとしても、ガラスが割れる音で起きるだろう。消防は出火原因を突き止めてないのか?」
放火と判断されて弟が疑われているのか、出火原因も含めて隣人の思い込みによるものなのかで、話は違ったものになる。出火から二日経ち、放火か、そうでないかくらいはわからないものなのか。
「澄玲が……あ、咲良ちゃんの姉で、私たちと同じ年ね。彼女が言うには、なんか消防の人も悩んでるみたい。漏電の形跡もないし、何とかは条件的に当てはまらない状況だしとか」
「何とかってなんだ?」
「澄玲がそう書いてたのよ。わからないわ」
光は小さく肩をすくめた。
火災の後でまだ家に戻れない上に、咲良が感染症陽性の為、濃厚接触者の家族はホテルで自粛中だ。その為、光は澄玲とSNSのメッセージでやりとりしていた。ヒステリックになっている母親の愚痴を送られてきているだけなので、詳細まではわからないのが実情だ。
解は長いまつ毛をふせて、ゆっくりと思考する。
窓付近が燃えていたにも関わらず、咲良が意識を失うほど煙を吸ってしまったのは、おそらく眠っている間に煙が充満し始め、煙を吸って意識を失い、火災の熱によって後から窓ガラスが割れたからだろう。そうでなければ、そんなに煙を吸う前に逃げられるはずだ。
消防もそれくらいはわかっているはずなのに、出火原因がわからないのは何故か…。
「燃えた部屋を、この家から確認できるか?」
「正面は弟の部屋だからちょっと無理だけど、私の部屋からでも少しは見えるわよ。あ、でもビニールシートはられてて、中までは見えないけど」
「それで構わない。部屋に入っても?」
「いいわよ」
異性を部屋に入れたくないかと、気遣う声音で訊いた解だが、光はあっけらかんと了承する。あまり気にしないタイプなのか、異性として意識されてないのか……。中性的だと言われる自分の容姿を鑑み、両方だと心の中で結論づける解。少しもやっとしながら、光の後ろについて二階にあがる。
「……すごいな」
階段を登ると、満開の桜の花が見えた。吹き抜け上部の窓が正面にある。廊下の吹き抜け側はガラスフェンスになっており、桜を見るのにも邪魔にならないようになっていた。桜の向こうから陽光が差し込み、眩しいくらいだった。
「ここで花見してもいいくらいでしょ」
「あぁ。本当に桜が好きな家なんだな」
「そうね」
光はふふっと笑うと、解に二階を案内する。
吹き抜けを正面にみて右側に両親の寝室、右に曲がると父親の書斎とトイレがある。吹き抜けの左側が光の部屋で、その対面が映の部屋だ。
「どぞー」
光に促され、解も部屋の中に入る。正面の庭が見える窓の下ベッドがあり、部屋の左側の窓の下に机があった。ドアの横がクローゼットになっている。他には角に本棚があるだけで、ウッドテイストのシンプルで落ち着きのある部屋だ。本棚の中身が、謎解きとミステリーの本で埋められているのが光らしい。
解はドアを閉めようとし、驚いて一瞬動きを止めた。
「知らないと、驚くよね」
「……そうだな」
クスッと笑われ、解は恥ずかしさを誤魔化すように低めの声で答えながらドアを閉める。ドアの内側は、全面鏡になっていた。それに気づかず、扉の陰に誰かいたのかと驚いてしまったのだ。
「うち、名前の通り昔から鏡関係の仕事やってるのよ。それで、やたら鏡の多い家なのよね。ドアの裏が鏡なのも、出る前に身だしなみちゃんとしなさいって祖母の教えで、各自の部屋はみんなそうなってるのよ」
「そうなのか。鏡になっている割に、重くないドアだな」
閉めた時も、普通のドアと同じ感覚だった。軽く作られた鏡なのだろう。歪みのない美しい鏡だが、自分ならこんなに大きな鏡は落ち着かないと、解は思った。
「普通のドアに、軽い鏡をつけてるの。外すことも簡単に出来るわよ」
「へぇ」
さぞかしいい値段の鏡だろうと、解が値踏みしている間に、光は左側の窓にかけられているレースのカーテンを開け、机のわきに立って解を手で招いた。解が隣に立つと、窓の外に視線を移す。
「私の部屋の向かいが澄玲の部屋。で、あっちが咲良ちゃんの部屋ね」
澄玲の部屋の窓と光の部屋の窓は、ちょうど正面にある。咲良と映の部屋も同じようになっていた。隣家の窓との距離は、一メートル半くらいだろうか。
