第38話 廃忘薬
日付が変わり、2019年1月4日 午前0時過ぎ。
毛利 貴之は、頭痛で目を覚ました。隣には、長椅子で寝ている瀬名 大悟がいた。貴之が声をかけるが、瀬名は眠ったままだ。ベッドで寝ている状況から、何があったか頑張って思い出す。
「そうだ……、父さんが……」
人殺しだった。また耳鳴りがする。コップに入った水がある。貴之は、疑ってコップの底や水の色をみたり、においを嗅いだりする。すると、どこからか
「毒なんか入ってやしないさ」
伊上がやってきた。貴之はそれでもコップの水を疑うので
「なんなら、一口飲んでもいいぞ」
貴之は喉が渇いており、背に腹はかえられず、水を一気に飲み干す。特に、なんともない。
「多少、落ち着いたか?」
伊上の問いに、首を縦横のどちらにも振れず、黙っていると、
「貴之君。……一応、君に提案がある。嘘みたいな話だ。でも、実際に何人かが希望して、叶った」
貴之は胡散臭さを感じながらも、聞いてみる。
「”廃忘薬”というものがある。人生のリセット薬とでも言うべきか。そんな薬がある。効果は簡単に説明すると、自分以外の人間から、自分の関する記憶を消すことが出来る」
そう言って、伊上は自分でフッと笑い、
「犯罪者が使ったら、一発アウトだろうな。ただ、君は被害者だ。使う権利がある。自分が犯罪者の息子であることを隠し、隠居できる。新たな人生をスタートできるだろうな。ただ、全員の記憶から自分が消えることになる。つまり、薦めた我々も君の友達も、貴之君のことを忘れるだろう。これを使ったところで、君が幸せになる保証は出来ない。けれど、友達が解放されるだろうな」
貴之は黙って聞いており、伊上はさらに話を続ける。
「誰も憶えていないから、紙の記録しか残ってないが、過去には、小学6年のときまで、両親から虐待され、それから逃げるために、”廃忘薬”を使った人もいる。理由は、友達にまで危害が及びかけたからだ。虐待だと気付いて、助けようとした親友だが、深手を負った。このままだと、友達が死ぬと思い、自分を世界から消した。自分は死んだことにして、両親を虐待で逮捕させたらしい。仲間を守るために、使うヤツが多いらしいな。本当にそれでいいのかは、俺も分からないけどな……」
現実だとあり得ない話だけれど、貴之は否定しなかった。他人がいなくなるのではなく、自分という存在が跡形もなくなる。
自分の父親が犯罪者である。その事実が今後の人生に永遠と付き纏うだろう。大人や知らない人から、あれやこれや言われるんだろう。そんな世の中を過ごすぐらいなら、確かにアリかもしれない。そんなふうに、少しずつ心が揺れていた。
瀬名たちは、今まで通りに遊べるだろうか。それぞれの親が、貴之君の父親が人殺しだから、近づいてはいけないと、禁止する可能性が高い。学校だとどうだろうか。クラスメイトや知らない後輩から、人殺しの息子として、いじめられるのでは無いだろうか。合格通知が来ている高校が、合格を取り消す可能性は?
考えれば考えるほど、不安になってきた。
「それって、即効性なんですか……?」
「……使う……気?」
伊上の反応を見るに、使わないと思っていたのだろうか。伊上は、咳払いして、
「即効性はある。だが、後戻りはできないぞ……。それぐらいの覚悟がないと……」
伊上が念を押すようになってきた。すぐには渡さないあたり、ますます”廃忘薬”とやらが、現実的に感じた。貴之はあえて、
「すぐに渡さないんですね」
と言葉にすると、伊上は少し間が開き
「父親の敵が討ちたかった。しかし、相手は所帯持ちだった。無関係な母子を巻き込みたくは無かったんだが……、結果、こうなってしまって、申し訳ない……」
伊上の本心かどうかは分からない。冒頭から全部嘘かもしれない。父親が犯罪者じゃない。そうあれば良かったけれど……
「あっちで、警察無線を聞くことが出来るが、確認するか?」
伊上は事実確認の必要有無を確認したが、貴之はすぐに答えなかった。伊上はテーブルの上の受信機を取り、ダイヤルを回しつつ、
「聞くだけなら、違法じゃない」
「そう言う問題じゃななく……、真実なら、事実だと知りたくないから……」
「残念ながら、廃忘薬を飲んでも、自分の記憶は消えないぞ……。あくまでも、自分以外が対象だ」
「分かってる……」
貴之も説明を一度聞いて、理解している。これは、自己犠牲だ。自分が残れば、親友が酷い目に遭うだろう。別れるのは辛いけど、自分に会うために、親友が他者からの攻撃で傷つくのはもっと嫌だ。父親が殺人犯と聞いた瞬間から、答えは決まっていたのかもしれない。さよならだ。
*
3月10日。午後5時を知らせるチャイムが鳴っている。
市内の撫養塾教室前で、榊原警部と悠夏、鐃警が待っている。すでに撫養さんには確認したが、5分待ってくださいと言われ、待機中である。スマホの時間や通知を何度も確認し、たった5分が長く感じる。40代後半の女性で、ここを営む撫養さんが再び現れ、「どうぞ、中へ」と小さな会議室へ案内された。中にはパイプ椅子に座った、少年と少女が2人。
「2人とも、勉強中のところ、ごめんね。刑事さんがお話を聞きたいって」
撫養さんは2人にそう言うと、互いに顔を見合わせた。少年は
「何にも悪いこと、しとらんのやけど」
すると、榊原警部が少し笑って(多分、子ども相手のため笑顔で明るく振る舞うみたい)、
「別に、警察は悪い人ばかりに聞いてるわけじゃないからね。事件を見聞きした人にも、聴取をしてるから」
榊原警部が先にパイプ椅子に座ったのを確認して、悠夏も着席する。
「瀬名 大悟君と奈那塚 アリーちゃんだね?」
榊原警部が名前を確認すると、2人は頷いた。
「早速、本題なんだけど、今年の初詣のときって、何人で行ったか憶えてる?」
「何で、そんなこと聞くん?」
瀬名は答えずに、質問してきた。悠夏は答えずに、
「憶えてない?」
2人は少し考えて、
「あんまり……」
榊原警部は「そうか」と言って、次の話に切り替える。
「本題に入るが、1月3日の夜から4日の朝にかけて、憶えている限りのことを話して欲しい」
すると、瀬名が明らかに黙り込み俯く。奈那塚が小声で「言わなきゃ」と背中を押すが、黙っている。悠夏は瀬名の方を見ながら
「交番のお巡りさんから、奈那塚ちゃんが瀬名君のことを探して欲しいって駆け込んだのは、憶えてる?」
瀬名は答えなかったが、奈那塚は頷いて答えた。時間をかけるわけにもいかないが、焦ってはいけない。おそらく、その日に瀬名が何かを知っているはず……
To be continued…
『エトワール・メディシン』のメディシン要素が第38話にて、登場です。”廃忘薬”という不思議な薬品。粉なのか錠剤なのか、そもそも飲み薬なのかは不明。
あと、伊上が言った「聞くだけなら、違法じゃない」って、本当らしいですね。ただ、第三者に伝えたり、利益を損なうようなことをすると違法になるそうです。ただ、貴之君はそんな誘いを聞かずに判断したので、本編での説明は省略しました。
さて、今回の話もかなり長くなっており、この次の令和発表を含む長編は年越ししそうです。