Period,2-2 放課後、屋上で
放課後。運動部が校庭で掛け声を上げながらコートを走っている姿を横目に廊下を歩いていたときだ。ポケットに入っているスマホが小刻みに震えた。おそらくは着信だろう。
唯斗はそれを取り出すと画面を確認する。
「非通知……」
「どうしたんだい、唯斗。電話かい?」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
一緒にいた遼太郎に軽く断りを入れると、唯斗は少し離れて応答する。
「もしもし?」
数秒間の沈黙。非通知だったため、悪戯電話だという線もある。しかし、その考えは別の意味で裏切られることになった。
『ええっと。……一ノ瀬くんだよね? うん。その声はやっぱりそうだ。もしもし、なんて言うから誰かと思っちゃったよ。どうしたの? 変な鳴き声だったけど』
「俺は動物か何かなのか? これは定型詩だ。鳴き声じゃねぇ。というか、何で俺の番号知ってるんだよ、絢瀬さん」
『あはは、ごめんごめん。冗談だよ』
非通知の相手は、意外なことに絢瀬夏希だった。言葉は尖っているが、そのトーンは明るく高嶺の花モードだ。電話越しだが、その声の明瞭さはハッキリとわかる。
にしても、昨日の今日で接触してくるとは予想していなかった。
『昨晩、一ノ瀬くんのスマホの中を見せてもらったでしょ? その時に私の番号を追加したんだ』
ああ、なるほど。それにしても、早業だ。
「それで? 何の用だ」
『今から少し話したいのだけど、屋上まで来てもらえないかな?』
「悪いが断る」
『むっ。今から少し話したいのだけど、屋上まで来てもらえないかな?』
「せめて言葉は変えてくれ。それとすまないが、実はもう駅にいるんだ。だから明日にしてくれないか?」
面倒ごとに巻き込まれそうな予感を感じて、それらしい嘘を並べる。絢瀬はそれを聞くと、はぁ、とため息をついて低い声で言い放つ。
『嘘。君が本校舎三階一年Dクラス前の廊下にいるのはわかってる』
突然のことに、びくっと体が反応する。呆気にとられながら近くの教室の番号プレートを見ると絢瀬の明言通りDクラスの側だった。あたりを見渡しても、誰かが見ている様子はない。
そもそも下校中の生徒が多いため、こちらから気づくことは困難だ。
『でしょ?』
「ああ、驚いた」
どこか得意げに鼻を鳴らす絢瀬に反抗する心も折れてしまった。
「わかった、行くよ。それよりいいのか? ここは学校だぞ」
『放課後だし、屋上ならだれも来ないから大丈夫』
「電話じゃダメなのか?」
『ダメ』
「……分かったよ」
『そう。なら、今から二十秒以内に屋上に来て。もし、遅れたらあなたに熱烈な告白されたって、デマをうっかり全校生徒に言い触らしちゃうかも』
「あっ、おい……うっかりって……」
可愛い脅し文句……というのも変だが、それを最後にぶちっという音をたてて電話が切れてしまった。というか二十秒って。え……?
たったの二十秒……!?
唯斗は元の場所にスマホをしまうと、急いで鞄を肩に下げる。五階建ての校舎のうち今いるのは三階だ。屋上の扉があるのは、西側階段なのでここからは少し距離がある。どう考えても時間はなかった。
「悪い、遼太郎っ! 今日は先に帰ってくれっ!!」
「えっ。ちょ、唯斗!?」
唯斗はそう伝えると、廊下を疾走して一段飛ばしで屋上への階段を駆け上る。衣替え前。ブレザー着用のため、走っている時は動き辛くて仕方がなかった。
「まったく、なんだってんだ……」
そうして、二十秒後。唯斗は屋上になんとか辿り着いていたが、言うに及ばずその疲れで息を切らしていた。短い距離だが、なにせ帰宅部の唯斗にとっては、走ること自体が久しぶりのことだった。
屋上へと続く扉に貼られた立ち入り禁止の文字。鍵がかかっているわけではないが、誰も寄り付かない場所だ。ただ今日は、時間制限もありお構い無しで立ち入った。
唯斗はやっとのこと、呼吸を整えてここに呼びつけた張本人である絢瀬を探す。
「……っ」
だが、その作業はものの数秒で終わった。まるで視線が吸い込まれるように彼女の方へと向いていた。
その時の絢瀬夏希は、屋上のフェンスに寄りかかりながら、下校する生徒を眺めていて————綺麗だ、と素直にそう思った。
雲が垂れ込んだオレンジに染まる空に彼女の金色の髪が相まってなんとも神妙な雰囲気を醸している。普通なら、話しかけることすら躊躇われそうだが、そんなことも言ってられない。