「隣が近いのに、不透明ガラスじゃないんだな。窓も大きいし、開けたら互いに丸見えだろ?」
「そうね。でも、仲が良いから気にならないし、窓越しに会話もできるから楽しいわよ?」
「女同士ならな。弟は気まずくないのか?」
「2人もよく話してるわよ。ま、基本レースのカーテンかかってるし、着替えの時は遮光カーテンひいてるし、問題ないんじゃない?」
本当に仲の良い幼馴染らしい。子供の頃はともかく、年頃になると色々気にならないかと解は思うが、この幼馴染たちは問題ないようだ。
「もし窓から何か投げ込まれたとしても、咲良ちゃんの部屋なら道路からでもできると思うのよね。映を虐めてた奴、卒業式の後に咲良ちゃんにフラれたらしいから、その腹いせにやったって事はないかしら」
光はビニールシートがはられた咲良の部屋を見つめながら腕を組み、眉間にシワを寄せてそう言った。
解は小さく首を振る。
「無理があるな。燃えた跡が激しいのは、道路側の窓よりこの家側の窓だろう。外から投げ入れるなら道路側の窓だろうし、そもそも火事の原因は発火物を投げ入れられたからではないと思う」
「やっぱりそうよね」
光はあっさりと解の言葉を受け入れた。分かってはいたが、ムカつく男のせいだと一度は思いたかったのだろう。
しかし、放火でもなく漏電でもないのなのら、発火の原因はなんなのか。万が一こっそり喫煙していたり、アロマキャンドルを焚いていたなど火の気があったなら、調査ですぐわかるはずだ。部屋の一部が燃えた程度なら、火災原因の判明がそこまで難しいとは思えない。
「この日当たりなら、収斂火災もないしな……」
解はその確認のために部屋を見に来ていた。
「しゅうれん火災?」
光は初耳だったらしい。小首を傾げて解を見ている。
「拡大鏡やペットボトルなどによって太陽光が収束し、可燃物が発火して火災の原因になることがあるんだよ。虫眼鏡で火をつけるのと同じだな」
「解くんは、それが原因だと思ったの?」
見つめる光に、解は小さく頷いた。
「あぁ。火の気のない場所での発火ならそれもあるかと思ったが、この時間の彼女の部屋なら無理だな。姉の部屋やこの部屋ならあり得そうだが」
「えっ」
光は焦ってキョロキョロと自分の部屋を見回す。
太陽光は、桜が見える窓から差し込んでいた。
「たとえば、桜を見ながら勉強しようとして机をこの窓際に置き、カーテンを開けていたとする。そして、机の上にメイク用の拡大鏡が置いてあったとしたら……」
「今の時間だと結構日差しが入ってくるから、拡大鏡に光が当たり、反射した先の本とかが燃えちゃう可能性があるってことね」
さすが光は理解が速い。解が言わんとしたことを代わりに口にしていた。
「そう。この家に鏡が多いなら、知ってた方がいいと思う」
「そうね、母にも言っておこう。あと、澄玲にも」
言いながらふと何かを思い出したのか、光は咲良の部屋のある方に視線を向けた。
「そういえば咲良ちゃん、窓際に映がプレゼントした拡大鏡置いてたな。火事でダメになっちゃったかな……」
少し切なげな光。解はそんな光の横顔を見つめながら口を開く。
「入学祝のプレゼントって言ってたやつか?」
「そうよ。高校生になったらメイクするかなって、映がプレゼントしたの。咲良ちゃん、映から見える場所に置いてくれてたのよね」
互いを思い合う二人を、光は温かく見守っていたようだった。そんな二人を知っているからこそ、隣家の母親に弟が疑われたことが許せないのだろう。
「今年は咲良ちゃんの大好きな花見もできてないし、念願のスマホも買いに行く前に感染症だし、火事まで起きて、ほんともうなんであんないい子が……」
神様を恨むように、天を睨む光。解は口元に指を当てた。
「スマホ持ってなかったのか? 弟と彼女はどうやって連絡していたんだ?」
「咲良ちゃんの家は厳しくて、スマホは高校からなのよ。卒業式終わって買にいこうとしてた矢先に自宅療養になっちゃったの。うちは中学からOKなんだけど、映は夏休みに買いに行こうとしてたら不登校になっちゃって、そのまま買ってないのよ。だから、いつもは窓越しに手を振って合図したり、窓が開いてたら声をかけたりするか、私と澄玲に連絡頼んだりしてるわ」
