Period,1-3 女神のような
「おい、一ノ瀬っ! このあとちょっと手伝ってくれ!」
体育の授業が終わり、生徒が一斉に教室へと戻っているときに体育教諭の山内に呼び止められた。体育で疲れているのに、追い討ちをかけるように何か余計なことを押し付けられそうな予感がしてならない。
「おっそういえばお前、体育委員だったな。じゃあ、先に教室戻ってるわ」
「おう」
「頑張れよぉ! 体育委員っ!」
「はいはい」
茶化すような口調で、手を振るクラスメイト②と③。まさかここまで体育委員が面倒くさい仕事だとは思わなかった。授業が終わるたびに、何かしらの仕事を任せられる。委員会決めの時にジャンケンで負けた、あの時の俺を一発ぶん殴ってやりたい。
「さてと……」
宮野は友達に囲まれ、こっちには気付いていない。話し相手もいないので退屈なので手早く済ませようと決め、山内のいるところへ駆け足で向かう。
「悪いな、一ノ瀬。少し手伝って欲しいことがあるんだが、大丈夫か?」
「少しくらいなら大丈夫です」
「そうか。なら、そこにある白線引きを体育倉庫に戻しておいてくれないか?」
さっき授業前に山内が使っていたものだろう。授業の邪魔にならないようにコートの端に寄せられていた。何年も使っているのか、砂埃に塗れ、所々色落ちして錆び付いている。
「わかりました」
「おう、いつも助かるよ」
まったく、それくらい自分でやれよ、という不平は口にせずに唯斗は黙って白線引きを握ると体育倉庫へとそれを運ぶ。体育倉庫まではあまり遠くはないが、それでも毎授業これがあると思うとなかなかに滅入る。夏場にもなれば一層だ。
「よしっと。まったく、山内のやつ。生徒使いが荒いな」
体育倉庫のこれまた錆び付いた分厚い扉を開けると俺は、それを元あった位置に戻す。なんとも単調で面倒な代わり映えのない作業。いつも通りそれをこなしていると、背後から誰かの足音が聞こえてきた。
「ねぇ、君。女子のゼッケンを戻したいんだけど、戻し場所どこかわかる?」
唯斗はその声が女子だとわかり、少し体を硬直させた。
そもそも俺は女子と話すタイプではないが、緊張して話せなくなるわけでもない。ただ、今回に限っては話が別だ。女子と二人きりの体育倉庫。魅惑の響きだが、そうも言ってられない。
「ああ、それなら全然いいんだが、何を戻すんだ?」
冷や汗のような何かが分泌されるのを感じた。しかし、その緊迫感を悟られないように――これがかなり難しいのだが――平然を装いながら唯斗はゆっくりと振り返る。
「えっ……」
「あ……」
その女子を視界に捉えるとその驚嘆で思わず声が漏れてしまったが、どうやら彼女の方も目を丸くしている。
唯斗の背後にいたのは、入学式以来の絢瀬夏希だった。体育は合同で行われるので、Bクラスの彼女がここにいるのも一応は頷ける。絢瀬の手に握られている籠は、女子の体育で使われたゼッケンが入っていた。
体育着姿でその豊満な肉体がさらに強調されていて、なんというか目のやり場に困る。艶めく金髪は一つに結われていて、清潔感のある体育会系女子のようだ。この格好で男を落とす殺し文句の一つも言われれば、ころっと好きになってしまう。
「えっと、一ノ瀬君……だよね?」
名前を覚えられていたことに対して、素直に驚いた。動揺が少し顔に出てしまったかもしれない。名前を覚えられる。たったそれだけの行為でこんなにも幸せな気持ちになれるのだから、男って生き物は単純だ。
「ああ。にしても、絢瀬さんって、体育委員だっけ?」
「あっ。名前、そっちも覚えてくれてたんだ。嬉しいな」
絢瀬は口元を両手で覆うように隠しながら目を細める。これほどまでに可愛い生き物が未だかつて地球に存在しただろうか。
