第165話 東京の夜空を彩る花火が打ち上がるとき、拾陸
2019年7月27日土曜日の午後6時30分頃。第42回隅田川花火大会の第一会場より、花火が打ち上がるまであと35分。警視庁生活安全部サイバーセキュリティ課の会議室。倉知 音弥副総監は瀧元 瀧一巡査長に一言
「しばらく2人だけにしてもらってもいいか?」
「分かりました。何かあれば、外にいますので」
「ありがとう」
瀧元巡査長は会議室から退室する。倉知副総監はパイプ椅子に腰掛けて、鐃警の方を見る。
「どうした? キミらしくないぞ」
「……分からないんです」
「”何か”を分からないというキミに、”何”が分からないかと訊くのは酷かもしれないが、なんとなくでもいい思っていることを素直に言って欲しい。力になれるかもしれない」
”分からない”ということは、自分が解決策を見つけ出せないという事実を理解しており、”どう分からないのか”と訊くと、本人が”分からない部分”の手段が不明確であると理解していないと、他人に自分が何故悩んでいるか説明できないだろう。漠然とした分からないとき、何かしらの引っ掛かる部分があるが、手段もゴールも見えていないときだろう。
「昔の風景が見えたんです」
「どんな風景が見えたか言えるか?」
倉知副総監の声かけに、鐃警は自分の見た光景を感じたまま伝えた。1つは複数人でタクシーに乗って、新橋から築地や豊洲方面にタクシーで移動した記憶。1つは東京タワーのトップデッキで、誰かに手を差し伸べる記憶。1つは河川敷の花火大会。
「誰かと一緒にいた。風景は曖昧で、鮮明では無いか、なるほど。キミは、手を差し伸べたと言ったが、その手は……その……」
倉知副総監の訊きたいことを、鐃警は分かっていた。
「ヒトの手でした。全部、機械ではないです」
「そうか」
「でも、自分の記憶のようには感じられず……。自分は何者なのか分からなくなって……」
心理学でいうところの”アイデンティティクライシス”と言うべきだろうか。自分が何者であるかを認識することを”アイデンティティー”と心理学で言うが、その自己同一性を喪失することを、アイデンティティクライシスと言うそうだ。
「その記憶の場所へ行ってみるか? 何か掴めるかもしれない。勿論、私も一緒に行こう」
「でも……」
「怖いか?」
倉知副総監の問いかけに、鐃警は頷いた。怖い。自分が自分で無くなってしまうようで……。記憶を取り戻したら、今の自分がどうなるか分からない。今の自分と、記憶があった昔の自分は別人のようだ。だから、どうなるかが分からないから怖い。
「無理をする必要なない。だが、越えねばならない高い壁である。壁を乗り越えた先の景色がどうなっているかは、壁を登り切るまでは分からない。いつ起こるか分からない壁の決壊を恐れて、怯えながら逃げるのも一つだし、越えるために自分に挑戦するのも1つだ。自棄になって自分から無理矢理壁を壊すことだけは、無謀な賭け事だから、唯一お勧めはしないがな。混ざって、どっちにも戻れなくなるからな。慎重に選んだ方が良い」
すると、鐃警はまた黙り込んだ。倉知副総監は少し考え
「もしかして、背中を押して欲しいか?」
鐃警はすでに自分がすべき結論が出ている。だけど、踏み出せないのかもしれない。そう思って、聞いた。
鐃警は静かに頷いた。「分かった」と倉知副総監は言い、パイプ椅子から立ち上がる。両手を前に出し、鐃警の背中に触れると、そのまま力を入れる。すると、鐃警が床の上をずるずるを押し出される。しばらく押し込んだあと、倉知副総監は
「これくらいでいいか?」
と、鐃警の背中から手を離すと、鐃警が振り向いて瞼をパチパチとする。若干、笑いを堪えているように見えた。
「背中を押すって、物理的に押す人がどこにいるんですか!?」
「ここにいたな」
と、何故か誇らしげに言う倉知副総監に、鐃警は
「いやいやいや!」
と、いつものテンションに戻る。
「元気になったな。そしたら行くか」
「そんな荒治療ありますか?」
「荒療治な」
「うう゛っ」
言い間違いを即時に訂正されて言葉に詰まった。鐃警は咳払いをして、切り替える。
「それで? まだ本調子じゃ無いですけど……」
「公安からのタレコミだ。2人の命が危ない。場合によっては、花火大会でパニックが起こる」
「公安部の人がどうして……?」
「公安課の人間だ」
鐃警はそう言われて、理解するのに時間がかかった。徐々に意味が分かり
「”サッチョウ”の人間ってことですか?」
「そうだ。警察庁警備局公安課の2名の命が狙われている。盗聴や監視の恐れがあり、第三者が関与するのは難しい」
「どうするんですか?」
「爆発物探知機を持って迷い込み、さりげなく干渉して、爆発物を発見し、解体もしくは船に投げ込んで、回収させる」
「……そんな無茶な」
「無茶でもやらねばならない。隠密に。スパイの仕事みたいなもんだ。ほら、最近漫画を読んでるって言ったよな?」
「漫画と現実は違いますよ? 倉知さん? 本当に倉知副総監ですか?」
副総監のときとは違う悪巫山戯に、鐃警が心配してしまうほど。倉知副総監は真面目に巫山戯ており、
「こうでも言わないと、キミがキミらしくならないからな。時間が無い。キミの力が必要だ」
「わ
→”かりました」”と言い切る前に、台車が用意されて載せられると、急いで廊下へ出る。
「まだ言い切っていないんですけど」
と鐃警が言うときには、エレベーターの中だった。
「通常の移動じゃ間に合わない」
と、覆面パトカーに乗る。警告灯はすでに出ており、鐃警と倉知副総監は後部座席へ。では運転するのはというと
「あれ? 鴨井さん?」
首席監察官の鴨井 尚夫警視正が運転席に座っていた。
「鴨井警視正がどうしてもと言うので」
嘘だと分かるような言い方だった。鴨井警視正は、覆面パトカーのサイレンを鳴らして、アクセルをゆっくりと踏み込む。
「監査室に帰る道中、この人に捕まってな」
「……それは災難でしたね」
警視正という4番目の階級にして、副総監にパシられたようだ。鴨井警視正は監査官のはずだが……。覆面パトカーは、渋滞する道路を掻き分けるように走行し、目的地へと急ぐ。20分ぐらいで到着できるだろうか。
To be continued…
先週の第166話で2014年に設定しましたと言いましたが、鴨井警視正を出す際に前後の話を読み名をしていると、鐃警が2015年に配属されているという記述があり、完全に忘れていました。矛盾はしないと思うのでこのまま行きますが、ちょっと間違えると矛盾してたな……。
鐃警が捜査へ復帰。鐃警の背中を(物理的に)押したのは、長年の付き合いである倉知副総監。まるで家族のよう。ちなみに、倉知副総監の家族については、近々書くと思います。書くなら劇中で8月の長編かな。
隅田川花火大会の話は、次回から花火が東京の夜空を彩りつつ、事件が進みます。




