Period,6-1 はがれ落ちる仮面、目醒め。
子どもの頃は自信がなくて、いつも誰かに守られて生きてきた。近所の公園で遊んでいた日々でさえそうだ。
そんな『俺』という存在が全てを失ったとき。弱い自分を捨て去り、強くなろうと決意した。けど、俺という人間は結局、あの時から変わっていない。一人ぼっちの病床で変わってやると決意した時からなにも変化していない。
惰性心で普通を演じて、はち切れそうな心をうまくやり過ごすだけの日々に何の成長もなかった。俺はやっぱり偽物だった。
「よし、それじゃあそろそろ始めようか」
「…………っ!!」
久保先輩がその一言をこの場の全員にかけると空気が一気に変わる。音響ルームの張り詰めた雰囲気がガラス壁越しに伝わってきた。
みんなこの放送を———いや、都度の放送を真摯に取り組んでいる。
もしここで唯斗が失敗したら、この放送が台無しになってしまう。
ふと、そんな思案が頭をよぎる。それとともに、気づかないようにしていた弱音が湧水の如く流れ出る。
そもそもが無茶苦茶なことだったのではないだろうか。今まで表舞台に立ったことのない人間がいきなりこういった場に呼ばれて発表をするなんて。
綾瀬のこと、帷子のこと、朝枝先輩のこと、杠葉のこと、氷室のこと。
ここ一週間で起こった多くの出来事のせいで勘違いしていたけれど、俺という人間の根本的な部分は何も変わってはいない。ただ少しだけ周りから注目を集めるようになって、自分が何かできるような気になっていた。
でも、その本質は変わっていない。
所詮、お前は何にもできない。
逃げ出せ、ここから。
逃げ出しちまえ。
心の内側から湧き出る『逃避したい』という欲求に駆られるがまま、この放送室を飛び出してしまいたくなる。頭の中にこびりついた『逃げる』の三文字がだんだんと存在感を強めていって、それを抑えるのに必死だ。
「準備オッケーですっ!! 本番まで、カウントダウンッ! 3、2、1!!」
音響室にいる生徒が指折りカウントして、それがゼロになると壁に取り付けられた『ON AIR!!』の蛍光ライトが赤く点灯する。唯斗が戸惑っている間にも、放送が始まってしまっていた。
「みなさん、こんにちは。二年Bクラスの嘉之です」
「みんな、おはよぉ。二年Cクラスの千雪だよっ」
「やって参りました。毎週不定期に三度行われる、君ヶ咲名物お昼の生放送、『君ヶ咲のこの頃』のお時間です! 司会はお馴染み、放送委員会委員長の久保嘉之と〜」
「江本千雪が務めまーすっ!!」
「いやぁ〜、先輩たちとの代替わりをしてから実に四ヶ月が経過しようとしていますが、どうです? 千雪さんもそろそろ慣れてきたんじゃないですか?」
「そんなことないですよ、今も緊張しっぱなしで手に汗握っています!」
やはり経験値が違いすぎる。未だになぜ自分がここにいるのか理解できない。
「え〜、それでですね。本日もスペシャルゲストに来ていただいているということで、紹介していきたいんですけれども」
「またまたゲストですかっ!? この放送、毎回毎回ゲストが来ている気がするんですけれど、なんでネタが尽きないのでしょう。それで、誰なんですか?」
「……今、話題の生徒って誰か分かります? ヒントは急浮上です」
「えぇっと、急浮上急浮上……あっ、もしかして一ノ瀬さんですか?」
「正解っ。というわけで、本日のゲストは一ノ瀬唯斗くんですっ!!」
台本では、次は唯斗のセリフだ。いくら怖気づいていても、やるしかない。
震える指を抑えながら、そっとマイクに声を発する。
「……………………」
しかし、聞こえてくるのは絞るような声にもならない喉の奥が擦れた音。
「あ、あれ、一ノ瀬さん?」
いくら振り絞っても唯斗の声が届くことはなく、
「一旦、止めます!!」
唯斗の異様な雰囲気を察した嘉之先輩が音響ルームに合図を送り、放送を一時中断させる。
「大丈夫かい?」
すぐさま駆け寄ってきて心配する表情を浮かべる、江本先輩。
気がつくと唯斗は呼吸を荒くしながら、机にもたれかかっていた。
周りはどんな状況なのか、確認する気力すらない。
俺のせいで放送は失敗したのだろうか。頭の中で自分自身に問いかける。
いや、全校生徒600人の前でみすみす醜態を晒すよりかはマシだ。笑い者にされて、さらに噂が拡散してしまうよりかは救いようがある。
ああ、失敗した。心の内からそんな言葉が漏れる。だけど、どうしてか。
これ以上にないくらいに身体中の細胞全てがこの場にいることを拒絶していて、俺の意識すらもそれを認めている。なのに、
なのにどうして、ここから飛び出して逃げようとしない。
この場から走り去ろうとしない。
まるで脳に電極を刺したかのように鋭く駆け巡る自制心。指も震えていて、呼吸も荒くて、今にもここから飛び出してしまいそうなをたった一つの問いかけでこの場に縛り付けている。
……俺はまた逃げるのか?
