Period,1-1 君ヶ咲学園の茶飯事
日常生活の中で、見ていることが精一杯で手なんてとてもじゃないが出せないものを指すときに、『高嶺の花』なんて言葉が使われることがある。高地に咲くシャクナゲという花を摘むには、常に危険を伴うということに由来しているこの言葉だが、それは時にモノや、人物に使われる。そう——例えば、ここ私立君ヶ咲学園高等学校の一人の女子生徒の一人である、絢瀬夏希に対してだ。
まぁでも、ここだけ聞いたとしても多くの人が、実在する人物に高嶺の花という表現を使うのは些か過大評価が過ぎる、と思っているはずだ。しかし、実際に一目彼女を見掛ければ、その意見は百八十度覆る。
「絢瀬さん、おはよー」
「おはよう御座います、みなさん」
「絢瀬さん!」
「絢瀬さーん」
「絢瀬さん」
「絢瀬様」
「絢瀬さんっ!」
「絢瀬さん……」
「絢瀬さんっ」
「絢瀬さん、おはよう」
「女神絢瀬……」
絢瀬夏希。この君ヶ咲学園で『絢瀬』という名前を聞かない日はない。そう言い切れるほどに彼女は常に噂の——というよりかは、学園の中心にいた。
あらゆる宝石よりも煌びやかに存在感を放つ金色の髪に、完璧という言葉以外に表現することのできない整った顔のパーツとそのバランス。そして、誰にでも人当たりが良く、困っている人を放って置けない性格は、多くの生徒を魅了してきた。ちなみに、入学試験では、ほぼ満点に近いスコアを叩き出したらしい。それだけでもわかる、化け物じみた学力。
では、運動音痴なのかと聞かれても、それを軽々と否定してくることも彼女の恐ろしさである。4月の半ばに行われた体力測定では、女子の身体ではありながら、そのほとんどにおいて、男子の平均を上回る記録を残した。この情報だけでも、同じ人間なのだろうか疑わしく思えてしまうほどだ。ジャンプやアニメの世界から飛び出してきたと言われた方が、まだ信憑性がある。
極論、彼女に興味を持っていない男子はこの学園に存在しない。まぁ、流石に言い過ぎだが、あながち間違いではない。たった一度でも、絢瀬と会話できるだけで、一生分の青春の思い出を補給できるといってもいい。
「やっぱ、可愛いよな。絢瀬さん」
五月一日。通学路に咲いていた桜も散り、だんだんと季節の変化を感じるこの頃。校門の辺りでみんなと朝の挨拶を交わす綾瀬さんを眺めながら親友の宮野が呟いた。しかしその口調からは、綾瀬の周りにいる彼らのような本音というものが、あまり感じ取れない。そう、こいつは本心から可愛いと言っていないんだ。
先ほどの話に戻るが、この学園には例外的に絢瀬に興味のないやつもいる。
「おい、遼太郎。それ、本気で言っているのか?」
「どうして?」
「だって、お前……」
二次元オタクだろ? なんてことを口走りそうになったが、ここは始業前の校舎入り口付近で、唯斗たちの他にも多くの生徒がいた。そんな誰が聞いているのかわからない状況で、こいつの本性を晒すほど考えなしじゃない。だが、
「いや、確かに俺は二次元の女の子ファーストだけど、三次元の女子に興味がないわけじゃないよ。ああでも、恋愛感情は別なんだよなぁ。かわいいとは思うけど、流石に好きにはならないって感じ?」
「……お前なぁ、それここで言っていいのか? お前のファンが聞いたら、血相変えて驚くかもしれないんだぞ?」
まったく、せっかく気を使ってやったというのに。
「別にアニメオタクだってことを隠してるわけじゃないからね。それに言ったところで、何かが変わるわけでもないと思うけどなぁ」
「それはお前だからだよ。はいはい、イケメンは得だよな。いろいろと」
宮野遼太郎。嫉妬してしまうぐらいのイケメン幼なじみだ。趣味はアニメ鑑賞とゲームという見た目からは想像もつかないようなオタク気質だが、勉強と運動に関しては他を圧倒するものがある。ちなみに、三月に発表された入学試験結果の上位者リストでは、絢瀬夏希を押さえて首席であった。
ここまでの会話の雰囲気で察していると思うが、こいつはモテる。中学の頃も、他校の子から告白されるくらい異常にモテていた。まったく、どうして世の中はこんなにも不平等なのだろうか。もし神様がいるのなら、世界中の人間を同じ顔にしてもらいたいものだ。まぁだからと言って、女子ウケするような面白ストーリーが語れるわけでもない俺がモテるなんてことはないんだが。
っておい、自分で言ってて悲しくなってきた。
「そういえば、唯斗は絢瀬さんと話したことあったりするのかい?」
唯斗はその問いにびくっと体を震わせたが、すぐに落ち着きを取り戻す。
四月、俺は偶然、奇跡的にも綾瀬と話した。しかし、彼女とはその場限りの付き合いだ。あれから絢瀬とは一度も話していない。というよりかは、話す機会すらなかったと言った方が正しいのだが。
「お前は俺が綾瀬さんと話ができる人に見るのか? どう考えてもないだろ」
「ふぅん。ま、そっか。だってあの唯斗だもんねぇ。中学の頃なんて、ろくに女子と話しているところを見たことないからねぇ」
「てめぇ、その可哀想なものを見る目をやめろ」
宮野は、何かに勘付いたようなリアクションをとったが、気づいてないことを祈るしかない。宮野になら入学式の件を話してもいいと思っているが、綾瀬の方は忘れているだろうし、もし言ったとして、なんの益も生まない。そんなわけで、あの出来事は俺の記憶の中だけにそっとしまっている。
「絢瀬さんっ! 今日もお美しいですっ!!」
「絢瀬さん、これタオルです。体育の後にでも使ってくださいっ!!」
「絢瀬さん、忘れ物してないですか? 僕のでよかったら教科書でも、体育着でもなんでも借りてください!」
「おっ。今日もやってるな、絢瀬の会。まさかあんなアニメのような光景が実際に存在するなんてね」
「悲しいことに、うちの学園の名物になりつつあるもんな。あれが……」
靴を履き替えた宮野が唯斗の肩に肘を置いて、入り口の前で屯する男子集団を冷やかし半分で眺めている。いつも通り。そこには学年問わず、様々な生徒がいるが、何よりも一際目立っている集団があった。『絢瀬LOVE』と印字された法被着て、『愛してる』と書かれたプラカードを掲げる男子生徒群だ。
俗にいう、ファンクラブというやつ。噂によると、元々は2、3人で活動をしていたらしいが、いつしかその規模は拡大し、今ではこの地域一帯を含めて100人体制にまで成長してしまった。そんな一大組織の名前を『絢瀬の会』というらしい。興味がなくとも、この学園にいる以上は嫌でも耳にするだろう。触るな危険、多くの生徒から一種の宗教みたいなものとして捉えられている組織だ。
「お前もあれくらいのガッツがあれば、彼女くらいできるんじゃないか?」
「余計なお世話だ」
まったくもって、余計なお世話。人には人の恋愛とペースがあるんだ。まぁでも。高校生になった今もこんな理念を掲げているから、彼女がいないのかもしれないが。俺はそんな取り止めのない事をぼやきながら、上履きに履き替えた。