「……弟が何かを投げていたのは、彼女に伝えたいことがあって合図を送っていたってことはないか?」
解の問いに、光の大きな瞳をパチパチと瞬かせた。
「今までそんな事してるのを見たことはなかったけど……、私は出かけてたし、咲良ちゃん、映の部屋側の窓は、感染症だからって気を遣って開けてなかったわ。窓際にいなかったら、大声で呼ぶよりは、ノックがわりに何かを当てて気づいてもらおうとしたのはあるかもしれない」
言いながら、うんうんと納得したように頷いている光。解は光の言葉のかけらから、ある推測が組み立てられはじめていた。
「火事のあった前後、鏡宮は家にいなかったんだな」
「そうよ。両親も仕事でいなかったし、家にいたのは映だけ。火事があった時間は、リビングで寝てたみたい」
「そうか……」
解はゆっくりと移動し、ベッドの横からレースのカーテンを少しひいた。隙間から桜の花が綺麗に見え、同時に眩しい光が差し込んでくる。
パチリパチリと、謎のピースがはまっていく音が、解には聞こえた気がした。
光の部屋のドアを開けると、正面に映の部屋のドアがあった。そのドアを見つめて動かない解を、背後から光が覗き込む。
「何か気になる事でも?」
「……弟の部屋とこの部屋は左右対称か?」
「クローゼットの位置が違うけど、だいたいそうよ。家具の配置も似た感じ」
「そうか」
短く返事をし、解はドアを閉める。そして、目の前の大きな鏡を見つめ、会ったことのない映を思い浮かべた。
楽しみにしていた花見も、新生活の準備もできずに、部屋で療養している大切な幼馴染。感染を考えて窓を開けて話すこともままならない中、映は咲良のためにある事を思いついたのではないか……。
「解くん、何かわかったわね?」
「え、いや?」
背中越しの光の言葉に、思考の海に沈んでいた解は無意識に噛んでいた指を離すと、焦って振り返った。
仮説はたてたが、確証はない。映の行動が想像通りだったとしても、それが火災につながるか定かではない。可能性の一つであり、事実かどうか実証はできないし、事実だったとしても、それは光の望む答えにはならない。
「何か閃きそうだったけど、気のせいだったみたいだ」
「どうして嘘をつくの?」
苦笑を浮かべて誤魔化そうとした解だったが、真顔の光に詰め寄られる。光のハッキリとした顔立ちは美人の部類に入ると思うが、じっと睨む様に見つめられると迫力があって怖い。
「別に嘘なんて……」
さらに一歩詰め寄られ、解は言葉を飲み込んだ。
「あのね、解くん。解くんは無意識かもしれないけどね」
言いながら、光は解の右手を掴み、解の視線の高さまで持ち上げる。
女性の部屋で二人きり。手をとられ、綺麗な顔が間近に迫るシチュエーションなら、違った意味でドキドキしたいものだが、今は色恋のかけらもない緊張で心拍数が速い。
「解くんは、何か思いついて考え始めると、指を口元にあてるの」
光の視線が解の男性にしては細い指に向けられ、そして解の瞳をとらえる。その真っ直ぐな眼差しは、光が確信を持っている時のものだ。
「それでね、自分の中で答えが出ると指先を噛むのよ。今、噛んでたわよね」
「いや、そんなことは……」
「あるわよ。今、指を噛んでいたし、つまりは何か解くんなりの答えを出したってことよね。どうしてそれを隠すの?」
ぎゅっと手首を握られ、真剣な瞳で眼前に迫る光。背後には扉があり、これ以上下がることもできない。逃げ道はなさそうだ。
「……あくまで仮説だからだ。なんの確証もない」
「実際の現場も見れないのに、確証が得られるとは思ってないわ。仮説でいいから、聞かせて」
「……」
光が望んでいるのは、最初から火災の原因究明ではなく、弟が咲良を傷つけようとしていないという立証だ。それを隣家の母親にわかってもらえればそれでいい。それはわかっているが……。
「いいから、言いなさい」
ためらっていると、笑顔でぎりぃっと手首を力強く握りしめられた。パワハラじゃないかと思いつつ、解は観念して口を開く。
「映くんは、咲良ちゃんに庭の桜を見せたかったんじゃないかと思うんだ」
「それはきっとそうね。咲良ちゃんの部屋からは見えないし、療養期間が終わるころには見頃が終わってしまいそうで悲しんでたみたいだし。でも、どうやって?」
