Period,2-1 いつも通りの朝?
事実は小説より奇なり。現実で起こることは空想なんかよりも一層不思議であるというこの言葉が、今はやけに身に染みて感じられる。
「唯斗、おはよ」
「遼太郎か」
五月二日、火曜日。唯斗が教室の机で突っ伏していると、宮野が背中を軽く叩いていつもみたく付近の空いた席に座る。
「どうしたんだ? 目の下のクマすごいぞ」
「ちょっとな」
「寝られなかったのか?」
「まぁ、3時間くらいは寝たかな」
「3時間って、ナポレオンじゃないんだし……」
ナチュラルにボケをかました宮野に、ツッコむ余裕も残ってなかった。昨日のことを思い出すだけで、すでに完治した溝落ちに変な感覚が走り胃がきゅっと引き締められる。
「まぁ、こうなっても仕方ないか。だって唯斗一躍、時の人だなもんな」
「あ? 何のことだ?」
心配したような口調だった宮野だったが、どこか可笑そうによく分からないことを口走る。……時の人? 心あたりが皆無だ。
「なんだ知らないのかい? てっきりそのせいかと思ったんだけど……」
「だから何の話をしてやがる」
「まぁまぁ。とりあえず、これを見てくれ」
宮野はポケットからスマホを取り出して、とある掲示板を見せてくる。
「……絢瀬の会の掲示板か?」
「うん。昨日たまたま、同じ部活の仲間がグルチャで話してるのを聞いてね。ちょっと調べてみたら面白い書き込みがあったんだ」
そう言うとスマホの画面をスワイプしてその書き込みとやらを見せる。するとそこにあったのは一枚の写真だった。
「は? なんだその画像。いつ撮ったんだ?」
「さぁね」
その画像に写っているのは、体育着姿の唯斗と絢瀬が仲良さそうに校内を歩いている写真……おそらくは、昨日撮られたものだろう。
そして、追い討ちをかけるように『絢瀬が一ノ瀬と付き合っているらしい』という、どう考えても出鱈目なメッセージまで添えられている。
「にしても、ぷふっ……今までろくに色恋の話が立たなかったお前に、まさかあの絢瀬さんとの交際疑惑が浮上するなんてな」
「お前、楽しんでるだろ」
「そう見えるかい?」
「ああ、間違いなくここ最近でみた最高の笑顔だ」
こいつはあまり楽しそうに何かを語ることは、アニメ文化を除いてはあまりあることではない。
「……にしても、これは異例だね」
「なにが?」
「絢瀬さんと唯斗の間に交際疑惑がでたことさ。今までの人は、バスケ部の部長やサッカーの県大会エースといった、校内でも有名でそれもイケメンと噂されていた人たちだったからね」
真面目なトーンで話をしているように聞こえるが、やはり弾んでいる。
まぁ、そんなことは置いといて。絢瀬は入学してからの一ヶ月間に交際疑惑はなかったわけではない。ただし、唯斗のような一般生徒に対象を絞ればその数は皆無だ。加えて、その件に関して唯斗が頼れるただ一人の友達の宮野はというと、この状況を心底楽しんでいるようだ。
友人のピンチかもしれないというのに悠長なものだが、これもモテ男の秘訣なのだろうか。
「それで? 一体どういう経緯でああいうことになったんだ?」
「……わ、私もその話、気になります」
「気になるって言われてもな……って、帷子さん!?」
二人の会話を聞いていたのか、いつの間にか帷子も会話に参加していた。唯斗の席は壁に隣接しているので、ちょうど壁と遼太郎、帷子に挟まれる構図だ。
「もも、もしかして唯斗くん、絢瀬さんと、その……お、お付き合いしてるんですか?」
「いや、してないから。あらぬ誤解はやめよう?」
「くふっ」
にしても、帷子はこういう系統の話に興味を示すのは少し意外だった。
『付き合ってるか』なんて質問をまさか清廉潔白の権化ともいえる帷子からされるなんて誰が想像できただろう。こいつはまだ笑っているし。
「そうだ。なら、絢瀬さんに告白されたらどうするんだ? それでもお前は付き合う気はないのか?」
「……それ。わ、私も知りたい」
「は? なんでそんなこと言わないといけねぇんだ?」
帷子の表情が真剣なものに変わる。
だからなんでさっきから、お前らそんな真剣なんだ?
「まあ、あんなに綺麗な人に告白されたら断るなんてありえないよな」
「それって……」
「どうかしたか」
「うんん、なんでもない」
「そ、そうか……?」
もしかして、帷子は俺の恋愛事情を気になってるのか?
そんなことを夢想したが、すぐにそれを否定する。彼女と話すようになったのも、ここ最近だし何より唯斗が帷子と話すのは大体ホームルーム前のこの時間くらいだ。
そもそも、恋愛フラグが立つようなイベントがあったわけでもないし、何より好きになる理由がない。唯斗に恋心を寄せていると仮定するくらいなら、こっちの宮野に思いを寄せていると考える方が普通である。
「あのー、ところで帷子さん?」
「……ん、どうしたの?」
「……き、距離が近くないですかね?」
「ぁっ」
唯斗の言葉で我に返ったのか、ビクッと後ろに跳ねて顔を真っ赤にする帷子。現に二人はほんの数センチメートル先に、それもお互いを感じられるくらいまで近づいていた。
正直なところ、かなり惜しいことをしてしまったが、周りからの視線もあったし仕方がない。仕方がないのである。
「おーい、早く席につけー」
そんな二人の興奮状態を抑えるために現れたのは、救いの神……ならぬ担任の山岸だ。またしても騒がしい俺たちに呆れた視線を浴びせる。
「はぁ……またお前らか。青春するのは高校生の本分だから構わないが、周りの目もあるんだ。程々にしてくれ」
「分かってます」
ただ、ともかく。彼女が教室に入ってきたおかげで、とりあえず二人を引き剥がせた。あのまま帷子とあの距離感を続けていたら、いろいろまずかった。主に俺の理性。
「じゃあ後で」
「おう」
「私も席に戻るね」
宮野と帷子はそう言い残すと、それぞれ自席の方へと移動した。ちなみに、帷子は戻る際に小さく手を振っていた。小動物みたいな可愛さだ。
唯斗は一人になると頭の中で絢瀬の顔を思い浮かべる。しかし、真っ先に思い浮かんだのは入学式にあった表絢瀬ではなく、夜に公園で会った方の裏絢瀬の顔だ。猫を被っていない本来の絢瀬夏希。
『絢瀬夏希なんて、消えちゃえばいいのに。……そうしたら私が』
絢瀬はどういう意図でこの言葉を言ったのだろうか。それに自分のことを『必要ない』とも呟いていた。ただこれ以上考えても、時間の無駄。埒が明かない。今の唯斗には『絢瀬夏希がどんな人間なのか』を断定する情報が決定的に欠けていた。