「あっ、ごめんね、質問の途中で。私はクラス委員を務めているから、違うよ。でも今日は、体育委員の子がたまたま風邪で休んじゃって、その子の代わりに先生の手伝いをしようと思ったわけ……強いていうなら、一日体育委員かな」
「へぇ、偉いんだな」
「クラス委員という立場だからね。みんなが楽しい学園生活を送れるように、頑張らないといけなんだ」
そういって、絢瀬は自分の胸にそっと手をあてる。仲間想いなところまで含めてこの子の可愛さには恐れ入る。いや、可愛さだけじゃない。彼女は全てにおいて、完璧すぎる。
「あっ、ゼッケンはそこの棚の二段目でいいはずだ」
俺は倉庫入ってすぐ右の金属棚を指差して彼女に教える。絢瀬さんはそれを戻すともう一度、俺の方を向いて深々と頭を下げた。あまりにも急なことで、気の抜けた声が漏れた。
「今回のこともだけど、あの時は本当にありがとう。一ノ瀬くん」
誰かにこんなにも心の籠もった謝罪をできるものだろうか。恐れや感心を通り越して尊さまで感じるほどだ。いっその事、彼女を国宝に登録するのはどうだろうか。そうすれば、誰も足跡をつけてない雪のように潔白な彼女の心に誰も踏み込むことはなくなる。よし、そうと決まれば早速行動を。
……って、ん? あの時はありがとう? 『あの時』というフレーズが入学式の時のことを指しているとしても、その理由がさっぱりわからない。
「えっと、礼をされることをした覚えはないんだけどな……」
「うんん、そんなことないよ。入学式の日に遅刻なんて、普通にありえないよね。だから、あの時はいろいろと不安だったんだ。だけど、一緒にいてくれる人がいて、その……助かったというか」
少し恥ずかしがりながら、お礼をする絢瀬。彼女の耳に赤みが差しているのは、気づかなかったことにしよう。ちなみに俺は真っ赤だ。体育倉庫の影がなかったら、バレバレなほどに。
「もっと早くに伝えようと思ってたんだけど、なかなか話せる機会もなくて」
「……まぁ、確かに大変そうだもんな。いろいろと。ただ、やっぱりお礼されるようなことじゃないって。俺も一緒にいてくれる人がいて……よかったと思ってる。だからお互い様だ」
「そう、かな。うん、一ノ瀬くんがそういうなら」
「ああ」
「……一ノ瀬君って、優しいね」
優しいか。気を使わせないつもりで言ったはずが、それを悟られてしまいどこかやるせない気持ちだ。だがそれ以上に、その恥ずかしさと褒められた嬉しさで、耳がますます熱くなる。ここが体育倉庫でほんとうに助かった。
「そろそろ、教室に戻らないとね。授業が始まっちゃう」
「それもそうだな」
急な展開だが、俺たちは実に一ヶ月ぶりの会話を楽しんだ。
「へぇ、一ノ瀬くんって、スポーツ苦手なんだね。ちょっぴり意外だなぁ」
「運動ができないわけじゃないんだけど、球技とかになるとからっきしだ。絢瀬さんこそ、バスケ部に勧誘されてたよな」
「え!? なんでそのこと知ってるの? もしかして噂になってたりする!?」
「そりゃもう。耳にタコができるほど聞いたかな」
「あはは、なんか恥ずかしいね」
とか。
「絢瀬さんって、習い事とかしてるの?」
「んー、特にはしてないかな。けど、家がすごく厳しくて、毎日勉強とお稽古に追われてるかも」
「そりゃ大変だ。息抜きにゲームとかやったりしないのか?」
「ゲーム? えっとね。3DSの『とびだせ どう○つの森』とかならやったことあるよ」
「ゲーム知識が7年前で止まってる!? 同世代のジェネレーションギャップだな」
とかだ。ちなみに、絢瀬と話しながら教室に向かうまでのひとときは、まる夢のような時間だった。
————なんてのは校舎に入るまでの話。隣にいるだけで周りからの視線がすごいし、聞こえてくる生徒の会話は「あいつ誰だ?」のオンパレード。絢瀬は普通にしていたが、こっちは何を話していたかすら覚えていない。
やっぱ俺、誰かに注目されるの得意じゃないな。