「っは……ぁっ……」
ふと過去の記憶が鮮明に蘇ってきて、それを抑えるために俺は手首をぎゅっと握り締める。遠い記憶。今よりもずっと幼い頃。唸るような夏の日。二度と戻らない輝いていた日々。
『……の、……ん』
中途半端に甘んじて、何か変われると思ったけれど結局何も変わらなくて。
ずっと気づかないように、塞ぎ込んでいた。
『俺』という人間は結局のところ弱いままで、逃げ続けている。
過去から、———そして今からも。
『……、……せく……』
けど、この曖昧さが実に俺らしい。
忌み、憎み、心のどこかに押し殺していた『逃げる』という動詞がアルコールのように全身にまわる感覚。あれほど濃く縛り付けていたはずの自制心ももう何処かへ行ってしまった。もう足枷はない。自由に逃げられる。だから、唯斗のその場から立ち上がって……。
『ねぇ。一ノ瀬くん!!』
「……っ」
その声に、唯斗の『逃げる』という行為は止められた。
右耳に装着したイアホンから聞こえてくるのは透き通っていて穏やかな声———ではない。張り詰めたような、それでいてどこか懐かしい彼女の声だ。
「あや……せ、なのか?」
『大丈夫だから落ち着いて、一ノ瀬くん。今は私の声に耳を傾けて』
荒くなっていた呼吸のまま彼女の指示通り耳を傾ける。絢瀬はすぅと息を吸うと言い放つ。
『まったく。放送が途切れたかと思ってきて来てみれば、予想通りひどい様』
相変わらず、容赦のない毒舌っぷりだ。しかもそれを一つ目に持ってくるあたり、性根が腐ってる。
『けどね……』
そこに絢瀬は、逆接を付け足すとどこか励ましのような言葉をかける。
『今動けないのは一ノ瀬くんだからってわけじゃない』
俺だからじゃない、か。
『600人の前で話をするなんて、誰だって怖いし緊張もする。
目の前で平然としている久保先輩や江本先輩、私だってそう』
絢瀬も緊張したりするんだな。
『私だってそのせいで失敗したこともある。
みんな慣れすぎて感覚麻痺を起こしているだけ。
誰だって初めは緊張だってする。
だから一ノ瀬くん。一つだけ、人生の先輩としてアドバイス。よく聞いて』
年歳は一つも変わらないのに、なんとも強気な言い草だ。
『周りの声に耳を貸さないで。
失敗することを恐れないで。
周りの雑音なんて気にするな。
今はただ自分を ——— 一ノ瀬唯斗を信じて』
けど、どうしてか彼女の言葉は信じられる。
自分に似た何かを彼女から感じる。
どこかで繋がっているような気がする。
『自分を信じてあげて』
鼓膜を震わせる優しい声が。
絢瀬夏希が伝える本心が、今の唯斗に力を与える。
まるで、体の内側から力が湧いてくるような。そんな感覚。
嘘だっていい。偽りだって構わない。
大丈夫。うまく信じてあげられる。自分を。
そして、きっとうまく演じられる。
今度こそ逃げたりしない。
———— だって俺は、一ノ瀬唯斗だから。