互いにスマホを持っているなら、動画や写真を送ったに違いない。だが、映にその手段はとれなかった。だから、映は考えたのだろう。
「これを使ったんだと思う」
解は肩越しに背後の鏡に視線を向ける。光は大きな瞳を見開いた。
「鏡?」
「あぁ。簡単に取り外しができる、軽く大きな鏡がいくつかあるんだろう」
「二階だけで四枚はあるわね」
光に許可を得て、解はドアの鏡を外すとベッドの傍に持って行った。カーテンを開け、角度を調節すると、眩しい光と共に桜がそこに映し出される。
「何枚かの鏡で反射させて、咲良ちゃんの部屋から見えるように調整したんじゃないかな」
光の部屋ではなく、吹き抜けから見える桜だったかもしれない。ともかく、映は鏡を使って咲良に桜を見せようとした。他には誰もいない家で、鏡を移動し、角度を調節し、咲良に鏡に映った庭の桜を届けようとした。
「準備ができて、映くんは咲良ちゃんに気づいてもらおうと、窓に何かを投げた。それを隣家の母親に見られたんだと思う」
「なるほど。続けて」
鏡に映る桜の花を見つめながら、光は先を促した。
「映くんは、咲良ちゃんが休みながら見れるように、気を使って部屋を出てリビングに行った。彼女は嬉しかったんじゃないかな。カーテンを開けたまま、映くんが鏡に映しだした桜の花をずっと眺めていたんだと思う」
自分の為を想って、映し出された桜の花。療養中で心細かった咲良の心に、温かく咲き誇ったことだろう。
だが…………。
「彼女はそのまま眠ってしまった。映くんも、部屋の様子を見に行かなかった。その間に、陽光の位置が変わっていったんだ」
そこまで聞いて、光の顔色が変わる。解の言おうとしたことを、先に理解したようだった。
「桜の花だけでなく、太陽光も反射してしまった……」
「運悪く、彼女の部屋の窓際に置かれていた拡大鏡に光が当たり、近くにあった可燃物が燃えた。そして、彼女は煙を吸ってしまった。窓ガラスが割れたのはその後。窓際が燃えたことによる熱が原因だと思う」
光はキュッと唇を噛んだ。望んでいた答えとは真逆の仮説をどう受け止めるか、考えているようだ。
「って仮説を思いついただけだよ。幾度か反射した光で火災が起こるか、確証はない」
目を瞑り、辛そうに眉間をきゅっと寄せた光に、解はあくまで仮説だと主張した。
自分の中で謎のピースがそうはまったというだけのことだ。火災の原因だと言い切ることはできない。
「そうね。あくまで可能性のひとつよね……」
光が望んだのは、映が火事に関係がないという論証だった。だがこれでは、悪意はないが原因を作ったことになってしまう。
「やっぱり、原因究明はプロに任せて、結果がわかるまでは隣家の発言も大目にみたらどうだ?
自宅が火災になり、娘の容体が心配ならば、冷静でいられないだろうし、多少の暴論も仕方ないだろう」
「……そうね」
とりあえず元の位置に戻そうと、大きな鏡をもって扉に移動する解。光は足元に視線を落としている。答えを探しているときに見られる仕草だ。
解がドアに鏡を取り付けようとした時、ぎぃっとドアが僅かに開いた。驚いて一歩下がった解は、その隙間から光によく似た、大きく澄んだ瞳と目が合った。
「……ボクのせいなの?」
「映?」
ゆっくりと扉が開くと、まだ小柄で華奢な少年が立っていた。光によく似た整った顔立ちで、短髪でなければ妹だと間違えそうなほど愛らしかった。そんな映の瞳に、うっすらと涙がたまっている。
「ボクが鏡で咲良ちゃんに桜を見せようとしたから、咲良ちゃんの部屋が燃えたの?」
「それは……」
大声で話したつもりはないが、いつからか映は話を聞いていたらしい。そして、庭の桜を見せようとしたことまでは、解の予測通りだったようだ。
「映のせいじゃないよ」
言い淀んだ解の代わりに、光がきっぱりと答える。
「でもさっきそう言ってただろ!」
「可能性があるってだけだし、そうだったとしても、映のせいじゃない」
「そうだったなら、ボクのせいだろ! 咲良ちゃんに鏡を贈ったのも、桜の花を鏡で見せようとしたのも、ボクなんだから!! ボクが咲良ちゃんをっ……」
