第179話 到底受け入れられないだろう前提事
信じられないことが起きている。それなのに、それを後回しにしなければいけないほど、事態は深刻だ。悠夏と鐃警も、車から降りるときに、こうなる想定を出来ていなかった。起きてしまってからその危険性に気付いた。
幽霊が現れたということに気を取られて、もうひとつの危険性を見落としたのだ。
「どいて!」
マネージャーの鎚田は、庇う悠夏に威圧的である。実力行使も辞さないぐらいの勢いだ。悠夏は声を張り
「待ってください! この方は」
「待てるわけないでしょ! うちの大事なタレントの商売道具を奪っておいて!」
鎚田が激怒するのは理解できる。なんとか落ち着かせて、話ができればと考えていたけれども、どうやらそんな悠長な時間はなさそうだ。鎚田は鞄からナイフを取り出す。
「その女から、日浦の声を奪い返せるなら、私はどうなってもいい!」
鎚田は女性を殺害してでも、声を取り返すつもりだ。
「殺して声が戻るんですか!?」
日浦を抑えている鐃警がそう叫ぶ。心做しか、日浦は抵抗しないように感じる。
「うるさい! 外野は黙って!」
鎚田はヒートアップする。このままだと……
鐃警のところまで鹿南警部が辿り着いた。背を向けているため、近づけるかと思ったが、鎚田は音に気付いて、後ろにも刃物を振り回す。このままでは近づけない。ならば、
「あなたが罪を犯す必要はないだろ」
言葉で落ち着かせることはできるか?
「あなたに分かるわけないでしょ!」
「鎚田さんも日浦さんも落ち着いてください。よく考えて!」
悠夏も必死に声を出す。自分の方に向けられたナイフ。この前の隅田川花火大会で、軽く刺されたが今回も刺されるのか……?
トンネル近くでは、騒動で引き返した風返巡査部長が家崎と村西の2人が近づかないように声をかけていた。ないとは思うが、2人になにかあれば盾になるつもりだ。民間人を危険に晒さず、守らねば。
捜査一課の加生野巡査部長と湯袋巡査は、出遅れたが鹿南警部のところまで追いついた。しかしそれ以上は、刃物を震えた手で振り回す鎚田で近づけない。鎚田は震えている。怖いのだろう。怒りに身を任せているが、足が竦んでいるように見える。我を忘れているため、無闇に近づいたり刺激したりするとどうなるか分からない。不安定な心。
このまま膠着状態を継続していると、ひょんなことから思わぬ方に向かうかもしれない。事態を変えるためには、どのようにすればいいのだろうか。
ある1つの事実について、このまま言うタイミングを渋っていても仕方ない。そう考えた悠夏は、ゆっくりと鎚田に告げる。
「この女性は、既に亡くなっています。そもそも、死んだ人物をもう一度殺すことはできません」
鎚田の様子は変わらない。怒りに身を任せた鎚田に、冷静に考えれば分かるかもしれない話をしても、理解できないだろう。いや、そもそも幽霊という前提を認めることが難しいだろう。悠夏は、言うよりも見てもらった方が早いと考え、隙を見せぬよう鎚田の方を見たまま、白装束の女性に握手を求める。
「すみません。握手を」
女性は頷いて、悠夏の差し出した手を触れようとしたが、通り抜ける。人間ではないという一発で分かる事実証明に、鎚田だけではなく常陸筑波警察署のメンバーも驚愕している。このとき、表情には見せなかったが、悠夏も少し複雑な心境ではあった。
「今夜だけ、この声を貸してください。必ず返しますから」
白装束の女性は鎚田に近づいて、ナイフに触れようとするが、やはり通り抜ける。
鎚田は言葉が出ない。苛立ちをどこにぶつければ発散できるのか分からず、力が抜けてその場に崩れ落ちる。不安定な心が折れた。鹿南警部はすぐにナイフを回収して、
「幽霊に殺人未遂はおそらく適用不可能ですが、佐倉巡査や我々警察に対して刃物を向けた事実は変わりませんよ」
公務執行妨害罪に当たるだろう。日浦は取り押さえていたため、問われるとすれば鎚田だ。精神鑑定で責任能力が無いと鑑定されれば、不起訴になるかもしれないが。そもそも動機の部分として、声を奪われたからという事の発端を証明できるだろうか。