「それで、なんのようだ?」
唯斗が声をかけると、それに気づいた絢瀬は一ノ瀬の方へと視線を向ける。そして、彼女はそっと微笑みを浮かべると唯斗に近づいて、
「え……っ」
気づけば一面、橙色に染まる空がそこにはあった。まるで理解の追いつかない状況だが、尻から感じる打ち付けたような痛みから事態を把握する。唯斗は一瞬にして、投げ飛ばされていた。
「あ、絢瀬さ……」
「ひとつ、聞いていい?」
投げられたとはいえ、流石に手を離して放り出されたわけではなく、むしろ押し倒された感覚に近かった。跨がるようにして覆いかぶさる絢瀬は、制服の襟を握り締めこちらに鋭い視線を送る。
ただ、こんな状況でも気が緩んでしまうほどに綾瀬からは甘い香りがした。
「まさかとは思うけど、絢瀬の会に書き込みをした犯人は一ノ瀬くんじゃないよね?」
そう言って彼女は、空いている手で絢瀬の会の掲示板に書き込まれた文字をスマホ越しに見せてくる。
「はぁ、またそれか。言っておくが、断じて違うからな」
「ほんとに? 嘘だったら承知しない」
「ああ、俺だって迷惑してるんだ。それにメリットがないだろ」
「…………確かに、うん。そうかも」
絢瀬はそっと体を退かすと、じゃあもう帰っていいよ、と一言。そんなあまりの急展開に目を丸くする。
「おいおい、まさかとは思うが、そのためだけに呼んだんじゃないだろうな?」
「まさかも何も、そうだけど」
「いやそれなら、電話でよくなかったか? それに押し倒す必要もない」
「えっと……それは私が、《《投げ損》》だったってこと? たしかに、一ノ瀬くんを投げるのは吝かだけど」
「投げられ損な。なんでそっちが主観なんだよ」
そんな、またつまらぬものを投げてしまった……みたいな顔をされても困る。
「うん、一ノ瀬くんを投げたい気分だったことは認める。それに少しむしゃくしゃしていたのも事実」
「ははは……」
ここまでくると、逆に清々しい。
「だけど、一ノ瀬くん。学園一美少女と名高い絢瀬夏希に押し倒されて不満?」
いや、それを自分で言うなって。まぁ確かに、この学園のアイドルに押し倒されたと考えれば、こんな機会は他に……ってなにを考えているんだ。
「というか絢瀬さん、そういう情報も知ってるんだな」
そういうとは、絢瀬夏希が完璧超人だという噂が立っていることに対してだ。てっきり学校一の美少女は、自分の噂に関しては知らぬ存ぜぬの一点張りだと思ったが、こと絢瀬に限ってそんなことはないらしい。
「表に出してないだけ。普段から何も知らないフリをするのは、結構骨の折れる作業なんだから。ウチの学校、絢瀬夏希ブランドがあるし……」
そうだろうな、と唯斗。地面に着いていた手に力を入れ立ち上がる。
「つまりはその、絢瀬ブランドってやつ……? を守りたいわけか。だから俺と付き合っている噂が立つのは、困ると」
「…………別に、そういうわけじゃない。けど」
絢瀬はフェンスにもたれかかると、こつん、と軽く足元を蹴った。
「なら、どうしてだ?」
「……一ノ瀬くんに言うことでもないでしょ。そんなの」
唇に力を入れて、そっぽを向く絢瀬。
「…………なぁ、絢瀬さんは一体なにを隠してるんだ?」
人に事情に踏み込みすぎたと言葉を発してから気づく。ここは絢瀬の中でも、繊細な部分なのだろう。さっきまでの無神経さを心中で悔いる。
「一ノ瀬くんがどうして、そこまで私に干渉するのか理解ができない。絢瀬夏希の本性を知る君が、私の事情に介入するのはどうして? 関わったところで、一ノ瀬くんはなにも得ない——むしろ迷惑に感じると思うんだけど、違う?」
それを否定しようとしたが、喉元まで出掛かった言葉はすぐに消えてしまう。そもそも唯斗は、絢瀬と会うこと自体あまりよく思ってなかったはずだ。しかし、絢瀬に食い気味に質問していたのはなぜなのか、唯斗自身よく分かっていなかった。
「…………、今のは気にしないで」
絢瀬が静かに言い放つ。唯斗はそんな彼女の隣に歩み寄ると、フェンスに肘を置き景色を眺めた。
正門には集団で下校中の男子の他にも、仲睦まじく会話する男女もいて、グラウンドに視線を向ければ、野球部やサッカー部が活力にあふれた声を上げながら練習している。
果たして彼らと絢瀬の間にどれほどの違いがあるのだろうか、そんなことを考えていた。