第255話 隔靴掻痒
取調室で櫧荃被疑者と対峙する内場警部。
「君のことは、櫧荃 伊鞠、もしくは椋本 伊鞠、どちらで呼べばいい?」
椋本 伊鞠は本名だ。母親から離れ、櫧荃の姓を名乗っているが、母親の旧姓でもない苗字だ。
伊鞠は外方を向き、目を合わせようとしない。
「肥前村の倉庫火災。消火に当たったのは、消防団だった。出火元については、その後佐賀西九州消防署と警察署が捜査したが、カセットコンロ用のガスボンベが複数見つかったことから、劣化してガスが充満し、何らかのモノとモノによる衝撃で火花が発生し、火災に繋がった可能性があると書かれていた」
内場警部からは見えないが、伊鞠の目線が少し泳ぐ。何か特定のものを見ているわけでは無い。目線を動かしても、見えるのは取調室の壁だ。
「それはまさか人が住んでいるとは思いもせず、そういう結論になったのだろう……。実のところ、君を含めた3人がその建物を出入りしていたという目撃証言もある。建物を燃やしたのは、証拠隠滅のためではないかと考えている」
斑鳩川から受けとった写真の3名。1人は伊鞠。
「1人の名前がすでに分かっている。櫧荃 立夜」
写真をデスクに置く。伊鞠は壁の方を見ており、写真を見ようとしない。斑鳩川が言っていたヤンキーの男である。
「もう1人は、三入 将猶」
斑鳩川曰く、オールバックの40代男性。
「この2人について教えてくれ」
被疑者に対してお願いする言い方をしたのは、彼が十分な教育を受けられず、精神が子どものままだから、という理由がゼロかと言えば嘘になるが、特課からある情報を聞いていた。
(この子は、当時監視の役目で見張っていた。盗聴の罪はあれども、逃亡のルートを確保していなかった。特課は、彼はわざと警察に捕まるように仕組まれたのではないかと言う。犯人グループから逃げるのなら、警察に協力的だろうし、警察からあんなに逃げないだろう。芝居というのなら杜撰だ。特課の見立てだと、犯人グループの1人が、伊鞠が警察に保護されるように仕組んだと。その推理を否定はしないが、確証はなにもない。どこからそう考えるのか……)
内場警部は知らない。先月、犯行グループからの密告により、誘拐された立和名 言葉の救出を行った。今回密告はなかったが、似たようなものを感じたというだけの理由であり、一言で言えば”そういう予感がした”。エビデンスなんてものはない。倉知副総監から追加で、特課は独自に動く。そちらの捜査方針を変える必要は無い。頭の片隅にでも置いてもらえればいい。
(副総監の言葉まであって、特課の発言はスルーしても構わないって、寧ろ無性に気になってしまう。直近だと、全く無関係な話から今回の事件との関連性を見つけ出したらしいし、捜査の混乱を招くだけだとは思うが……)
現に、内場警部は諸に影響を受けている。いつもならば、容疑者に対してこんな態度は取らず、高圧的に聞き出そうとする。これまで先輩の取り調べに同席し、警察が舐められては終わりだと考えいた。とはいえ、この被疑者に対して高圧的な態度を取れば、母親からの虐待を思い出してしまうかもしれない。そういう考えもある。
(ダメ元でハッタリでも噛ますか? あとで、何も喋らないから嘘を言ったとでも言えばいいか)
「君の母親は事故ではなく、殺害された」
伊鞠の肩がピクリと動き、それを見逃さない。立て続けに
「君はこの2人に捨て」
バンと机を両手で叩く音が取調室に響く。”捨てられたんだ”と言い切る前に、伊鞠が激怒したようだ。睨むように見る。何か反論するのかと思えば、視線は机へと向かい、その後床まで落ちた。
「違うのか?」
問いかけるように訊くと、唇を噛みしめ
「……違う。あれは」
伊鞠の頭でフラッシュバックする。意識を失ったまま地面に倒れている母親。暗闇でハッキリとは見えない。自分の隣に立つ男は「お前はどうしたい? 俺と似た境遇のお前は、どうしたい?」と囁く。立夜は伊鞠と同じく家庭内暴力を受けていたそうだ。相手は父親で、自分で手を下したと言う。それがどういう意味か、伊鞠には分からなかった。「お前は被害者だ。”我慢”なんて耐える言葉じゃねぇ。一方的に暴力を浴び、抵抗できないことを良いことに、何度も浴びせる罵詈雑言。諦めて受けなくてもいい」その後も色々な言葉を言われた。お前は間違っていない。自分を否定しない言葉たち。それまで親から浴びた嫌な言葉とは違う。
「助からないほど窶れていた。もう助からない。自分が生きることに必死になって……」
追い詰めにくい言い方をされた。教養が少なく、当時連絡手段がなかったのであれば、助けや救急車も呼べないのも筋が通る。事後でも母親の状況について、警察や消防に相談しなかったのは頂けないが……。
「最初から最後まで話を聞くぞ。言いたいことがあれば、この場で全部言うといい」
伊鞠はまた黙るか喋るのか、どちらになるかと賭けになるが、ちょっとずつ自分の言葉で語り始めた。
*
警視庁の会議室。紅警視長はじっとできずに会議室の窓際を行ったり来たりと歩きながら、秋田に行けない擬かしさをどうすることもできず、秋田県警からの連絡を待った。
小渕警視正が会議室に駆け込んでくると、
「秋田県警から、供述の内容を送ってもらいました」
「FAXか……」
「一番早い方法を頼んだ結果ですよ」
供述調書を途中途中で送ってもらうため、取調室で取った聴取を別の担当者が印刷してFAXで送っているそうだ。もっと効率的な方法はあるだろうが、現場はFAXで送るのが早いと考えたのだろう。今は早く届けばいいので、とやかく言わない。
調書にさっと目を通すと
「団三郎狸?」
「軽く調べたところ、佐渡島の伝承に出てくる狸らしいです」
別名、団三郎狢。新潟県佐渡に住まう狸の総大将らしい。悪さをしつつも良い行いもしていたらしく、佐渡大明神の神社で奉られているそうだ。
「狸人は高六科 臣音と名乗り、団三郎狸に話を通してほしいと懇願しているそうで」
小渕警視正はそこで話を止めた。紅警視長は足を止め、供述書を眺めて考え込んでいる。しばらくすると窓の外を眺め、元気のない様子に言葉をかけづらい。そんな紅警視長にこれを伝えねばならない。
「高六科さんが逃げ出してきた建物ですが、秋田県警が突入したところ……、誰もいなかったそうです。建物内からは、血痕が見つかっており、鑑識作業が始まっています……」
「……俺がここに留まらないといけない理由。考えれば考えるほど、秋田に行くべきではないかと思う」
「言いたくは無いですけど……、他の事件の指揮監督はどうされるつもりで?」
「警視正に任せる」
「本心としては、我々に任せて秋田に向かってくださいと言いたいところですが、蓼聱牙警視総監からの命です。最初にいなくなった人を探しに出た人物も誘拐される。犯人グループは、紅警視長を狙っている可能性が高いが故に、ここから指示を出してください。秋田県警が全力で犯人を追っていますから……」
To be continued…
隔靴掻痒は、痒いところに手が届かないもどかしさみたいな意味とのことです。
思い通りに物事が進まないっていうのは、別の意味でも言えなくは無いような後書きが最近多いですかね……。
佐渡大明神は架空の神社です。阿波金長神社と同じく実際とは異なります。
次回は秋田の事件にフォーカス予定です。さて、次が今年最後の更新になるのかどうか。