叫ぶように言った映はそれ以上言葉にできず、代わりに涙がぼろぼろと零れ落ちた。そんな映を光はぎゅっと抱きしめる。
「違うよ。映はただ咲良ちゃんを喜ばせたかっただけでしょう」
「でもっ……」
「不運な事故だよ。映は悪くない」
「でも、咲良ちゃんが元気にならなかったら、ボク……」
「絶対元気になるから!」
火災の原因は確定ではない。だが、解の仮説で映は自分を責めてしまった。違うと言ったところで、一度芽生えた不安や罪悪感が拭えるとは思えない。咲良の容体を心配し、張り詰めていた映の心に、解の仮説はどれだけ残酷に響いただろう。
光の腕の中で泣きじゃくる映にかける言葉は見つからず、解はどうする事も出来ず、ただ二人を見守っていた。こういう時どうするべきか、解にはよくわからない。謎解きは好きだが、人間関係のあれそれは苦手だった。
「鏡宮、リビングでスマホなってる」
階下に置いてきた光のスマートフォンが音をたてていた。光は映の背中を優しく撫でると、体を少し離し、涙に濡れた弟を優しく見つめた。
「澄玲からの連絡かもしれない。一緒に確認しに行こう」
そう言ってまだ落ち着かない映の手を取り、解には視線でついてくるよう合図をして階下へ向かった。
ソファに置かれたスマートフォンを確認する光。その黒い瞳に、ぱっと光が宿る。
「咲良ちゃん、話ができるようになったって! 後遺症の心配もなさそうだって‼︎ よかったね、映!」
「……」
映は言葉もなくその場にへたり込んだ。
一番不安だった事が取り除かれ、安堵で力が抜けたのだろう。それでも、まだ映の中の陰は消えていない。
「……でも、ボクのせいで」
「あくまで可能性の一つよ。確定じゃない。今は自分を責めるより、咲良ちゃんの無事を喜ぼう」
映を励ますように、わしゃわしゃと髪を撫でる光。その明るさに、映の顔色も少し良くなったようだ。
「なんか、ゴメン」
映が落ち着いた後、光に玄関まで送られると、解は頭を下げた。桜を鏡に映して見せたことは事実だったとしても、火災の原因は事実とは限らない。推論で映を傷つけてしまった事が、心に重い。
解の言葉に、光は首を振った。
「解くんが謝る事じゃないわ」
「でも、憶測で映くんを傷つけた」
「解くんに考えさせたのは私だし、言わせたのも私よ。だから、私の責任。こちらこそ、ゴメンね。こんな感じになると思わなくて……」
光からしたら、ほら映は悪くない! という仮説がたてられると思っていたわけで、こんな展開になるとは予測していなかっただろう。咲良が会話できるほどに回復したのは喜ばしいが、まだ落ち込んでいるのが伝わってくる。
こんな時どう言えばいいのか、正解がわからなく、もどかしい解。それがわかっているのか、光は優しく微笑んだ。
「解くんは思い悩まないで。話を聞いて、考えくれただけで、私は嬉しかったから。あとはうちの問題。今日は来てくれてありがとね」
「……うん」
これ以上いても、邪魔なだけだ。映をどうフォローするのか、咲良の家にどう伝えるのか、それは家族の間でされる事で、解が口出しすることではない。
「何か力になれる事があったら、言ってくれ」
「うん、ありがとう」
微笑む光に見送られ、解は鏡宮家を後にした。謎解きゲームが終わった後のスッキリ感はまるでない。重苦しいものが、心の真ん中に居座っているようだった。
それから数日。光に連絡をとろうと思いつつ、かける言葉が見つけられずにスマートフォンを投げ捨てていた解に、光から電話がかかってきた。
「ちょっと聞いてよ、解くん!」
心配していたのは杞憂だったのか、元気いっぱいな光の第一声。解はホッとしつつも、何か新たなトラブルかと少し警戒する。
「どうしたんだ?」
「映のやつ、彼女できたんだけど! 私の先を越すなんて、信じられない‼」
弟想いの姉は幻だったのかと疑うほど、ご立腹の様子の光。だが確かに、急展開ではある。
「何がどうしてそうなった?」
「あのねー!」
光は勢いよく話しはじめる。
回復した咲良が火災の原因に心当たりがなかったことを聞き、鏡宮家は映がしたことを消防に相談した。鏡の反射で収斂火災が起こるか検証されたが、火災は再現できなかったそうだ。しかし、天候などの条件によって結果が変わることもある。他に火災の原因が見当たらないことから、映が桜を見せようとしたことが原因の可能性はゼロではないという曖昧な結論に至った。