「鹿南警部、その件は後回しでも構わないですか? 今は、彼女のことについて」
悠夏は名前の分からない幽霊の話をする。車で聞いた話は、あとから話すとして
「照明機器とスコップの準備をお願いします。場所は彼女が」
「はい。私が埋められた場所を案内します」
そう言って、これまでの事故で折れ曲がったガードレールをそのまま通り抜けて、森の中へ。一旦、鐃警と湯袋巡査、磯崎巡査長に日浦や家崎たちのことを任せ、悠夏と鹿南警部、加生野巡査部長、風返巡査部長、それと数名の捜査一課の巡査が、幽霊に先導されて森の奥へと進んでいく。
「風返さん、帰ろうとしたのでは?」
加生野巡査部長が、周りには聞こえないぐらいの声量で言うと
「目の前で見たんだ。帰れるわけないだろ」
「生きていて実際に幽霊を見るとは」
事故現場のカーブから100メートルくらいだろうか。不自然に土と草木が混ざったような場所がある。
「ここで私が死んでます」
白装束の女性が指し示す。自分の口から自分が死んでいる場所を指し示すという奇妙な光景だが、誰も疑いはしなかった。
「掘り起こすぞ」
加生野巡査部長の指示で、捜査一課のメンバーが土を掘り返す。埋められた場所は浅く、ものの数分で見つかった……
*
鑑識課のメンバーが到着し、捜査一課のメンバーを追加で招集することになった。時刻は23時半。
事故現場にブルーシートを敷いて、見つかった遺留品を並べていく。なお、今更の説明になるが、もともと事故検証のために今夜は通行止めにしている。警察のいる前で、また事故が起きることも考えられることから、予防策で行っていた。ここからは捜査一課がメインになる。加生野巡査部長は
「見つかった遺留品だが、免許証と髪留めやペンダント。遺体は白装束を着ており、そこの車に乗っている女性と同じ服装だ」
後から応援で駆け付けたメンバーは、それを聞いて不思議そうにしている。幽霊であることは伏せている。説明したところで、調書には書けないし、全員が把握する必要は無いだろう。白装束の女性は、車の中で特課が聴取を行っている。
(手やナイフ、ガードレールは透けるのに、車は透けないんだな)
考えても無駄だし、野暮なことかもしれないと思い、口にはしなかった。
ちなみに、家崎たちは車の中で待機してもらっており、鎚田と日浦は別の車で、また暴れないようにと監視下にある。
外で行う捜査会議だが、湯袋巡査から説明する。
「死亡したのは、免許証より茨城県常陸筑波市在住の松場 系さん、20歳の女性。鑑識課によると、死亡したのは半月前。おそらくここが開通する前後と考えられます。索条痕から、死因は絞殺の可能性が疑われます。松場さんは市内の大学生で、捜索願は確認できていません」
発見して間もないため、詳細はまだ分からないことだらけだ。加生野巡査部長は捜査員全員に対して、
「すでに半月経過している。おそらく、物証はすでに破棄されているだろう。この近辺の車通りは少なく、目撃証言も厳しいと考えられる。大学や友人周辺から捜査に当たるように」
はい。と、捜査員が返事をして、一旦解散だ。本格的な捜査は明け方からだろう。
車のドアが開き、勢いよく閉める音が響く。悠夏が車から降りて
「加生野巡査部長。ご報告が」
「特課の佐倉巡査、どうような報告でしょうか?」
来たばかりの捜査員がいるため、警視庁特課のメンバーであることを分かるように言った。悠夏からの報告とは
「被疑者が分かりました」
すると、捜査員達が騒めく。加生野巡査部長と湯袋巡査も驚いたようで、少し間が訪れた。加生野巡査部長は咳払いをして
「それで被疑者は?」
「被疑者は2名。1人は現在入院中の国岡 環さんです」
To be continued…
後書きに書くか本編に書くか考えた結果、心の声として本編に書きましたが、車は透けないんだね。
実体化できる説がありつつも、言及はしないかと。そもそも幽霊という前提で話しており、本当に幽霊なのかどうかも謎。死者からの証言を受け、事件捜査は果たして……




