第192話 他人から自分に関する記憶の消滅
2019年8月3日。東京の天気は晴れ。最高気温は33.7度の真夏日である。水鳥 北岳は高架下で横になっていた。人通りはそこそこ。堅いコンクリート。少し慣れてきたが、このまま人生を過ごすのだろうか。
「すみません。水鳥さんですか?」
声をかけられた。誰なのか顔を見ると、フードを被った青年だろうか。鼻が少し高い……、いや犬みたいな鼻をしている?
「誰ですか?」
「私、こういう者です」
名刺を受けとった。そこに書いてあったのは
「戌角探偵事務所?」
「そうです。あなたを探している方がおり、少しお話をしたいのですが……。そうですね、どこか喫茶店にでも行きませんか?」
「はぁ……」
渋々ついて行くことにした。どうせ、ここに居続ける理由も無ければ、断る理由もない。
喫茶店はあまり繁盛しておらず、空席が目立っている。昼下がりだし、もう少し人がいてもおかしくはないが、これくらいの混雑具合の方が落ち着いて話せるだろう。
「こちらの席へ」
戌角探偵のあとに続くと、先客のいる席だった。戌角と水鳥は、先客に対面する形で座る。すでに先客は、アイスコーヒーを飲んでいる。
「お好きなものを。お支払いは結構ですので」
戌角からメニューを渡されて、飲み物を見る。
「ランチでもいいですよ」
と、ランチメニューも渡された。土曜日のメニューは、デミグラスソースのオムライスとドリンク付きだ。最後にちゃんとしたご飯を食べたのはいつだろうか。ランチを注文すると、戌角はウーロン茶を注文していた。
さて、前に座る先客は漫画を読んでいて、丁度顔が見えなかった。たぶん、わざとだろう。戌角に先客について、指で確認すると
「依頼主だ。水鳥さんもご存じだと思うが」
戌角がそう紹介すると、先客は漫画を閉じてこちらを見る。
「榊原だ。中学のときに同級生だったが、憶えてるか?」
中学生のころを思い出すが、生徒一人一人の顔が正確には思い出せない。あまり記憶に無いかもしれない。
「うーん」
と、思い出せないでいると、戌角が中学の卒業アルバムを取り出した。榊原が戌角に渡した卒業アルバムである。
アルバムを開くと、先ほどまで忘れていたのが嘘のように、中学のころの思い出が……、思い出せたか? 少しは思い出したが、曖昧な部分が多い。その曖昧な部分を補完した記憶は、本当に正しい記憶なのか、それとも保管するために捏造された記憶なのか定かでは無い。
卒業アルバムから榊原が同級生であることは分かった。
「密に接してはなかったから思い出せないだろうが、いたのは確かだから」
榊原がそう言って卒業アルバムを閉じると、丁度ランチのオムライスが届いた。
「話は先に食べてからだ」
榊原に言われて、そこからは食べ終わるまで沈黙が続いた。榊原と戌角が喋ることも無く、気付けば榊原は先ほど読んでいた漫画の続きを読んでいた。そんなに気になる内容なのだろうか。
水鳥が食べ終わると、榊原は漫画を読み切ったようで、話が始まった。
「誰からも憶えられていないのは寂しいだろ?」
榊原に言われて、水鳥はなぜそれを知っているのかと疑問に思った。依頼したということは、榊原は憶えているのか?
「他人との関わりによって、自分の存在を確認できるとか、心理学的になんかそう……いろいろあるらしいが……」
榊原なりに言葉を選ぼうとするが、選び切れてない感じだ。
「実家には帰ったのか?」
「いや……」
水鳥が最後に実家へと帰ったのはいつだっただろうか。上京してしばらくしたときに帰省して、それっきりだろうか。如何せん、帰省にはかなりのお金がかかる。ここでの暮らしは地元よりもお金がかかるし、金銭面では困っていた。
「実は、俺は水鳥のことを思い出せた訳ではないんだ。偶然、名前を見て調べていたときに、行き着いただけだ。なんでそうなったのか……、よかったら聞かせてくれないか? 何か出来るかもしれない」
この場は榊原だけが喋り、戌角は一言も話さなかった。
「言わない理由もないから言うけれど……」
水鳥にとって、別に言っても言わなくても変わらないし、榊原が同級生であるかどうかに関わらず、聞かれたから言うくらいの心持ちで少し前のことを話し始める。
「いつだったか……、会社に行けなくなって……。別に失敗したとか怒られたとかじゃなくて、朝起きて会社に行こうとしたら、体が思うように動かなくて……、病院に行ったら鬱じゃ無いかっていわれた。休職したい旨を伝えたけれど、結局復職できずにそのまま退職した。再就職の道も考えられず、お金が払えずに賃貸も追い出されて……。高架下で雨を凌いで数日過ごしていると、治験のオファーがあった。開発中の薬を服用して、経過観察を報告すればお金がもらえるって言われて……。転職活動できない身からすれば、願ってもない話だった。だけど、渡された薬品は1回だけ。服用した途端、お前は誰だって言われて……」
水鳥が服用したのは、十中八九”廃忘薬”だろう。服用すれば、他人から自分に関する記憶が消滅する。他人とは、自分以外であり、親族も含まれる。つまり、自分を産んだ親からも忘れられた存在となる。しかし、部屋や物は残ったままであるから、親はすぐ気付くであろう。ただ、それを病気か何かと疑うかもしれない。
水鳥の母親は、部屋を掃除するときに息子のことを忘れた事実に気づき、病気を疑っていた。
「その薬品を渡した人物が誰か分かるか?」
「いいや……名前は教えてくれなかった」
「名前も聞けなかったのに、怪しげな薬を服用したのか……」
「今思えば……そうだけれども、あのときは自棄になって……」
水鳥からの話では、相手についてほとんど情報を得られなかった。榊原は
「最初に言わなかったが、実は俺の仕事は警察だ」
「警察?」
「その薬品について捜査している。そんな中で、偶然同級生の名前だと気づけたから、情報を聞ければと思ったが……」
「ごめん……」
「謝ることは無い。それで、これからどうする? 実家に帰るか? 保護することもできるが」
「帰ることができるなら……実家に帰りたいけど……。こっちは何かと高くて……就活しようとしてもできない調子だし……」
「徳島県警に話は通しておくよ。これからのことは、俺がどうこう言えたわけじゃ無いけど、必要なら就活支援とかも、もしかしたらできるかもしれないが、あまり期待はするなよ」
水鳥は一度徳島県警経由で実家へ送り届けることにして、戌角探偵との話は、週明けの月曜日で調整することになった。警視庁の会議室で、榊原警部と上層部からも参加して、廃忘薬に関する捜査について説明と捜査協力依頼を行う。
探偵に協力依頼するのは、ドラマとかアニメであるけれど、今回の場合は戌角探偵の鼻を信頼して、これまでではできなかった捜査の切り口で、記憶から消えた人々を探すことになる。
それはまた別の話で……
To be continued…
私用から警察からの依頼へとスムーズに遷移するようですが、依頼したのが1日で見つけたのが3日って早いよ。72時間かかってないですからね、戌角探偵は人に化けた妖怪の類いと思われますが、現時点では言及なしですね。今回書いてて、オムライス食べたくなりました。
さて、次回は……どうしようかなとこれから内容を考えます。