映はとても落ち込み、再び部屋にひきこもってしまった。それを、待機期間を終え、家の様子を見に戻ってきた澄玲に話すと、しばらくして澄玲のスマホを渡された。そこには、病室にいる咲良の姿。咲良の元に行っていた母に頼み、電話を繋いでもらったそうだ。煙を吸った後遺症もなく、感染症の症状も落ち着いて元気そうな咲良は、映にかわってほしいと光に頼んだ。
「それでさ、咲良ちゃん、映が鏡を使って桜を見せてくれたこと、すごく嬉しかったって映に言ってくれたらしいのよ。桜が見れたことより、その気持ちが嬉しかったって」
「鏡に映る桜を見て、色んな意味で癒されたんだろうな」
心身ともに弱っている時に、自分を想って桜を見せる工夫をしてくれたことが、咲良の心に響いたのだろう。映のしたことは、火事さえ起こらなければ、ほっこりするものだ。
「で、そこから詳しくは話してくれないんだけどさ」
そりゃ当然だろう、と解は心の中でそっとつっこむ。仲が良かったとしても、年頃の男子が彼女と付き合うきっかけの会話を姉に話すわけがない。自分なら、絶対に話さない。
「澄玲のスマホ返しに来たと思ったら、めちゃくちゃデレデレしてるのよ。新学期から学校行くから、スマホ買ってとか言い出すし。問い詰めたら、咲良ちゃんと付き合うことになったって!」
机の前で電話しているのだろう。腹立たし気にダァンっと机を叩く音が電話越しにも聞こえた。
「信じられる⁉ 半年も引きこもってた中二男子が、可愛い女子高生と付き合うなんて、生意気すぎない⁉」
理不尽な暴言である。解は光にわからないよう、小さくため息をついた。
「二人が幸せなら、いいことじゃないか。祝福してやれよ」
「そりゃ、映も咲良ちゃんも元気で幸せなら嬉しいわよ! でもさ、何も付き合わなくても!」
映が咲良によって自責の念から解放されたことは、光も嬉しいのは間違いない。だが、それ以上に、弟が自分より先に恋人を作ったことが納得いかないようだ。姉弟のように仲がよい幼馴染かと思っていたら、互いに恋愛感情だったことも驚きだし、年齢的にも予想外だったのだろう。
「互いに想いあってるなら、別にいいだろ。何をそんなに怒ってるんだよ」
解は少し意外だった。この一年、光を見てきたが、そんなに恋愛を重視しているようには見えなかったからだ。積極的に恋愛をしようとするそぶりもなく、解と謎解きを楽しむ日々。弟に先をこされても、驚きはしても不満を露わにするとは思わなかった。
「解くんのせいだからね!」
「何がだよ」
「……わからないの?」
妙な間に、解は戸惑う。光の意味ありげな声音に、何故か鼓動が早まる。
「……ヒント出そうか?」
光は謎解き形式に持っていこうとしているが、解は、答える準備ができていない問題な気がした。それに、光にヒントを出されなくても、すでにヒントは解の中にちりばめられていた。
毎日のように会話をし、休みに二人で謎解きをたくさん楽しんだこと。他の友人には優等生然としている光が、自分の前では我儘を言ったり拗ねたり、感情を露わにすること。映が疑われた時に、解を頼ったこと。弟に先に恋人ができて怒っているのは、解のせいだということ……。
「いや……その謎解きは、保留の方向で」
「えー……」
逃げの姿勢の解に、不満げな声が返ってくる。だが、答えるなら、弟に先を越されて拗ねている時ではなく、自分たちなりのもっといい形にしたい。
「その答えに関しては、僕がもっといい問題考えるから、もう少し待ってほしい」
「……待たせるほどにハードルあがるわよ?」
「……頑張る」
「待ってる」
そう言った光の声は、嬉しそうに笑ってる姿が見えるかのようだった。
光との電話を切った後、解は天を仰いだ。
どこかで気づいていながら気付かないふりをしてきた、この問題。映が咲良の心を掴んだように、いや、それ以上に光が喜ぶ問題を用意しなければ……。
「僕にできるのか……?」
自信なく呟きながら、謎を解いた時のキラキラした光の笑顔を思い浮かべ、解は最高の謎解きを用意するべく思考を開始したのだった。